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イライラの原因はカルシウム不足という説の起源

この記事をお読みになっているあなたが日本で生まれ育った方ならば、人生で一度は「なにイライラしてんだよ、カルシウム足りてねぇんじゃねえの?」に類する台詞を目にしたことがあるのではないでしょうか。私が最初にイライラとカルシウム不足を結びつける説を知ったのはこの記事の見出し画像にもしているこち亀の81巻105〜123頁に収録されている797話「怒りの心にカルシウム!?の巻」でした。この回のお話は自分の怒りっぽさを反省した両さんがカルシウムをたくさん摂取して怒らないように気をつけるけれどもお祭りの会場で酔っ払いに絡まれて堪忍袋の尾が切れて全てが台無しになる、というもので週刊少年ジャンプ本誌には1992年40号に掲載されました。すでに1992年にはギャグマンガのネタにできるほどこの説が浸透していたことがうかがえます。

秋本治『こちら葛飾区亀有公園前派出所』81巻、集英社、1993年、116頁
秋本治『こちら葛飾区亀有公園前派出所』81巻、集英社、1993年、117頁

結局両さんにカルシウムは効果がなかったわけですが少年ジャンプにこの回が掲載されてから30年を経た現在、この説についてはカルシウム不足がイライラを引き起こすことはないということで決着がついています。簡単に説明しますと、細胞生物学のレベルで見て細胞外液中のカルシウムイオン濃度の異常が神経伝達物質の放出に異常を引き起こすことはあるけれども、人体に存在するカルシウムの99%は骨にあり、血中カルシウム濃度が下がれば骨から溶け出すことでその濃度は常に一定に保たれているので、健康な人が食事で摂取するカルシウムが少ないからといって神経伝達物質の撹乱が起こるような事態はありえない、という理屈です。

上記の説明ではわかりにくかったかもしれませんので、TBSテレビで2018年9月25日に放送された『この差って何ですか』という番組がこの説がホントかどうかを解説した記事へのリンクを貼ります。

リンク先に行って記事をお読みになった方はお分かりでしょうが、この番組ではなぜカルシウム不足がイライラの原因だと日本人が考えるようになったかの理由も解説しています。1975年にある雑誌に「ストレス社会の原因はカルシウム不足」という記事が掲載されたことがきっかけだとこの番組では結論づけています。ちょうどストレス社会が社会問題になるのと同時期に和食から洋食へと日本人の食生活が変化してカルシウムの摂取量が減るという事態が進行していたために両者が結び付けられて迷信が生まれてしまった、と説明しています。実はTBSテレビは2012年6月13日『まさかのホントバラエティー イカさまタコさま』という番組でもこのネタを一回やっていてこの時も1975年の雑誌記事がこの説の起源だという放送内容だったようです。

しかし、調査を進めるとイライラとカルシウムを関連づける説の始まりについて別の原因があるという論文を発見しました。それが山元亜希子『カルシウムの神話についてⅡ』帯広大谷短期大学紀要第43号、2006年、15〜28頁です。この論文は根拠に基づいた栄養指導を栄養士が行うためには栄養士自身が正確な情報を得なければいけないという問題意識の元にカルシウム不足=イライラの原因説を検証する論文ですが、22頁でこの説の発信源は川島四郎先生という人物であると指摘しています。
そこで私も川島四郎氏の著作を中心に調査したところ彼が1972年8月に毎日新聞の朝刊の「この人と」欄で全12回にわたってインタビューを受けていることがわかりました。9回目と10回目でカルシウムとイライラの関係について発言しているのでその記事を貼ってさらに発言箇所を引用しましょう。

この人と:横井庄一氏の食生活、毎日新聞、1972年8月17日、朝刊、東京版、9頁
この人と:カルシウムと赤軍派、毎日新聞、1972年8月18日、朝刊、東京版、9頁
マイクロフィルムからコピーをする時は図書館職員の説明を受けてからするという
事前の注意を忘れて怒られつつゲットした50年前の新聞記事(すいませんでした)

