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『ダンジョン飯』とRPG的リアリズムの爛熟

 『ダンジョン飯』はKADOKAWAの漫画誌ハルタに2014年から連載されている九井諒子氏によるファンタジー漫画です。2022年8月には単行本の12巻が発売されてその累計発行部数が850万部を超えアニメ化も決定するなど、巷の人気をさらっています。

 そのあらすじは、ダンジョンを探索していた冒険者パーティがある日ドラゴンに遭遇して全滅寸前となりますが、仲間の一人の機転により、この人物を除くパーティがダンジョンの外に転移魔法で飛ばされます。命を救われた冒険者一行は一人ドラゴンの牙にかかったその仲間の遺体を回収して蘇生させるために、もう一度ダンジョンへ潜ります。ところが食糧も資金も底をついていたため、偶然知り合った魔物食の研究家の助けを借りて、倒したモンスターを食べながら仲間の救出へ向かう、というもの。

 売上げが好調なだけでなく『ダンジョン飯』には読んだ人の語りを誘うような魅力があるようで、ネット上には作品をオススメする紹介文や感想が数多く存在しています。この記事を書くにあたり、私はnoteのダンジョン飯のタグがついている記事を全て読みましたが、その多くで目にしたのがファンタジーであるにも関わらずリアリティがあるところが面白いという感想でした。

 確かにこの漫画ではスライム、バジリスク、うごくよろいといった“食材”になるモンスターたちの生態からはじまり、それらの倒し方、下ごしらえの仕方、料理方法などが実に説得力を持った仕方で描かれています。私が見たnoteの中には「モンスターの肉さえ手に入れば自分の家のキッチンで作れそうな気がするほど現実感を持って描かれている。」という粋な感想を書いている人もいました。

 また、この作品はファンタジーはファンタジーでも、「ウィザードリィ」などのもはや古典作品といってもいいRPGの世界観や設定を基盤にしていることがよく指摘されます。この点について、2015年に単行本1巻が発売されたのを記念して、ゲームレビューを専門にしているブログが次のような紹介記事を掲載しています。

ただ、おしょ~的には3DダンジョンRPG好きに読んでほしいと強く思いました。なぜなら本書はゲーム内で描かれない部分を補完してくれるからです。
冒険者は実際にどういった生活を送っているのか?
迷宮内で剣が折れたらどうするのか?
仕掛けられている罠をどうやって解除しているのか?
もちろん、想像力を働かせることでも補完はできます。ただ、この『ダンジョン飯』はいろいろな部分をしっかり設定しているため、本書を読めばかなりの人が『3Dダンジョンに潜っている冒険者たちの生活』を思い浮かべることができるはず。

上記リンクブログの記述より抜粋

 このブログはゲームが専門分野なだけに九井諒子さんがきっと引用したであろうゲームの名前を具体的な例をあげて指摘しています。とても面白かったので読んでみてください。さて、引用部分をお読みいただければ分かるようにこの執筆者は3DダンジョンRPGのゲームでは描かれないディテールをしっかり想像して描きこんでいることを評価しています。

 収集した感想をまとめると、考え抜かれた設定とそれを基にした細部の描写、これこそが読者が感じた『ダンジョン飯』のリアリティの要因であると結論出来そうですが、私はこれだけではうまく捉えきれていない気がします。なぜかというと『ダンジョン飯』という作品の魅力として語られるリアリティとは、それをリアルだと感じる我々の想像力と共犯関係にあり、その共犯関係を実現する環境を準備したのは、RPGをモデルにしたフィクションが蓄積してきた歴史だと考えているからです。

 そのことについて本記事では、RPGのお約束の一つである「蘇生」をキーワードに論じていきたいと思います。そして『ダンジョン飯』という漫画が日本のファンタジーの系譜の正統後継者でありながら同時に「異常」なファンタジーであることを説明します。ではまず第1章でRPGとファンタジーとの関係をおさらいしていきましょう。

