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信長公記(9)父信秀、病死

 信秀は疫病にかかられ、さまざまな祈祷や、ご療治をされたけれど、お治りがなく、ついに天文18年(1549年)3月3日、御年42歳で逝去された。

 一寺を建立し、寺号を万松寺という、当寺の前住職が故備後守(信秀)の法名を桃厳とうがんと名付け申した。

万松寺(〒460-0011 愛知県名古屋市中区大須3丁目29−12)

 信長公は御葬儀に銭の施しをなされ、国中の僧衆も集まり厳かに弔い申した。おりから関東に上り下りする会下僧(一寺を持たず、修行する僧)たちもたくさん加わって僧衆は300人ほどにも及んだ。

 信長公には平手青山内藤らの家老衆が付き従う。
 弟の勘十郎(信行)には家臣の柴田権六(勝家)佐久間大学(盛重)佐久間次右衛門(信盛)長谷川(橋介きょうすけ山田(弥太郎)以下の者がお供をする。

 信長公がご焼香にお立ちになる。その時の信長公の身なりは、長柄の太刀、脇差しを藁縄で巻き、髪はちゃせんまげにし、袴もお召しにならず、仏前へお出でになって、抹香をかっとつかんで仏前へ投げかけてお帰りになった。

 弟の信行はきちんとした肩衣・袴をお召しになって、礼にかなったご作法であった。信長公に対しては例のごとく「大バカ者よ」ととりどりに噂し合った。

 その中に筑紫から来た客僧1人だけが信長公を評して「あの人こそ国持ちの大名になるべき人よ」と言ったということである。

 さて、末森の城は信行へ差し上げ、柴田権六・佐久間次右衛門ほか有力な人々を添えてお置きになった。

 平手政秀の子息は、長男を五郎右衛門(長政)・二男を監物けんもつ・三男を甚左衛門(汎英ひろひで)といった三人兄弟であった。
 総領の平手長政は優れた駿馬を持っていた。信長公がご所望なさったところ、憎げな申しようで、「私は馬を手放せぬ武者でございますので、お許しください」と言って差し上げなかった。
 信長公はこれを深くお恨みになり、度々このことを思い出されては不快になり、次第に主従の間は不和となった。

 信長公は、「上総介かずさのすけ信長」と自ら名乗られた。
 ほどなく平手政秀は、信長の性質をまじめでないご様子を悔やまれ、「今まで盛り立ててきた甲斐もなく、存命していても致し方ない」として、腹を切って果てられた。

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