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【小説】エルフの結婚 #3


 その晩、あたしは疲れで早々にベッドに潜り込みながらも、やはりうまく寝付けずに過ごした。ようやく深い眠りについたのは明け方近くのことで、おまけに、久しぶりの実家があまりにも心地よかったのか、予定よりも2時間以上寝坊してしまった。

「相変わらず、だらしなくて困りますね。ほら、すぐに準備しないと、間に合いませんよ」

 50年ぶりに、母親の小言から1日が始まった。すでに食卓は片づけ終わっており、スピカもすでに家を出たあとだった。
 あたしは大慌てで着替えと化粧を済ませて、朝食代わりにお茶を一杯流し込んで、会場に小走りで向かわなければならなかった。

 おかげで、会場についたころには、腹の虫が抗議の叫びをあげまくっていた。
 あたしは記憶もあいまいとなった親族にふにゃふにゃと笑顔を振りまきながら、何か食べられるものはないかとあたりを探し回った。

 思えば、スヴェンと暮らし始めてから、早い遅いはあっても、朝食を飛ばしたことはない。あの長身の後輩は極めて厳粛な家庭に育っており、1日のスタートを怠慢から切ることを決して許さなかった。
 よって、こんな空腹は久しぶりだ。あたしは腹の音を周囲に聞かせまいと、なるべく式場の後ろの方に陣取ったが、これは明らかに失敗だった。

 なぜなら目の前に、いくつもの料理の皿が、香しい湯気をたてながら並んでいたからだ。

 神饌と言われるこれらの料理は、森の精霊の取り分であり、式の最中には、決して手をつけてはならないという固いしきたりがあった。

 地域によっては、終わってから皆で食べるところもあるらしいが、このあたりでは『森に返す』といってすべて撒いて捨ててしまう。
 中には、あたしの大好物のワッフル(これはふつうより薄味に作ってあるから、見た目ほどうまくはないはずだ)さえ並んでいて、今のあたしには、食欲を抑えがたい光景だった。

(もったいねえよなあ。こんなうまそうなもんを)

 街で粗食にあえいでいた時期もある身としては、そう思わずにはいられない。

 すでに会場の中央に、スピカとコノワもいた。

 美しく着飾ったスピカの花嫁姿に、あたしは感動の涙をこぼしそうになった。執拗に眼鏡を拭いて、この光景を目に焼き付けようとする。

 婚姻の儀式が始まるまでのわずかなあいだ、花嫁たちに、参列者がかわるがわる挨拶をする時間があった。
 有名な放蕩娘であるところのあたしはさすがに周囲に気まずいこともあって、用意した花束を渡してそそくさと引っ込んだ。スピカは昨日と打って変わって華やいだ笑顔を浮かべて応えてくれた。

 幸せそうな2人の姿に、あたしはほっとした。50年という時間はそれなりに多くのものを変えたようだったが、この2人の関係についていえば、よい変化をもたらしていたに違いなかった。

 ところが、2人で親族の相手をしているうちはよかったが、それぞれの知人が集まっての歓談をはじめると、コノワがまるっきり浮き始めた。
 スピカが女友達たちのところでちやほやされている間、この渋面を浮かべた花婿は、(お気づきかもしれないがこいつに友達らしい友達はいない)会場全体を睨みつけるように仁王立ちしていて、近寄り難い空気を隠そうともしなかった。

 こうなると、親族たちでさえ遠巻きで見守る他なく、会場の隅でぽつねんとつっ立っている彼に、あたしはたまらず声をかけた。

「おい,お前さ、結婚式の時くらい、ちょっとは楽しそうな顔しろよ……」

「……む。いや、そうだな」

 そう言って、きわめてぎこちない笑顔を浮かべた。そのあまりの恐ろしさに、周囲に描かれた群衆の円弧がぐわっと広がる。
 あきれてため息が出る。どうしてこうなっちまったんだ。

「お前、昔は笑うとかわいい顔してたのになあ」

「……そのせいだ」

「……はあ?」

「お前とスピカに、笑顔を、か……わいい、女の子のようだと言われたのが、子供心にショックでな。……それ以来、もっと男らしくならねばと、面白くても難しい顔をして過ごすようになった」

 そうしたら、元に戻らなくなったんだ。とコノワは言った。
 ぶっ、むちゃくちゃ真顔でアホなこと言うじゃん、コイツ。

「その話、スピカにはした?」

「……できるわけないだろう。お前と違って、彼女はきっと気に病む」

 その返答に、ついに耐えきれなくなって、腹をかかえて笑ってしまう。

 いや、あいつはきっと喜ぶね。ちょっとサドっ気あるからね。
 絶対あとでチクったろ。

「はー、とにかく、おめでとう」

 ひとしきり笑った後、そこであたしはようやく、素直に祝福の言葉をかけることができた。

「お前が昔と変わってなくて、安心したよ。妹の相手が、よく知ってるやつでよかったって、心から思う」

 同年代でも飛びぬけて大柄なコノワの顔は、背伸びをしてもなお遥か頭上から見下ろしてくる。

 それがちょっと腹立たしかったあたしは、やつが着ている伝統的な緑の礼服の襟を引き寄せ、鳩尾に指を突き立てて言った。

「いいか、あの子に寂しい思いをさせるなよ。何があっても守れ」

「……」

「オイ、返事しろよ」

「呆れてものも言えなかっただけだ。これが自分のことを棚に上げるという奴だな」

「……」

 はっきり言いやがって。ばつが悪くなって黙りこくるあたしに、コノワはしてやったりといわんばかりの笑顔を浮かべて言った。
 
「言われるまでもないことだ。お前も、生きているなら10年に1度くらいは、顔を見せろ」

 今度は、子供のころのような、屈託のない自然な笑みだった。

 森のエルフの結婚式は、連続する厳格な儀式の数々によって構成される。

 長老が祝詞を諳んじ、新郎が、次いで新婦が古エルフ語でなんらかの宣誓をする。そのあともあたしにはよくわからん祈りだったり音楽だったりが繰り返されて、すべてが終わるのは昼すぎになる。
 それらすべての行程がなされて、はじめてその結婚は森に祝福されるのだという。このしきたりを守れないと、よい婚姻にはならない。

