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よっちゃん、自分で拭くよ。【我々、今日もひょうきん族。vol.1】

チャイムが鳴る、朝7時50分。
当時小学4年生だった私は、小学校の玄関にある公衆電話の陰にひそりと隠れて、お母さんが教科書を持ってきてくれるのを待っていた。

(あ〜〜もうお母さん早くきてくれないかなぁ…)

自分が準備できていなかった教科書を、母に持ってきてほしいと公衆電話から家に電話をかけて頼んでいたのだ。

当時は、公衆電話はお迎えの連絡をする要件にしか使ってはならず、先生の許可も必要だった。だから、忘れ物を持ってきてほしいという私の都合のいい連絡に使うことは許されないのだ。

とはいえ先週も忘れ物した手前、今週も「忘れ物しました」なんて先生に言えない…という恐怖が打ち勝った結果、たまたま持っていた10円だけを握りしめて、先生が来ないか見張ってくれる友達を2人ほど引き連れ玄関にある公衆電話に向かう。


なんとも悪いことをしている気分だった。呼吸が浅くなって、ドッドッドッドッと脈を打つ心臓は休まる暇もない。もはや、赤ちゃんくらい早い。こんなときになって初めて、自分にも心臓があったのかと感じる。
時間にして15分後、シルバーの母の車が駐車場に入ってきた。私はもう泣きそうになるのを必死に堪えながら、走って母の元へ駆け寄る。他の先生や生徒たちに、忘れ物の受け渡しをしていることがバレないように、母の叱責をスルーして、さくっと教科書を受け取る。

「ありがとっ」

とだけ言って、逃げるように立ち去る。(せめてお母さん見送れよ。)

もうっ、なんで音楽の教科書と生活の教科書はイラストが似てるのよ、と理不尽に教科書に怒りをぶつける10歳の私。

だけれども、青ざめた顔と赤ちゃんのスピードの脈拍を打つ心臓を抱えて教室を出て行った15分前とは心持ちが全く違う。忘れ物を救出するミッションを達成したすがすがしささえ感じている。


このときのことを思い出すと、今でも胸がザワザワする。当時担任をしてくれていた先生は、地元でも有名な「怒ると怖い」先生だったので、どうにかしてでも忘れ物を理由に怒られることだけは、避けたかった。
とはいえ、当時、忘れ物をして怒られているクラスの友達は見たことがなかった。

多分、「忘れ物をした自分」が10歳なりに許せなかったのだろうなあ。

家に帰ると、案の定母に怒られる私。何も言い返せない。小学4年生ともなると、次の日の学校の準備や持ち物は全て自分で管理していたから、母のせいにはできないのはわかっていた。そして忘れ物をすると、先生から怒られるか、親に電話をしてあんな恐ろしい15分間を過ごすかの2択になることだけは理解していたのだ。

*****

最近は、自分でママに飲み物のリクエストをして、好きな場所に座って飲むのがお気に入りの2歳半のよっちゃん。(2歳半のムスメの愛称)
思いのままに腰を下ろすので、ソファでジュースを飲もうとしたときにはもう目が離せない。

今朝は、カシスジュースをママにオーダーして、注いでもらったコップを大事そうに両手で抱えて、床に横座りしたよっちゃん。

大事そうに飲むのだけど、視線がテレビに釘付けになっているばかりに、ジュースがうまく飲めずに床にこぼれてしまった様子。

(あ〜〜〜〜〜やってもうたなあ。と母、心の声が漏れる。)

複数のマットを組み合わせたジョイントマットを敷いているため、マット洗わなきゃだなあと、自分で飲ませたことを少し後悔する。

するとよっちゃんが、

「ジュースこぼれたよお。よっちゃん!自分で拭くよお!」

と言って、テーブルに置いてあるティッシュペーパーを取ろうと立ち上がった。

あら、こぼれたら自分で拭くのだと理解しているのね、とムスメの成長ぶりに驚いた。

とはいえ、ムスメの身長の高さより5センチほど高いテーブルなので、ティッシュペーパーに手は届かないだろうなあと黙って見守ってみる母。
すると、13センチの小さな足でこれでもかと一生懸命背伸びをして、右手を必死に伸ばして、テーブルの中央に置いてあったティッシュペーパーの箱を手繰り寄せた。

