ババアが愛した数式

プロローグ

優しい木漏れ日が差し込む窓辺でじっくりと書類を眺める。傍らでは,怒鳴り声で指示が飛び交い,苛立ちを隠せない顔で慌ただしく動き回っている社員たちがいる。それでも,ババアは窓辺でじっくり書類を見つめる。2日前の書類をじっくり,ゆっくりと....


ババア爆誕

そのババアがバイト先に現れたのは,日中の日差しに汗ばみ始めた夏の始まりだった。大きな麦わら帽子をかぶり颯爽と現れた彼女は,マリーゴールドに見えた。見た目は,トトロの黒酢炒めのようであり,こんがり焼けた褐色の肌と恰幅の良い見た目がチャームポイントだった。勤務初日から,その存在感を遺憾なく発揮し,我々の目はくぎ付けにされてしまった。


私のバイトは簡単に言うと,それぞれの日に決まったモノを探し出し,メンテナンスをする,と言った具合の仕事である。分かりやすいように,今回はトーテムポール販売会社として,毎日決められたトーテムポールを巨大な倉庫から探して納品する仕事と考えてほしい。


ババアは無能,you know?

仕事は,トーテムポールの型番が記された紙をもとに倉庫の中からトーテムポールを探すことから始まる。倉庫はかなり広いので,生き当たりばったりで倉庫に突っ込むとかなり時間を取られることになる。そこで,型番から大体の場所の目星をつけて,最適回収ルートをつくるという作業をする。と言っても,この作業自体はそんなに大したことないので,せいぜい5分くらいあれば大体の場面は終わる。しかし,ババアはというとこの作業に死ぬほど時間をかける。大体1時間以上はこの作業に充てている。はじめは慣れない仕事で大変だろうと大目に見ていたが,あまりにも長すぎることが続くと,仕事をしている風に見せかけたサボりなのではないかと噂され始めた。しかし,それは依然我々の邪推に過ぎないため,しばらくはそのままにさせておくことにした。


ババア覚醒

2019年10月消費税が10%になった。増税前の駆け込み需要の波はトーテムポールにもおよび,9月末は空前のトーテムポールラッシュで目が回るほど忙しかった。発注されたトーテムポールは前月の5倍はくだらない勢いで,それに伴い,トーテムポールメンテナンス部門もトーテムポール納品部門も猫(耳メイド)の手も借りたいほど大忙しだった。したがって,倉庫内でトーテムポールを探す時間があるくらいなら,メンテナンスするか,納品に行くかが求められたのだ。


それにも関わらず,ババアは積極的に書類をにらみ続けていた。

1秒でも早く移動するために走り回る社員の隣で,窓辺の暖かい席にしっかりと腰を下ろし書類に目を通し続けた。

納品ミスがあり,上司の怒号が飛び交う部屋の隅で,静かに書類に目を通し続けた。

昼ごはんも食べる暇もなく働きまわる社員の隣で,こんにゃくゼリーを咀嚼しながら書類に目を通し続けた。

目を通し過ぎて口も鼻も通ってしまったがそれでも書類に目を通し続けた。


もちろん,書類に目を通しているだけではババア担当分のトーテムポールはたまっていく一方で,前日に残してしまった分が繰り越されるようになった。前日分と本日分の仕事量である。それでも書類作業に時間をかけまくるババア。ついに前々日に残した仕事も繰り越されるようになった。前々日分と前日分と本日分の仕事量である。なんとか立て直そうと奮闘するババアであったが,やはり書類作業に割く時間が多すぎるので前々日分が何とか終わるだけで,常に2日前と1日前の作業が当日の作業に加算される状態になってしまった。


そう、これはフィボナッチ数列である。(フィボナッチ数列とは1.1.2.3.5.8...のように前2つの数字を足し合わせ続けた数列のことである)ババアは常に前2つの仕事を足した仕事をしているのである。


また,フィボナッチ数列は,人間が美しいと感じる黄金比と関係がある。これは,ババアが仕事を通して美を追求していたということを意味する。私を含む他の社員が盲目的に目の前の仕事を対処している中で,ババアだけはその裏にたゆたう美を鋭い目線で貫いていたのである。



エピローグ

結局ババアは左遷された。確かにババアは一見サボっているように見えたかもしれない。しかし,最も残念なのは,行動の真意である「美」に目を向けず,無能という烙印を無思考に押す現代社会の在り方である。美や芸術に目を向けず,実利のみを重視する社会は,さながら枯れた睡蓮のようである。この荒廃した世界で生きる我々に,人生を鮮烈に生きようとするババアを批判する資格はあるのだろうか。


多少仕事が遅くてもいいではないか。


決められたやり方で仕事をしなくてもいいいではないか。


当日3分前に欠勤の連絡を入れてもいいではないか。


10分に一度休憩を取ってもいいではないか。


毎日使う訳ではいなら会社の備品を持って帰ってもいいではないか?




ババアが残した美しき数式は,今でも我々の心に深く残っている。


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