「剣と魔法のお約束」としての「蘇生」

 「ファンタジー」という言葉で日本人が連想するものといえば、いわゆる「剣と魔法の世界」だと思います。これはトールキンの『指輪物語』の世界観を土台につくられたRPGが日本において長らくファンタジーのお手本として扱われていたからです。ライトノベルというファンタジー小説の多くがそこに含まれる文芸分野の黎明期においてテーブルトークRPGがどういった役割を果たしたか、詳しいことは大塚英志『キャラクター小説の作り方』をあたってもらうことにして、ここで触れておきたいのは2000年前後くらいの時期にはこのRPGに範をとって剣と魔法の世界を描いた作品はそれ以外の「正統」ファンタジーやSFジャンルのエンターテインメント作品を作っているような実作者から下に見られがちだったことです。

 簡単に理由を言ってしまうと、RPGのお約束をそのまま自作に持ち込めば世界観設定の手間が大幅に省けてラクな割に、人気ジャンルであるがゆえに書けばある程度売上が見込めたので、能力がピンキリの作家が数多く参入して玉石混交の状態であったからです。市場が飽和して淘汰が進みに進んだ現在とは違う景色が、まだ20年前にはあったようです。

 そんな状況で先ほど著作をあげた評論家の大塚英志氏は、RPG的なファンタジーを創作技法としてある程度認めつつもなんとなくでRPGのお約束を自作に流用する書き手に辛辣な評価をしています。そして「ゲームのような小説」に対して以下のような苦言を呈しました。

そして同時にゲームという表現が人の死をパラグラフの数値として示し、リセット可能なものとして描いてきたことも確かです。(中略)映画やまんがやミステリーが人の死を記号的にしか描けないという限界を自覚した上で「現実」との関わりを模索しているのに対して、「ゲーム」や「ゲーム」を出発点とする「ゲームのような小説」はその努力がぼくには乏しいように思えてなりません。「ゲームのような死」の表現方法の先に、リアルな人の死(それはリアルな生、の裏返しでもあります)をいかに描きうるのかやはり小説の一分野であるこのジャンルの作り手は考える必要があります。

大塚英志『キャラクター小説の作り方』、講談社、2003年、142-143頁

 私はこの大塚氏の批判の根本的な原因はRPGおよびRPGのようなファンタジー小説に出てくる回復魔法、中でも「蘇生」だったと考えています。そしてこの批判は文章が書かれた2003年当時では一定の妥当性があったと思います。そう言える理由を次節でまとめてみます。

RPGではなぜ人は生き返るのか

 そもそもRPGでなぜ「蘇生」があるかというとこれはもう単純にゲームの遊びやすさのためです。TRPGではプレイヤーがそれぞれのキャラクターを担当してなりきり、TVゲームのRPGでは長時間かけて操作するキャラクターを成長させていきます。どちらにしても戦闘や罠などで一発退場だと面白くない、だから救済措置として相応のペナルティを受ける代わりにキャラクターの復帰を認めるルールがあるのです。

 このルールもRPGのお約束の一つですが、これをそのまま「俺の宇宙では音が鳴るんだ」と同じようなノリで「俺の世界では人は生き返るんだ」と物語に取り入れてしまうと色々と不都合が生じてしまいます。そのうちの3つを以下に挙げ、それぞれを解説します。

  1. 死を克服する手段がある世界を真面目に描こうとするとSF的な構想力が必要

  2. 献身や自己犠牲でドラマを作ることが難しくなる

  3. 自由意志を持った存在へ干渉することへの忌避感

1.死を克服する手段がある世界を真面目に描こうとするとSF的な構想力が必要

 言うまでもなく人間にとって生きるか死ぬかは重大な関心事ですから、死を克服する手段があるとしたらそれは世界そのもののあり方に絶大な影響を及ぼすはずです。秦の始皇帝がそうしたように権力者は血眼でそれを手に入れようとするでしょうし、その方法を独占した組織は莫大な富と政治力を手にするはずです。

