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習慣化していないことを、うっかり忘れるのは「恋」してないから? 知らんけど……

 つい今しがたの話(と書きだしたが、実際には昨日の夜の話である、事が起きてすぐ書き出したという勢いは、残しておきたかったので、ここに記述する。誰のために? たぶん、自分のために)。

 今日は、スーパーで珍しく牛肉(オーストラリア産)を買った。

 僕は普段、牛肉なんて高くて買わない。買えないほど今は貧困ではないが、買えないほど貧しかったころの貧乏性が染みついていて、基本的に牛肉は、普段の買い物の選択肢に入らない。豚か鶏を選ぶし、それでも美味しく調理する技術はあるので、問題ない。

 買った理由は、20%オフだったし、なんとなく気分が乗ったから。日常生活における食材選びの理由なんぞは、だいたい“気分”である。

 塩コショウと、醤油と、味の素があれば、何でも笑顔で「美味しいでげすー!」といえるほど、バカ舌に産んでくれた母に感謝したい。でも謝礼は渡さないでもいいか、別に。

 さて、話を戻す。20%オフなのだし、帰ってすぐ調理しようと考えていた。オーストラリア生まれの牛だろうが、20%オフの鮮度だろうが、食してしまえば胃の中では同じだし、最終的には、う〇ぴーになるのだから気にしない。

 「今日は、ビーフ塩焼きそばでも作るか!」と息巻いて、冷凍野菜(男の一人暮らしの時短料理で、冷凍といえど野菜を取ろうとする姿勢は、称賛されても良い気がする)をレンジで解凍し、フライパンに放り込む。いつも通りの流れで肉を入れ、塩コショウで炒めているとき、異変に気付いた。

 「あ、冷凍豚肉入れてしもうた……」

 そう。いつもは冷凍のスライス豚肉を、日持ちとコスパの面で採用しているのだが、牛肉を買ったことを、その瞬間はすっかり忘れてしまい、調理してしまったのだ。

 時すでに遅し。「ああー、やっちまいましたね。あなた」と心の中の自分が、ツッコミを入れてくる。結局、20%オフのオーストラリア産牛肉は、100%使われていない、冷凍ポーク100%の塩焼きそばが完成した。

 ここまで書いて、今日の記事は「お肉、間違いました! てへへ」ということではない。これは危惧であり、不安であり、紛れもない恐怖に関する考察なのだ。

 人間は(と区切るのが正しいのか、疑問もあるが)、習慣化していない動作や感覚は、ごく自然に習慣の流れなかで忘却される。という恐怖である。

 仕事でもそうで、習慣化していない「お使い」や、今日だけの「業務」に、僕は躓きやすい。

 そして、いま従事している建設業には、習慣化していない業務がめっぽう多い。毎日違う現場、工事、道具、資材、全ての仕事がいつも初めてばかりである。

 午前中はコレと、コレと、コレが必要で車に積んで移動するが、午後からは、コレは要らないけど、コレとコレはまだ必要。だとかそういう感じだ。

 思い返せば、子供の頃から習慣から外れたことが苦手だった。担任の先生から「このプリントを、お母さんに必ず渡してくださいね」だとか、母親から「給食費、先生に渡しなさいよ!」と言われても、ほとんど最初の一回は忘れる子供だった。

 授業も毎日同じではないので、帰宅してランドセルの教科書を入れ直すのを忘れてしまう。次第に面倒臭くなり、全ての教科書をランドセルに詰め込んで、毎日登校するようになる。

 余談だが、それが先生にバレて「教科書を全て持ってくるのは、ダメです」などと注意されたが、忘れ物を無くすために考えた対処法が、ダメだと言われる理由もよく分からなかった。「整理整頓をしろ」だとか言われた気がするが、納得できなかったのを覚えている。苦労するのは自分だけで、教科書の入れ替えをしない分、時間の節約にもなると思うが、未だに腑に落ちるを見出せない。

 余談終わり。

 しかし、面白いことに習慣化していなくても忘れることはなく、むしろ積極的に特別な状態を維持、あるいは拡張しようとする精神状態だってあるのだ。

 それは記念日や誕生日、自分や大切な人へのお祝いや、歓喜を起こさせるような、いわばポジティブなイベントのときである。誰かのための特別な時間なら、多くの人は力を発揮したいと思うだろうし、うっかり忘れることも少ないだろう(その人間関係に、損得勘定による忖度があるかは別として)。

 とすれば、習慣化していない特別な行事において、それを忘れてしまうか否かという問題は、結局のところ、その事柄(仕事や行事)が好きか嫌いか、ということに強く結びいているように、いま書きながら感じてきた。

 もっと具体的にすると「好き嫌い」という状態よりは、能動的か受動的か、という点かもしれない。

 仕事というのは概ね、生活のために従事する(しかない)のであり、そこに好き嫌いの情をいれることは、得策ではないと僕は考える。

 好きか嫌いかで仕事を選択したり、考えたりすると、好き嫌いの価値観が次第に判断基準になり、その判断基準によって感情が揺さぶられる。

 さらに、仕事内容は好きでも、職場環境が好きになれないという状態は世の中に大いにあることで、そうなってくるともう「仕事への好き嫌い」という状態に、「人間関係の好き嫌い」のストレスがさらに加わり、よりいっそう面倒である。

 となると、自分が学校の授業や仕事において、ついうっかり習慣化していないことを忘却するのは、受動的にその状態を受け入れているからなのだと、仮定できような気がする。

 それを防ぐためには、仕事という状態を好きになり、能動的な姿勢をもって取り組むことが大事なのではないか。要は仕事に「恋」をしていれば、うっかりミスを減らせるのではないか? という一つの仮説が成り立つ。

 仕事に恋、恋……。

 仕事にこい、こい……。

 仕事に来い。仕事に……来い!?

 「嫌だッ!」

 うう……、なんだか頭が、頭痛が痛いッ!(この言い回しは、あえて使用したので、指摘してくれるな)

 出来れば映画の好き嫌いをパーパー喋るYouTubeチャンネルの収益だけで、ダラダラ生きていきたい!

 色々と考えを捏ねくり回したところで、そろそろ疲れたのでもうこの辺でやめるが、この話のキッカケは、牛肉を使い忘れたことから始まったのであり、牛肉はもちろん(恋心はないが)好きなのであるが、能動的かつ積極的にスーパーで手に取った牛肉を使い忘れた件については、結局は何の考察も、仮説を立てられずにいる。

 あえて無理やりにでも結論を導き出すとすれば、牛肉を忘れた原因は、僕が「アホ」だったのであり、それ以上でも以下でもないのである。

 コレを書いていて気づいたことでもあるが、アホである自分を受け入れると、少し気が楽になった。これは事実である。なので、この記事をここまで読んだ皆様へ向けて、何か教訓めいたものを授けるとするならば、「自分のアホを受け入れよ」である。

 「汝、己のアホを受け入れよ。さすれば救われん」

 あー、タリーズでこの記事を書いていたら、う◯ぴーしたくなってきたから、もう終わるね! バーイビー!

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