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信長公記(10)信長、斎藤道三と対面

1549年4月下旬のことである。斎藤道三から、「富田の正徳寺(一宮市内に所在)まで出向きたく思うので、織田上総介殿もそこまでおいで下されば有難いこと。対面いたしたい」と申し入れてきた。
正徳寺跡
 それというのは、この頃信長公に対し悪意を持つ者があり、「婿殿は大あほう者でござる」と道三の前で口を揃えて申したからである。
 「そのように人々が申す時は、決してあほうではなかろうよ」と道三は兼ね兼ね申していたが、親しく対面してその真偽を見極めようというのが、このたびの狙いであったという。
 信長公はこの申し入れを躊躇うことなくお受けになり、木曽川・飛騨川の大河を渡ってお出掛けになった。
 富田というところは人家700軒もある富裕なところであった。正徳寺には大坂の本願寺から代理住職を入れ置き、美濃・尾張の守護の申し状を受けて、負担を免除されている土地である。

 正徳寺は、現在でいう税金が免除されている土地で、裕福な土地であった。

斎藤道三の思惑では、信長公は不真面目な男であると世間で取り沙汰されているから、仰天させ笑ってやろうと目論んで、古老の者7、800人に折目高な肩衣・袴など、品の良い衣装を着させて、正徳寺の御堂の縁に並んで座らせ、その前を上総介殿がお通りになるように準備を整えた。
 それから道三は町外れの小家に忍んでいて、信長公のお出での様子をそっと覗き見申した。
 その時の信長公の身なりは、髪はちゃせんまげ、萌黄色の平打ひもで、ちゃせんのもとどりを巻き、湯帷子の袖を外し、のし付きの太刀(金銀の類を薄く延ばして、さやに付けた太刀)・脇差の2つともに長い柄にわら縄を巻き、太い麻縄を腕輪にして、腰の周りには猿使いのように、火打ち袋、瓢箪7~8つをお付けになり、虎革・豹革を四色に染め合わせた半袴を召されていた。
イメージ
 お供衆7、800人がどっと並び、健脚な足軽を先に走らせ、槍の者に三間半(6.5mくらい)の朱槍を500本ばかり、弓・鉄砲の者に100丁を持たせて、寄宿の正徳寺へお着きになった。
 そこで、屏風をひきめぐらし、髪を折り曲げに生まれて初めて結ばれ、いつ染めておかれたのか誰も知らない褐色の長袴を着けられ、小刀、これも人に知らせず密かにこしらえて置かれたのをお差しになられた。
大変身

 この頃から、人の裏をかく行動が表れている。桶狭間の戦いでの振舞いを思い起こさせる。

 この身支度を道三の家中の者がご覧になって、「さてはこの頃のあほうぶりはわざとお作りになったのであるか」と驚き、次第に事情が分かってきた。
 信長公は御堂へするするとお出でになり、縁をお上がりになったところで、春日丹後・堀田道空がお迎えになって、「早くおいでください」と申し上げたけれども、信長公は知らぬ顔をして、諸侍が並び座っている前をするするとお通りになり、縁の柱にもたれていらっしゃった。
 しばらくしてから、屏風を押しのけて道三がお出ましになった。それを見ながらなおも(信長公が)知らん顔をしていらっしゃるのを、たまりかねた堀田道空が近づいて、「これが道三殿でござる」と申すと、(信長公は)「そうか」と仰せになって、敷居から内にお入りになり、道三にご挨拶なさり、そのまま座敷にお座りになった。
 道空が湯漬けを差し上げる。互いに盃を交わし、道三との対面の儀を滞りなくお済ましになった。道三は付子を噛んだ時のような苦しげな様子で、「またいずれお会いしましょう」と言って座をお立ちになり、20町(約2km)ばかり見送りになった。
 その時、美濃衆の槍は短く、尾張衆の槍は長く立てられているのを見て、道三は面白くないご様子で、何も言わずにお帰りになった。
 途中、あかなべというところで、猪子兵助いのこひょうすけ高就たかなり)が道三に、「どう見ても信長はたわけでござります」と申し上げると、道三は「誠に無念なことである。この山城の子たちがあのたわけの門外に馬をつなぐ(家来になるの意)ことは間違いないだろう」とだけ答えた。
 この後、道三の前で信長公を「たわけ者」と申す者は一人もいなくなった。

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