 大体のRPG的ファンタジーの書き手もここら辺の面倒はわかっているので、蘇生や復活を登場させるときは戦闘中か戦闘直後の復帰のために限定しがちです。こうすれば心肺蘇生装置AEDとほぼ同じなので強めの回復魔法くらいの扱いでお茶をにごすことができます。私が知る“ドラクエの教会みたいな施設で行われる死者の蘇生“を物語に登場させたファンタジー小説は深沢美潮『フォーチュン・クエスト』だけです。
『フォーチュン・クエスト』は1989年から角川スニーカー文庫でシリーズが刊行されたファンタジー小説で、蘇生がストーリーに絡むのは第5、6巻「大魔術教団の謎(上下)」(1991年)においてです。

 そのあらすじは、かけ出し冒険者である主人公のパステルはパーティーを組んで様々なクエストに挑戦していますがある日仲間の一人である心優しい大男ノルがモンスターにやられて命を落とします。彼を生き返らせるために訪れた復活屋の主人エグゼクによると蘇生には肉親の血が必要とのことで、一行はノルの唯一の家族である妹のメルを探して大魔術教団の村に潜入するものの彼女は今まさに生贄にされようとしていた。果たしてパステルたちはメルを救出しノルを生き返らせることができるのか、というもの。
さらに箇条書きで蘇生まわりの設定を抜き書きしてみます。

  • アンドゥという復活の神が現世で活動していてこの神にお願いすればタダで死者を復活させてもらえる。ただし順番待ちの列が山2つ分並んでいる

  • 修得できる人の数は少ないものの復活の神を信仰する僧侶も蘇生術を使える。そうした者の中には各地で復活屋を営利活動としておこなう人もいる

  • 死者の蘇生確率は遺体のコンディションや生前の行状に左右される

 現代の眼で見ると設定に粗が目立ちますがなにしろこの小説が発表されたのが『ロードス島戦記』の小説版が刊行されだしてから3年後、ドラクエ4が発売されて1年後という時代です。そんな中でも法外な値段の復活料を請求する復活屋とか、遺体の保管を請け負う業者など復活屋を中心とした経済圏が作られている様子などが描写されておりRPGのお約束をリアリティのあるものとして描く工夫がされていてライトノベル黎明期の一つのケースとして歴史的価値があります。

2.献身や自己犠牲でドラマを作ることが難しくなる

 読者は決死の覚悟で戦うキャラクターが大好きですが、復活手段が実在する世界でしかもキャラクターもそれを知っている場合にはちょっと事情が違ってきます。無謀とも思える作戦もある種の合理的な計算の結果かもしれず、蘇生を前提としていると解釈できてしまうからです。潜在的にはキャラクターの全ての死が結果的に蘇生ができなかっただけのうっかりミスや計算違いの末路と解釈されかねない世界になってしまいます。

 この点で、ドラクエの生みの親である堀井雄二氏が監修を務めた漫画『ダイの大冒険』で仲間の魔法使いであるポップがメガンテ自己犠牲呪文を唱えたシーンは示唆に富みます。無力化された主人公の代わりに絶望的な力の差のある強者に命がけで挑む感動的なシーンですが、その感動の何割かは「神の祝福を受けた僧侶の肉体なら万に一つ蘇生させることができるがそれ以外の者が使えばメガンテの衝撃に耐えきれず、肉体が完全に吹き飛び復活することができない」というポップの早口の説明に依って成り立っていることは否定できないでしょう。逆にこれをちゃんと言わせる原作者の三条陸氏の采配が光るところでもあります。

3.自由意志を持った存在へ干渉することへの忌避感

 表現が硬くなってしまいましたが、平たく言うと人間には自分の人生の目的を自由に選べる能力があるのに、蘇生や復活で何らかの目的と命が紐づいてしまうとその人の生そのものが歪められてしまってイヤな感じがする、というほどの意味です。

