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「自己啓発」という言葉

先日、読んでいた本が「自己啓発」というジャンルに含まれていることに気付いた。
結構面白く読んでいたのだか、「あぁ、自己啓発、なのか」と残念がる自分がいた。

「自己啓発」という言葉が流行りだしたのは、いつ頃からだろうか。
僕は昔から、「自己啓発」という言葉が大嫌いだった。
なぜなら、「自己啓発」という言葉自体の存在意義がわからないからである。

”自己啓発本”を読んでいる時点で、既に本の著者や出版社から、知識のインプットを促されている。
”自己啓発セミナー”にも、必ず自分ではないスピーカーが存在する。
この時点で、既に「自己」ではなくなっているのではないだろうか。

よりヒドイと感じるのは、友人や知人、会社の人間から「自己啓発を推奨される」ことである。
「自己啓発」を他人から勧められている時点で、もはや意味不明である。

このように、他者が「啓発」に介入している時点で、「自己啓発」ではない。
だから、「自己啓発」という言葉が、本・セミナーのジャンルとして、推奨の対象として存在するのは、どうもしっくりこない。


では、他人が全く介在しない状態での「自己啓発」はどうだろうか。
こちらについても、僕は「自己を啓発する」という言葉の存在意義がよくわかっていない。
勉強する、知識をつける、本を読む・・・これらの言葉で十分である。
それなのに、わざわざ「自己啓発」という言葉が生まれたのは何故だろうか。
最初に「自己啓発」という言葉を作った人は、「あ、今の自分は自分自身を啓発しているんだ!」とでも感じたのだろうか。

そもそも「自分自身で自己を啓発していることに気付く」とは、どういうことなのだろう。
「啓発されていることに気付いた自分」がいたとしたら、「啓発していた自分」は、果たして同一人物なのだろうか。
自分は一人しかいないのに、「啓発する自分」と「啓発される自分」がいるとは、どういう状況なのだろうか。
考えれば考えるほど、よくわからなくなってくる。


取り留めのない文章になってしまったが、「自己啓発」という言葉に嫌悪感を抱く者がそれなりに存在するのは、「自己啓発」という言葉が矛盾や違和感の塊であるからではないだろうか。
こういった理由から、少なくとも、今の僕には「自己啓発」という言葉自体の存在意義がわからない。
この言葉が生まれてからずいぶん長いこと経っているはずなのに、未だに言葉の意味を理解できないでいるのである。

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