見出し画像

『ヤニス 無一文からNBAの頂点へ』出版記念スペシャル対談:宮地陽子 ✕ 大西玲央 その②「アメリカに馴染める選手と馴染めない選手の違いとは」

『ヤニス 無一文からNBAの頂点へ』の発刊を記念して、翻訳を担当した大西玲央氏がNBA取材のパイオニアであり大学の先輩でもある宮地陽子氏と対談した。ヤニスが象徴する現代NBAのポジションレス化について語り合ってもらった前回に続き、今回は国際化についてたっぷりとトークしてもらった。

その①はこちらから

海外の選手を育成できるシステムをリーグが整えた

玲央 現代NBAはポジションレスに加えて、国際化の流れも1つのキーワードになっていると思います。そしてヤニスはその国際化を象徴する選手でもあります。宮地さんの取材歴のなかで特に印象に残っている海外選手はいますか?
 
宮地 トニー・クーコッチはルーキーのときから近くで見ていたので、すごく印象に残っています。アメリカに来たときは細かったし、英語もまだそんなに堪能じゃなかったのですが、ジョーダンがいてピッペンがいてという難しいチームに入って、自分の居場所を見つけていったという意味ではすごく印象に残っている選手ですね。
 
玲央 90年代、2000年代は、ヨーロッパの選手が来ると「どうせまた細いシューターが来るんだろ」みたいな雰囲気がありました。
 
宮地 ソフトで、ディフェンスが弱いイメージでしたね。
 
玲央 「どれだけヨーロッパで活躍していたのか知らないけど、NBAでは耐えられないよ」みたいな雰囲気が、どこかをきっかけに変わっていったと思うんです。そのきっかけとなった選手は誰だと思いますか?
 
宮地 交通事故で亡くなったドラジェン・ペトロヴィッチはすごくタフな選手だったので、ヨーロッパ人の印象を変えたと思います。あとはディフェンスという意味ではアンドレイ・キリレンコでしょうか。
 
玲央 たしかになあ。ああいう活躍の仕方もあるんだ、というのを知らしめたのがキリレンコでしたね。
 
宮地 そうですね。おそらく以前ならヨーロッパに行ったときに探すのはシューターだったはずですが、いろんな選手がNBAで活躍したことによって、スカウトの見方も変わってきたと思います。
 
玲央 今は国際スカウトの市場がすごく広がっていると思います。おそらく宮地さんが記者を始めた頃はそんなにいなかったですよね?
 
宮地 90年代はスカウトを抱えるのではなく、現地の人と契約しているという感じでした。ブルズもユーゴスラビアにいたスカウトと契約していました。そのスカウトは結局クーコッチと一緒にブルズ入りすることになるのですが。今はGMでもスカウトでも、いい選手がいると聞けばどこにでも行くし、そういうところはお金に糸目をつけません。インターネットの発達によって「こういう選手がいるよ」という情報の伝達が速くなったことも関係していると思います。
 
玲央 ここ数年で大きく変わりましたよね。ヤニス本でヤニスのドラフトされたくだりを読んでいると「ヤニスって誰?」というとこから始まっているんです。
 
宮地 あはは。
 
玲央 でも今は「海外にすごい選手がいる」という情報が1、2年ぐらい前から入ってきます。その差は大きいですよね。
 
宮地 Gリーグができたことも大きく関係していると思います。90年代はGリーグもDリーグもなかったので、チームのロスターに入れられなかったら取る意味がありませんでした。あるいはドラフトで指名しても、ロスターに入れないと思ったらヨーロッパで数年プレーを続けてもらっていました。そういう意味では、ロスターの枠も広げたし、Gリーグと提携するようになったし、2ウェイ契約も作ったし、育成できるシステムをリーグが整えたことによって、海外から呼んできた選手を2、3 年かけて温かく育てる余裕ができましたよね。

アメリカの競争社会に馴染めない選手にはNBAの世界は厳しい

玲央 最近はヨーロッパを筆頭とした海外選手が活躍していて、それこそシーズン終わりの個人賞をヨーロッパの選手ばかりが受賞するという年もあります。しかし、そんな流れにあってもアメリカ人選手は活躍し続けています。その理由は何だと思いますか?
 
宮地 選手の数が多いですよね。裾野がすごく広い。アメリカは最初から競争社会なので、高校のチームに入るのにもトライアウトですし、AAUでもトップチームはトライアウトして選手を取っています。そういう競争のなかを勝ち抜いてきた選手が残っているから活躍できるのだと思います。ただ、アメリカ人のコーチに言わせるとそれは良し悪しで、若いうちは競争させるだけではなく育てることが必要だと思っているコーチも多いみたいです。
 
玲央 アメリカ代表を見ていると、どうしてもビッグマン不足が否めません。アメリカ代表としてビッグマンを育てたいという発想はあるのでしょうか?
 