 例えばドラクエの勇者は死んでも王様の前に運ばれて生き返り、軽い叱責の後に「もう一度機会をやろう」と言われます。この時、勇者の復活が魔王討伐という目的と紐づいているとすればこれは逆から見ると魔王を倒さない限り死ぬことのできない呪いのようにも捉えられるわけです。よってここから世界を救うためではなく魔王を殺して自分も死にたいと願うような生き続けることに倦んだメンタル不健康な勇者や、魔王が健在な限り全盛期の自分でいられるので裏で手を結び絶対に魔王を倒さないタナトフォビアの勇者などの発想ができるわけです。

 こうした発想は「蘇生」と隣接する設定の「不死」と重なる部分が大きいですが、一定年齢以下の日本人には不死や永遠の命に否定的な見方をする人が多いように思えます。これはおそらく手塚治虫の漫画『火の鳥』の影響でしょう。私も小学生の頃、親に連れられてご近所の家を「神は人類に楽園での永遠の命を約束しておられます」などと言って伝道奉仕をしていた一方で、学校の図書館で『火の鳥』を読んで「永遠に生きるってそんなに嬉しいものじゃなさそうだなぁ」などと考え込んだものです。

 それはさておき、この発想を発展させた設定で現在人気を博しているライトノベルにロケット商会『勇者刑に処す 懲罰勇者9004隊刑務記録』という作品があります。この小説では勇者とは魔王との戦いのために死ぬことすら許されずひたすら戦い続けるという刑罰を受けている罪人と定義されています。罪を犯した者への軍役の強制と捉えることで生命を質にとって自由を制限することを正当化しているわけです。また勇者も複数いていいので勇者部隊として活動しており、メンバーのほぼ皆が何らかの罪を犯した人物なので針の振り切った個性のキャラクターが次々に登場するのが魅力です。この作品は読者に浸透しているRPGのお約束を逆手にとって成功している例の一つと考えられるでしょう。

 さて、ここまでで「蘇生」というものがゲームの都合で存在するRPGのルールであり、それを物語に織り込もうとすると面倒なことが山ほどでてくる厄介な代物であることがお分かりいただけたと思います。そして同時にストーリーの縦軸に仲間の遺体の捜索と蘇生という目的を据えている『ダンジョン飯』の異常性もご理解いただけたのではないでしょうか。変化球のグルメ漫画を装っていますがこんなファンタジーは今まで存在しなかったと私は思います。そしてこんな「異常」なファンタジーを我々が受け入れてしまっている環境、これを用意した影の立役者について次の章でご紹介します。

もう一つのRPG的想像力の系譜:ギャグ4コマ

 もう一つのRPG的想像力の起源、それは「4コママンガ劇場」です。ゲーム制作会社のエニックス(現スクウェア・エニックス)が1990年から刊行しはじめたゲームを題材とした公式4コマアンソロジーコミックで、『ドラゴンクエスト4コママンガ劇場』がその嚆矢となりました。後に他社の人気ゲームの4コママンガも刊行するようになったことからウィキペディアには「4コママンガ劇場」として項目が立てられています。

 私が考える「ゲームのマンガ化」という面で4コママンガ劇場がストレートなコミカライズ作品よりも重要だった理由はこれがギャグマンガだったことです。
RPGに限らずゲームの中の出来事は我々の生きる現実では起こり得ないことだらけです。もし現実で起きたらギャグにしかならないようなゲーム内の事柄を見つければ、これはそのままオチになります。そうしたゲームのツッコミどころをそのまま絵にしていわば「写生」をすれば、それだけでネタが一本できたので4コママンガ作家たちは鵜の目鷹の目でドラクエの変なところを探して漫画にしていきました。これが広く一般にドラクエに代表されるRPGのお約束を拡散すると同時にそのツッコミどころをも共有したのです。

 ですからゲームの真面目なコミカライズ作品ではマンガにするにあたって切り取られたり丸められたりする部分こそがどんどん描かれネタにされました。例えば街の中の民家でタンスやツボから勝手にアイテムを手に入れることは現実であれば窃盗です。これはもう何十回ネタにされているかわかりません。あるいは魔王城では勇者たちに都合良く最強の武器防具が手に入りますが、このことから魔王がせっせと宝箱の準備をしてくれている様子が想像できます。

