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父が亡くなった話

(過去のブログからの移植です)


もう抗がん剤治療で出来ることは無いんだって。あと病院でやれるのは緩和ケアだけだから、入院じゃ面会もできないし自宅で看ていくことにしたの。という旨を連絡してきた母は、心底不服そうに「仕事は予定通り復帰するんだって」とため息まじりにぼやいた。心配や不安よりも先に、咄嗟に私の口から出た言葉は「次お父さんが出る公演っていつ?」だった。


田舎の交響楽団のコンサートとはいえ、S席はもう2階席しか残っていなかった。適切な距離のためにひとつ飛ばした隣に座る母は、どうにも心配でたまらないという様子でずっとそわそわしている。「リハに出る時だって毎回無事に帰ってきてくれるか不安なのに…」「今朝もあまり食べられなかったし、本番は特に体力使うのよ」「肺も痛いみたいでね、練習しててもうまく息が入らないって言うの」などの情報を聞かされながらも、私はプログラムの曲の解説を読んで冷静を保つ努力をした。


携帯電話の電源は…とアナウンスが聞こえてくると心臓がドクドク鳴るのを感じる。来る前は「仕事をやる気があるってことは、それなりの元気と気力はあるのかな」とぼんやり思っていたのに、お父さん、たった今もすごく具合悪いみたいなのに、ステージに立って本当に大丈夫なの…?そんなことを考えている間に、舞台の照明が微妙に切り替わって、客席からの期待に満ちた拍手と共に奏者たちが次々と壇上に上がってくる。

父の姿はすぐに見つかった。数か月前の記憶の中の姿よりもずっと痩せていて、頬はこけているし、髪は白髪でいっぱいになり、杖をついて他の人に支えてもらって歩いている。そうしてゆっくりとフルートのファーストの席に座った。


指揮者がスッと指揮棒を上げると、奏者たちも一斉に楽器を構える。観客たちが息を飲んで音が鳴る瞬間を待つ静寂の時間、私はなにか祈るような気持ちだった。



何年か前、晩酌中の父が唐突に私に質問したことがある。

「フルートの音の正体って何だか知ってる?」

音なんだし、そりゃあ空気の振動なんじゃないの。と答えると、それを待ってましたという顔で父は首を横に振った。

「フルートは振動体の無い楽器なんだよ。リコーダーやビール瓶を吹くと音が鳴るのと仕組みが同じで、ただ息が通り抜けている音なんだ。」

「じゃあフルートの音の正体は、息そのものってこと?」

「その通り。ところで、息という漢字はどうやって書くか思い出してごらん」


父のソロパートを聴きながら、私はそんな父のほろ酔い高説を思い出していた。息とは、自分の、心。そのフルートは本当に見事で、大変美しかった。肉体の若かった頃、ある種の全盛期と呼べる時期とはまた違うのだろうが、父の豊かで深い息は、人生をかけてひとつのことを努め続けた人間の珠玉の音色である。息が入らないって言うの、と母から聞いたのが信じられないほど音が伸びる。幾多の楽器と調和して会場に響きわたる。

アンコールが終わった時、私はこれが父に送る最後の拍手かもしれないと思った。実際その公演が父の最後のステージになった。


その3週間後、父は亡くなった。母の手を握って、眠るように逝ったそうだ。


数えきれない程の歴代の門下生、楽団員や楽器屋や父の昔の師匠まで、葬式の日まで延々と弔問客は途絶えず、みな父の死を悼んでいた。数日の間に私は背中が固まって痛くなるくらいお辞儀をし続け、ひたすらお茶を出したりお礼を言ったり香典返しを渡したりした。母は泣きどおしでずっと目が腫れっぱなしだった。10分も空き時間ができたら給湯室で簡単なものを食べたり手続きや葬式のことを決めたりする。1月に祖母が亡くなった時とも全く違って目まぐるしい日々だった。

葬儀会場は壁が全てスタンド花で埋まり、焼香よりも花の香りが立ち込めていた。父の書き残していたようにリサイタルの演奏の録音を流した。


父が亡くなったことはしょうがないと思う。病気はかかるも治るも突き詰めれば運だと私の主治医の先生が言っていたことがあるが、冷たい娘の私は似たようなことを父の死にも思った。ただ、私の世界で一番のフルートの音色がこの世から失われたことは、本当に今でも信じられない。CDに閉じ込められていても父のビブラートは一級品で、「この音はどこ探したって親父にしか出せない」と兄も号泣していた。他人からすれば一介の芸術にすぎないが、このフルートで私たちはごはんを食べて学校に行っていたのだから、そういう意味でも特別な音色なのだ。


「こんなことを言うのもなんだけど、良い式だったねえ」と駅までの車の中で夫のお父さんが言ってくれた。それはとても報われる一言だった。母には食べきれない大量の菓子と、喪服で丁重に包んだ父のCDを持って私は夫と東京に戻った。父の戸籍の関係で、東京の役所でやらなくてはいけない手続きもいくつかある。



それから何日かして、夢を見た。

私は実家のダイニングの椅子に座っている。母がキッチンで料理しているのがカウンター越しに見える。部屋には西陽が差しているので夕食の支度をしているのだろう。

隣の席を見ると父が座っているので驚いた。父はすでに亡くなっているはずだ。

お父さん、どうしてここにいるの?と聞くと「いや、ちょっと一服しようと思って」と軽く言って缶ビールをあけてグラスに注いだ。喉を鳴らして何口か飲むと「はぁ~冷たい」としみじみしている。棺にもビールは入れたけどあれ常温だったもんなぁ、ぬるくて物足りなかったのかな、と私は納得した。

父はビールを片手に、目を細めて言う。

「お父さん、仕事のあとにこうやって飲みながら、お母さんの作る料理を楽しみに待ってるこの時間が本当に幸せだったんだ。お母さん、本当にありがとうね」

父はキッチンにいる母に向かって手を振るが、母に父は見えていない。それでも父はしばらく母に手を振り続けた。


グラスが空になり、そろそろ行かなきゃいけないと言われた。私は父に何か伝えなければと思い、焦りながらも必死に言葉を絞り出した。「私のお父さんになってくれてありがとう、お父さんは良いお父さんだったよ」。私は彼に「自分は娘に良き父だと思われていた」という気持ちを持って逝ってほしいと心から思ったのだった。父は満足そうに笑ってくれた。


私は自分の涙で目が覚めた。すぐに母に電話をして伝えたら、「今はもう痛くないんだね、元気な姿で何も苦しくないなら本当に良かった」と泣いていた。それを聞いて、母は父のことを心から愛しているのだなあと思った。



楽団に残されていた父の譜面台の台紙は、楽団の事務の人が届けてくれた。それを開くと私の七五三の時の大きい写真が貼られていて恥ずかしかったが、楽団員の間では有名な話なのだと聞かされてさらに赤面した。最後の公演の次に演奏するはずだった楽譜をそれにはさんで棺に入れた。

父が父なりに私を愛してくれていたことが、こんなふうに後から物として少しずつ出てくるものだなあと思う。年末は早めに帰省して遺品整理をすることになっているが、ずいぶん大変そうだ。ここ1年くらいずっと実家関係に疲れては東京で回復してまた実家に行って…の繰り返しだった気がする。来年はそのあたりがもう少し落ち着いたらいいなと思う。



2020-11-20
『世界一のフルーティスト』

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