それに、この間の連合赤軍の食物ですね、群馬県の警察にこづかい帳があるんですよ 。寺林真喜江という女がつけておりましてね 。郵便切手の出し入れまでちゃんと書いてあるんです。きっとあれは、永田洋子から「アンタ、お金ごまかしたら総括よ」ぐらいいわれて書いたんだと思います。その買物の中に、青い野菜が全然はいってないんですね。つまりカルシウム食べていないんです。一ヵ月もカルシウムをとらないと、人間の精神が不安定になり、ヒステリックになってきます。(つづく)
カルシウムがいかに重要かについて、こういう実験をしたことがあるんです。モルモットを六匹ずつ二つの群れに分けて飼いましてね、一方のモルモット群に、ふつうのまともな食い物ー青い野菜やカルシウムを十分食わせる。別のグループにはカルシウムや青い野菜をまったく省いたものを食わす。そして毎日、目方を計るために、モルモットをつかんではカンカン(看貫)にかけて目方を記録するんですが、まともなものを食っているモルモットは、平気で私の手でつかまれるんです。ところが、カルシウムと青野菜が足りないやつに手を入れますとね、カッとかみついてくる。なんべんかみつかれましたか。モルモットでも、カルシウムと青い野莱が足りないやつは、気が立ってしまうんですね。連合赤軍も山のアジトで青い野菜食って、カルシウムが効いていたら、ああいうことにならなかったでしょうね。
日本人は、カルシウムというと、すぐに硬い骨とか歯を考えるんですけれども、カルシウムは精神安定剤ですからね。カルシウムが効いていれば、人間は穏やかになるんです。英国人が、マグナカルタ以来、議会でけんかしたことがないといって自慢しますけれども、あれは精神修養のせいではなくて、土地のカルシウムが効いているというだけですよ(笑い)。日本人は、何だというと二言目に手を振上げる。国全体が好戦国だというのは、カルシウムのないせいなんですね。ですから、お医者さんがヒステリー気味の女性にカルシウムの注射をするでしょう。そして、帰りがけにくれる粉薬もカルシウム剤なんです。カルシウムを注射されますと、ヒステリーでした感情がすうっと穏やかになってくる。カルシウムがそれくらい日本人には足りない。歯は悪くなる、骨はできない、気持ちがいらいらします。

この人と、毎日新聞、1972年8月17日と18日、朝刊、東京版より

冒頭で言っている“この間の連合赤軍“には説明が必要です。1972年の2月にあさま山荘での立て籠もりのすえ連合赤軍の残党が逮捕されるわけですが、その後の取り調べで警察と籠城戦をやる以前に仲間同士で壮絶なリンチをやって12名もの死者を出していたことが明るみに出てその陰惨さに日本中が衝撃を受けたという背景があります。そのショックが醒めやらぬ中で川島はあんな残酷なことができたのは連合赤軍の連中がカルシウムをちゃんと取らなかったから、と「説明」してみせたわけです。だからもはやイライラとかそういう次元でなくカルシウムをちゃんと取らないと人殺しになるよ、という話なんですね、元々は。引用部分の川島の主張をまとめると次のようになるでしょう。

  1. 連合赤軍が残虐な事件を起こしたのはカルシウムを取らなかったから

  2. カルシウムを与えないとモルモットも凶暴になる

  3. 医者はヒステリーの女性にカルシウムを処方している

今の時代でしたらすぐに「なんかそういうデータあるんですか」画像セットが貼られそうな主張ですが、念のため3番のカルシウムの処方について補足しますと、まともな医者でそんな保健適用されるわけない注射を打つ人はまずいないだろうと思います。若い方が見たらいくら昭和がヤベェ時代でもこの雑さでは通用しないだろうと思うかもしれません。しかし結論から言うと通用しました。この全12回の新聞記事はかなりの反響を呼び、翌1973年には毎日新聞社から大幅に加筆の上で『まちがい栄養学』という書名で刊行されます。これ以降、川島四郎は栄養学の権威としてマスコミに引っ張りだこになるのですが、その後の展開を見る前に桜美林大学教授(川島食糧産業研究所長)川島四郎とは一体どんな人物だったのか、まずそれをご説明いたしましょう。