 この状況は他のジャンルとの比較で言うと、例えば吾妻ひでおやとり・みきといったギャグ漫画家がSF小説に出てくるビジュアライズしにくい概念を無理やり絵にしてマンガに登場させ内輪でゲラゲラ笑っていたのと似ているかもしれません。そのネタを読んでも笑いどころがわからない新規参入者にもとっかかりを与えてSFの難解な概念の普及に一役買ったのではないかと私は思います。

 あるいはこれは我々の世界とは異質な架空世界への理解を手っ取り早く読者にしてもらうには笑いでくるんでそのまま飲み込んでもらうのが一番であるという創作技法の一種とも解釈できるかもしれません。『ダンジョン飯』でも読者に抵抗感を与えそうな蘇生の設定を笑いで突破する力技が用いられています。第一話で「仲間の遺体の捜索と蘇生」という主人公たちの冒険の目的が提示された重要なコマは次のようなものでした。

九井諒子『ダンジョン飯』第1巻、KADOKAWA、2015年

 2006年に一旦4コママンガ劇場シリーズの刊行は終了します。最大の理由はもちろん売上げでしょうが、その背景にはテレビゲームのハードの進化に伴いグラフィックがどんどんリアルになっていったことでゲームをビジュアライズするメディアとしての魅力が失われたことが挙げられます。そして時期を同じくしてこの種の笑いを軸としたRPG的想像力はアナログの出版の世界からインターネットへと舞台を移していきました。

受け継がれる笑いの系譜

 テレビゲームのRPGはほとんどの場合が一人プレイ用のソフトでした。学校などで同じゲームを遊んだ友人たちと話題にすることはあっても、プレイ体験はやはり個人的な経験であるとの感覚がインターネットの普及以前は強かったように思います。しかしゲームの思い出などを語りあう掲示板でのおしゃべりなどを通じて自身と似たような感想をみんなが抱いていることを確認し合うことで徐々に私的な体験であるという感覚が薄れて共通体験のように思われるようになったのではないでしょうか。

 さらに2008年から日本でTwitterが本格的に普及を始めます。これ以降SNS上ではRPGの様々なお約束についての「大喜利」やフォローしあっている間柄同士での「与太話」、こうしたコミュニケーションが急速に増大していきました。特にハッシュタグなどを利用した大喜利では内輪のおしゃべりで使用しようとした発案者の予想を超えた範囲に盛り上がりを見せRPG的な想像力の広範な浸透を印象付けるものとなりました。

 狭い趣味の共同体の中のお約束が、広く開かれた公共性を帯びた常識になるためには“みんながそれを知ってるということをみんなが知ってること”が必要です。あるいはもし実際にそうではなかったとしてもそうだろうという信頼感があることが大事です。ややこしい言い方になってしまったので平たく言いますと、普通の人は会話を始める時にこの話題なら相手に通じるだろうと見込みをつけておしゃべりをしますが、ネットの影響でRPGの話題は誰に言っても通じる共通の話題になったと普通の人が段々思うようになってきた、というほどの意味です。少なくともレベルとか経験値などの単語を断りなしに使っても変には思われないくらいには一般化しているのは間違いないでしょう。

 また、トゥギャッターを検索すれば2010年代前半に行われたRPGをお題にしたハッシュタグ大喜利のまとめが複数読めますが、この手の大喜利には商業出版で活躍する実作者が漫画家やライトノベル作家などの業種の垣根を越えて多数参加していました。こうしたSNSでのコミュニケーションはフィクションの書き手が読み手へのRPG的共通言語の浸透のほどを推し量る貴重な機会になっていたように思えます。RPG的な架空世界への共通認識が大衆に普及しているという信頼感がフィクションの作り手たちに芽生えると、彼らは架空の世界そのものの説明を省略してそこを舞台にした物語を描く方に注力できるようになります。『ダンジョン飯』という漫画がディテールを描きこんで評価されている背景にも、細部の描写にいきなり踏み込んでもついてこれるファンタジーに慣れ親しんだ読者の存在と作り手側にそうした読者がいることへの見込みがあったと考えられます。30年前のギャグ4コマから始まりインターネットに定着したRPGあるあるを話題にしたおもしろおかしいおしゃべりはこうした環境を実現するのに実は大きな貢献をしている、というのが私の主張です。最後の章ではこのような環境を土台に『ダンジョン飯』が描く物語について考えます。