宮地 代表として育てたいとまでは思っていないと思います。アメリカのビッグマンにそこまで器用な選手がいないので、代表に入れてみたものの全然活躍できなかったという例がたくさんあります。だから代表として育てるというのは違うかなと思います。それよりも、もしこの国際化のトレンドが続いていった場合、弱小のヨーロッパの国にすごくversatileな(多才な)ビッグマンが出てきたら、その選手をアメリカに帰化させるということが考えられますよね。オラジュワンという例もありますし。もっともオラジュワンの場合は帰化させたわけではなく、先に本人の希望があったわけですが。強豪国だともともと代表活動に参加していると思うので、そういうことはできないと思いますが、弱小国であれば可能性はあると思います。
 
玲央 たしかに。弱小国から引っ張ってくるのはありかもしれないですね。おもしろい。
 
宮地 ヤニスはギリシャとパスポートの問題で揉めていたので、もしあのままこじれていたら今頃アメリカ代表になっていても不思議ではないですよね。
 
玲央 そのヤニスはアメリカに馴染もうという気持ちが強かったように感じますが、一方で馴染めずにすぐに母国へ帰ってしまう選手もたくさんいます。その違いはなんだと思いますか?
 
宮地 ヨーロッパはアメリカと比べて「チームとしてやろう」という意識が強いと思います。アメリカはチームメイトでもバシバシやりあいながらチームを作っていくというカルチャーなので、ヨーロッパでチームメイトと協調しながらプレーするのを一番の価値観としてやってきた選手にとっては、そこがはまらないと厳しい。たとえばチームメイトから何か言われたらへこんでしまうのではなく、「なにくそ!」と思って成長していけるような選手じゃないと、NBAには残れないのかなと思います。
 
玲央 ヤニスはそういうメンタリティを持っていましたし、アメリカを楽しんでもいます。クールエイド(Kool-Aid。粉を水に溶かして飲むジュース)を喜んで飲んだりとか。
 
宮地 アメリカの食べ物をなんでも楽しんでいましたよね。
 
玲央 そもそも幼少期にまともに食べることができなかったからという理由もあると思いますが。
 
宮地 Zoomの記者会見に出てくるときにチキンウィングを持ってきてボリボリ食べながら質問に答えているのを見ると、子どもの頃の過酷な経験が影響しているのかなと思ったりしますね。
 
玲央 今でもそうですもんね、ヤニスの会見。フィラデルフィアに行くとおすすめのフィリーサンドイッチを食べていたり(笑)。
 
宮地 コロナでZoom会見になったおかげで映像として残ることが多くなったので、そういった動画が普通に出回るようになったのが面白いですよね。見てるこちらも楽しい気持ちになってきます。

その③へ続く

PROFILE
宮地陽子
東京都出身。シカゴ近郊に住んでいた1988年に月刊バスケットボールにNBAの記事を書くようになり、バスケットボール・ライターとしての活動を始め、1990年代のブルズ黄金期をすべて地元で取材。2004年にロサンゼルスに拠点を移す。NBAや国際大会を取材するほか、1999年に田臥勇太がHoop Summitに出場した頃から、アメリカで活動する日本人選手の取材も続けている。著書に『The Man ~ マイケル・ジョーダン・ストーリー完結編』(日本文化出版)、編書に田臥勇太著『Never Too Late 今からでも遅くない』(日本文化出版)がある。現在はスポーツグラフィック・ナンバー、ダンクシュート、Web Sportiva、NBA Japan、Akatsuki Five plusなどに寄稿。
大西玲央
アメリカ・ニュージャージー州生まれ。国際基督教大学卒。現在『NBA.com Japan』『ダブドリ』『ダンクシュート』『Number』等でライターとして活動中。記事執筆以外にもNBA解説、翻訳、通訳なども行なっている。訳書には『コービー・ブライアント 失う勇気』『レイ・アレン自伝』『デリック・ローズ自伝』『ケビン・ガーネット自伝』『ヤニス 無一文からNBAの頂点へ』。近年は、NBA選手来日時の通訳をNBA Asiaより任され、ダニー・グリーン、ドレイモンド・グリーン、レイ・アレン、ケンバ・ウォーカー、トニー・パーカーら多くの選手をアテンド。

ヤニス 無一文からNBAの頂点へ
お求めはこちらから!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?