【小説】グラディアトリクス #1
イセマルは男の娘だ。彼は、その言葉の正確な意味を知らない。
だから、彼が自分をそのように認識し得るのは、自分を買ったオノキがそう仕向けるからだった。
オノキは50代くらいの、灰色の口ひげを蓄えた日本人だ。背は高くないが、がっしりとした体格で、横幅はイセマルの三倍はある。手足は短く、白髪交じりの髪を、いつもたっぷりの整髪料で後ろに流していた。
それでも、不潔な印象はなく、むしろ老犬のような鋭さと、優雅さを持っていた。
イセマルは己の出自を知らない。物心ついた頃には、自慰を覚える代わりにAKを握らされていた。
母親はどこからかかどわかされてきた娘で、きっと誰でもよかった。
彼女をさらった人間も、かつては少年兵だった。父親は彼らのうちの誰かで、やはり誰でもよかった。
いまさら誰もそんなこと、彼自身だって、気にしちゃいなかった。
◆
3年とちょっと前、イセマルはオノキに、1カートン分の紙巻き煙草と同じくらいの値段で買われた。
そのころ彼はまだ小さな男の子で、名前はなかった。
「おまえは、今日から自由だ」
最初にオノキはかがみこんで、彼の手を両掌で包み込んだ。その手は大きかったが、掌は柔らかかった。
まっすぐにこちらを見て、一言ずつ、噛んで含めるように言う。
「だが当面、おれの言うことを、聞いてもらう。それが一番、おまえにとっても、いいことだと考えてそうする。いやなときは、『いやだ』と言え。いいな」
言葉の意味をよく理解できないのか、男の子が何も答えないでいると、優しい声音でたしなめた。
「愛想よくしろ。よく笑え。おまえは、優しい人間になる」
それで、ようやく「はい」という返事が返ってくる。
返事を聞いて、オノキは彼に出来得る限りのやわらかい笑みを浮かべた。
彼は社会悪で、法を犯すことにもためらいはなかったが、目の前の少年に、少しでも清潔そうに見られたい気持ちは別だった。
「さて……いろいろ話し合った末、おれは、おまえの名づけ親を任命された。こういうことを、やったことはないが……いくつか、名案かもしれないアイデアはあるんだ。気に入らないときは、ちゃんと『いやだ』と言えよ。そうだな……」
その日から、男の子はイセマルになった。
イセマルになって、〈トーキョー・プライズリング〉の剣闘士になった。
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