『ダンジョン飯』の登場人物のリアリティ

 さて、まずここまでの議論を踏まえなぜ読者は『ダンジョン飯』にリアリティを感じるのかについてまとめたいと思います。

 蘇生というファンタジーの中でも難しいテーマをストーリーの柱の一つにして始まった『ダンジョン飯』ですが、生き返ることができるのは迷宮の中で死んだ者のみだと範囲を限定する世界観設定をうまく読者に納得させて第1章で考察したような諸々の面倒をクリアします。さらに第2章で紹介したように読者たちが既にファンタジーに慣れ親しんでいることを前提に細かいディテールまでこだわって描くことで作中世界の現実味を演出することに成功しています。

 そしてこの章では漫画に描かれる登場人物たちのリアリティについて論じたいと思います。なぜ虚構のRPG世界の人間の行動や心理を現実世界に生きる我々がリアリティがあるとかないとか言えるかというと、我々がRPGをプレイしたりRPG的なファンタジーの物語を読んだりしてそうした世界に慣れ親しんできたからに他なりません。その上で架空の世界で生きるキャラクターたちを我々とさほど変わらない理性を備えた生身の人間とみなした時にその言動がもっともらしいかどうか判断できるのです。

 ここで唐突ではありますが、RPGの楽しさの本質とはなんでしょうか。意見はさまざまでしょうが、私はリソースのやりくりだと思います。RPGの快楽として最上位に挙げられることが多いキャラクターの成長も、実は使用できるリソースが増大する喜びとして捉え直すことができるのではないでしょうか。複式簿記の帳簿上でお金がさまざまに姿を変えて管理されるように、RPGではリソースが形を変えながらプレイ時間に比例して増えていきます。

 この時、例えば100ゴールド払えば宿屋で1泊してモンスターとの戦闘を10回行えるまで体力が回復し、戦闘を10回すれば200ゴールドと経験値を稼げる、という具合にHP(ヒットポイント)とかLP(ライフポイント)とか、言い方はなんでもいいですが数値化されたキャラクターの命もリソースとして管理される対象になるわけです。ゆえに戦闘不能になるギリギリまでダメージを受けさせておいて満タン回復魔法をかけるとか、一回の戦闘中に何度も何度も倒れては蘇生をするゾンビ戦法といった行為がリソースの損得勘定の帰結として出てきます。

 こういうところが「ゲーム感覚」と言われたりして批判の的になるわけですが、しかし、回復魔法や蘇生魔法が本当に存在する世界でそうしたものを前提にして行動する人間がいるのはそんなにおかしなことでしょうか。そもそもゲームとシミュレーションの違いが程度問題だと考えると我々はRPGを遊んでいるときに回復魔法や蘇生魔法が存在する世界での人間の振る舞いを大雑把にシミュレートしていると捉えることもできます。生身の人間の命はそんなにすっぱりと計算して管理できませんが、そのような管理の対象として命を捉えることはRPG世界では合理性があるわけです。

 こうした観点で『ダンジョン飯』を読み返してみると、主人公パーティーのリーダー、ライオスの人物像が実にうまく設定されていることに気づきます。おそらく我々のようなホモサピエンスに一番近い種族、トールマンのファイターであるライオスは魔物が大好きな男です。ただしその愛情とは研究対象をこよなく愛するがあまり度を越した調査をする研究者のようなもので、一言で言ってしまえばモンスターのオタクとして描かれています。