 儀式の途中に花嫁の粗相があったばかりに、婚約そのものが取り消しとなった例もあるのだとか。

 あたしはなるべく目立たたない位置に座って、身体を折りたたんで空腹に耐えていた。
 会食や催し事は、儀式がすべて終わった後、つまり、まだ数時間の間、何も食べられないということだ。

 いまはちょうど、里の楽師によって、妖精に捧げる歌が演奏されている。
 心地良い音楽に、つい、うとうととしてしまう。いかん。これまでの寝不足が一気に効いてきた。

 目を覚まさねばと思い。あたしは手元の水を飲んだ。そして、『無意識のうちに目の前の皿から何かをつまんで口に放り込んでいた』。
 それを、偶然横に座っていた親族の幼い娘が、思いのほか大きな声で咎めた。

「お姉ちゃん、それ食べちゃダメだよ」

 折り悪くも、ちょうど音楽がひと段落して、あたりが静かになった瞬間の出来事だった。
 会場の全員の視線が、一斉にあたしに向いた。

 だからって吐き出すわけにもいかないし。あたしは右から左に眼を泳がせながら、咀嚼も嚥下も止めることができなかった。
 
 もぐもぐ、もぐ。

 気まずい沈黙が流れた。

 ごくん。

「あなた、なんてことを……」

 母親が、怒りとかよりも驚愕の表情であたしを見て言った。

(やっべ)

 と、あたしは思った。恥ずかしさと後悔で、今自分の顔が赤いのか青いのかもわからなかった。
 いや、だって、いい匂いだったからさ。

 その後、いたたまれなくなったあたしは群衆にまぎてそそくさと退散したが、伝え聞くところによれば、式は滞りなく行われ、美しい花嫁は終始、笑顔を振りまいていたという。

 晴れ姿を目に焼き付けられなかったのは心残りだが、とにかく、あたしは落ち込んでいた。神饌の文化についてはたびたび批判をしてきたが、だからといって妹の結婚式で無作法を働いてまで反意を示すほど、攻撃的でも信念に忠実でもなかった。

 つまりはまったくの無意識のうちの行動で、なおさらあたしは自己嫌悪に苛まれた。

 ことによっては、相手の親族との関係も悪くしてしまうのではないか。
 ひいては、スピカちゃんに嫌われるのではないか。

 そういう不安にかられ、夕食の食卓に向かう足どりは重かった。
 果たして、そこに妹は現れず、あたしは拒絶された気がしてなお落ち込んだ。

「スピカはまだ寝てます。帰ってきてすぐ、眠っちゃったみたい。きっと疲れてたんですね」

 母のその言葉にも、あたしは曖昧にああ、とかうん、とか答えることしかできなかった。

「まだ落ち込んでるんですか、はやく食べて元気を出しなさい」

 たしかに、当初は落胆で食欲もわかなかったが、こうして食卓で臭いをかぐと、一気に空腹が思い出されて腹が鳴った。

 ところが、目の前に出された料理を改めて見て、またあたしの手が止まってしまう。
 皿に盛られていたのは、昼間あたしが一口かじったワッフルの残りだった。揚げた鶏肉がのせられ、たっぷりのシロップが掛けられている。

「……母さん、これ、神饌じゃない?」

 何かの間違いだと思い、あたしはおそるおそる聞いた。

「森に返すんじゃ……」

 両親は顔を見合わせ、どっと笑った。

「あなたねぇ、何十年前の話をしてるんですか」

「ええ? でも、儀式は……」

 だいたい、何十年前って、わりと最近じゃん。

「なんでもかんでもしきたり通りにしてたら、もったいないじゃない。いいから、さっさと食べちゃいなさい。式の途中につまみ食いするくらい、おなかが減ってたんでしょう?」

「ガーディは、子どもの頃からよくつまみ食いをして怒られていたな」

 父が言った。

 そうだ。60年以上前、神饌に手をつけたあたしに、普段温厚な母親が鬼のような形相になり、平手を食らわせたことを、はっきりと記憶している。
 そのあと、半日くらい、庭の木に吊るされたんだ。

 『つまみ食いをして怒られた』なんて、かわいらしい思い出では決してない。

 そう思っている間にも、両親は皿の上の料理をむしゃむしゃと食べ始めた。

 おいおい、禁忌はどうした。伝統は。しきたりは。
 あたしがかつて戦っていたものたちはどこへ行った。
 年老いて死んだ・・・・・・・のか? あれって、そういうものだったのか?

 こわばっていた身体の力が、一気にすとんと抜け、あたしは唖然とした。

「向こうの家の人だって気にしちゃいませんからね。コノワさんなんて、『あいつの腹減りは相変わらずか』って、むしろうれしそうにしてましたよ」

 なんだかすべて、バカバカしくなってしまった。しかたがないので、大好物のワッフルに、大口をあけてかぶりついた。

>>エルフの結婚 (4)

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