おお、やるなあ。とつい感心してしまった。

自分で手に入れたティッシュペーパーを1枚握りしめているよっちゃんは、口元が明らかにほころんでいて目つきはニヤリと、なんとも悪そうな顔をしていた。母と視線を合わせない感じが、誇らしげな気分であろうことを表していた。そのままこちらに歩いてきて、マットにこぼれたジュースをふきふきしていた。

「ジュースきれいになったねえ。」

と、嬉しそうなよっちゃん。
さきほどの悪巧みしたような顔をしたよっちゃんはすっかり消えて、目尻が下がり切って目が棒になったような笑顔だけをこちらに向けてくる。

思えば、よっちゃんが1歳くらいのころ。
べぇ〜っと吐き出したご飯や、うまく飲めずに溢れてしまった飲み物は、自分で拭くのだと教えていた。

「こぼれたら、自分でティッシュペーパーやキッチンペーパーを取りに行って、こうやってふきふきするんだよ」と。

これは、私が育児に精神的な余裕を持たせるためで、イライラすることを防ぐために始めたこと。
子どもと過ごしていると、ご飯をこぼしたりお水を吐き出したりして、テーブルや床が汚れてしまうのが日常茶飯事である。食事のたびに、ウェットティッシュが数十枚単位で消耗される。
どうしてもその日常茶飯事にイライラしたくなくて、イライラの原因はどこにあるのか深掘りしたのだ。

すると私の場合は、子どもがこぼすこと自体にイライラするのではないことに気づいた。こぼれた結果、私が代わって後処理することで、自分の時間が取られてしまうことにストレスを感じるのだと気づいたのだ。

だから、「こぼれたものは自分で拭くんだよ」と拭き方まで教えることで、自分が拭かなくていいように仕向けたのである。

だけどこの教えは、自分で拭けるようになるという結果をもたらしただけじゃなかった。よっちゃんもおそらく、「自分で拭かないといけないのめんどうだぞ」と思ったらしい。
2歳半になった今では、故意的にこぼしたり、吐き出したりすることがなくなったのだ。(みんななかったりするのかしら。)

初めは、拭くことが楽しくてわざとこぼしていた側面もあっただろうけれど、成長するに連れて、遊びの時間を確保することのほうが優先度が高くなったらしい。

そしてあと一つ、嬉しい誤算があった。
愛犬が粗相したときに、先陣切ってふきふきしてくれるようになったのだ。

「ママぁ、一緒にふきふきしよおねえ」

なんだこれ、我が家のルンバか…?(ありがたいけれど)

一見、親がやってあげればいい、子どもがかわいそうだ、という見方もありそうだけれど。
それでもまずは、自分の身の回りの小さな範囲から、自分でやったことは自分で責任をとってくれるようになってくれたらいいなあと思っていたりもする。

100m先の未来が見えないことはワクワクしたりもするけれど、1cm先の未来が見えないことはなんだか人生やらかしているぞ、と私は理解しているつもり。
今の生活を続けた先に、20年後にどうなっているかはワクワクして楽しめたりもするのだけど、今日やらなければならないことを先延ばしにして寝てしまったら、明日どうなるか想像がつかないことは恐ろしい。と私は思ってる。
もっとわかりやすく言うと、自分が人のおもちゃを取ると、その相手が悲しむかもしれないと想像できないことは寂しいことだと思うのだ。
できれば、「取ったらだめよ」ではなく、「取ったらどうなるからだめよ」の「どうなるか」の部分をいろんな選択肢とともに考えられるように、よっちゃんに寄り添っていきたいなあと、今日も思っている所存。

人をあたたかい気持ちにさせる想像力が、どうかどうか、よっちゃんに育まれますように。とはいえ、誰にも20年後はわからないからなあ。

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連載始めようと思い、書き出しました。
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