 このような気質のキャラクターであるがゆえにライオスの言動は一見エキセントリックなようでありながらその背後に一定の合理性が存在するように描かれています。そもそも、モンスターを狩って調理して食べつつダンジョンを進む、という選択そのものが制限時間と手持ちのリソースを勘案して出した結論であって、RPG的なそろばん勘定の帰結でした。また、ライオスはしばしば魔法使いのマルシルの回復や蘇生魔法をあてにしたような作戦を立てて実行します。多くの場合、前衛である彼自身が傷を負うことになるので仲間や目的のために自己犠牲を厭わない態度かのようにミスリードされてしまいそうになりますが、実は彼の合理性はかなりRPGのプレイヤーの思考と重なる類のものです。

 ですから、RPGを遊んだ経験のある読者の大半は彼の行動指針に、自分自身のゲームプレイ体験の記憶から共感を覚えることになります。そしてライオスの一定の合理性はありつつも、無謀に過ぎたりデリカシーがなかったりする行動に、チルチャックやマルシルがツッコミを入れたり腹を立てたりする描写を読んで彼らの生身の人間としての感情を感じそこにも説得力を感じる。この往復運動が『ダンジョン飯』のキャラクターのリアリティの秘密だと私は思います。

おわりに

 最後に2003年の大塚氏の「ゲームのような小説」批判に立ち返ってみましょう。この批判はゲームを出発点にした想像力では人のリアルな死を描くことができていない、もしくは描こうとする努力が足りないというものであり、私はこれをRPGに蘇生というルールがあるがゆえの苦言だと解釈し、ある程度においては妥当だと思うと書きました。

 ある程度、と限定したのは第2章でみたように、我々の世界とは違う法則と常識で動いている世界についてそのまま「写生」すればその表現が我々の常識的な感性と衝突して不謹慎ギャグのように受け取られるのは当然ですから大塚氏がそれに不満を持ったのも無理はない、と考えるからです。一方でそうした笑いは我々の世界とは違う世界の常識を読者に受け入れさせるのに必要なフェーズでありそれを否定しては新しい表現ジャンルの普及は見込めないということも付け加えておくべきでしょう。

 今やRPG的な想像力が世の中に広く浸透しているという確信がフィクションの作り手にも受け手にも醸成されているために、架空の世界を舞台にした物語でも設定の共有に紙幅を割くよりもキャラクターの内面を深く掘り下げたり物語のテーマを繊細に描写することが可能な時代となりました。そうした環境における到達点の一つとして『ダンジョン飯』という作品はあります。

 この漫画のテーマは「食」と「生命」の2つだと私は考えていますが、国際社会で平和を維持するために必要な事柄が時代や状況により違ってくるのと同じように、我々にとって生命とはなんなのか表現する方法もその時々で有効なやり方はうつりかわるものだと私は考えます。蘇生や復活といった現象がある世界を舞台にしているからといってそれが即ち生命を軽視している作品であることにはならないということは何度でも強調しておくべき事柄だと思います。

 そして『ダンジョン飯』という漫画が回復魔法や蘇生魔法の存在するRPG的世界を舞台としながらも、生と死に向き合う時の人間がどのように振る舞うか多くの読者にリアリティを感じさせる仕方で描くことに成功しているのは間違いないと言えるでしょう。単行本12巻になって物語はいよいよ結末に向かって進んでいるように見えますが、果たして冒険の目的であるファリンの救出はどうなるのか、ライオスたち一行の旅の行方を見守りたいと思います。

<参考文献>
稲葉振一郎『モダンのクールダウン』、NTT出版、2006年
大塚英志『キャラクター小説の作り方』、講談社、2003年

・4コママンガ劇場の記述には次のサイトも参考にしました。
 本文中にリンクを埋め込めなかったのでこちらで紹介します
https://wikiwiki.jp/dqdic3rd/【ドラゴンクエスト4コママンガ劇場】

・noteで網羅的にチェックした感想文の中では次の記事が参考になりました。

見出し画像はAIに生成してもらった「ダンジョンでピザを作るドワーフ」です。