ウィキペディアを引くと川島四郎は“日本の陸軍軍人、栄養学者“だと書いてあり、これを見るとどこかの大学で栄養学を勉強してから就職活動して日本陸軍に入ったのかな、と思われるかもしれませんがそうではありません。
1895年に京都に生まれた川島は中学を卒業してすぐに陸軍経理学校に入学します。陸軍経理学校とは経理科を担当する軍人を養成する学校で全国から50人ほどが試験で選抜される戦前のエリートコースの一つでした。ここを卒業して日本陸軍の軍人としてシベリア派兵や日本全国(満州含む)での勤務を経験したのち、1926年に陸軍大学校経理部へ入学を命ぜられます。この学校で優秀な成績を収めたものは東京帝国大学(現在の東大)の法学部に行って勉強するのが慣習でしたが、この時に成績優秀者として選ばれた川島は自分は栄養と食料の研究をしたいと直訴して認められ東京帝国大学農学部農芸化学科へ入学し、ここで鈴木梅太郎に師事します。つまり生粋の職業軍人が自分の仕事に役立てるために食物と栄養について専門的に勉強をしたというのがこの人のキャリアだと言えます。そして1930年まで東京大学で研究をした後は陸軍に戻り、以後は終戦まで軍用糧食の研究と実践に没頭し、1942年に「軍用糧食の研究」により農学博士号を取得しています。

つまり戦時中の川島四郎は基本的には軍隊が戦争するときの兵士が食べる食糧という兵站を担当する役目の軍人であり、そのための栄養学の専門知識だったわけです。
しかし、太平洋戦争で日本の敗色が濃厚になった時期に国内の食料事情が悪化すると、栄養学の専門家として食料危機という国難を知恵と工夫で乗り切ろうという軍の宣伝を推進する役割を果たすようになります。斎藤美奈子さんの『戦下のレシピ 太平洋戦争下の食を知る』は戦時中の婦人雑誌の記事を手がかりに当時の人々の食の事情を調査した本ですが、戦争末期の1944年(昭和19年)頃からメディアで活発に発言していた川島大佐が婦人雑誌に寄稿した文をたくさん収録しています。その中から3つほどご紹介しましょう。

■野草の食べ方1
▲たんぽぽのカルシウム和え=たんぽぽの若葉をさっと熱湯に通して水に晒しておき、焼魚の頭や骨、玉子の殻などを摺り潰して、あれば昆布も焼いて摺り合せ、好みの味をつけてたんぽぽと和えます。たんぽぽのほろ苦さを除くには、茄でてからしばらく水に浸しておくこと。しかしたんぽぽの苦味は、菊科植物特有のイスリンですから、除かずに食べる方が栄養的です。
▲和え物やお浸しに向くもの=つくし、ぼけの花、すみれ、いたどり、よもぎ、ぎしぎし、はこべ、たびらこ、すべりひゆ、おおばこ、あかざ、野びる、かたばみ、たらの芽など。
(中略)
▲味噌汁に向くもの=クロバー、はこべ、あしたばなど。
(中略)
▲油炒めに向くもの=れんげ草、なでしこの若芽、いのこづち、すぎな、あまどころなど。 ( 川島四郎大佐/『 主婦之友』昭和一九年五月号

斎藤美奈子『戦下のレシピ 太平洋戦争下の食を知る』、岩波書店、2015年、132−134頁

■主食を補う非常食
▲高野豆腐=高野豆腐は生で食べられる。これこそ日本古来の立派な乾パン、ビスケットです。最初は口がもぞもぞするようですが、少しずつ含んで永く噛みしめていると、底知れぬ美味しい味が出てきます。これは質のよい植物性蛋白質ですから、肉代りの立派な携帯食となるのです。
▲煎茶=野菜の代用として心して確保してください。茶は飲むものと定めていますが、葉をそのまま噛んで食べてもよく、これさえあれば野菜類が手に入らなくても、保健上障りはありません。
 ( 川島四郎大佐/『主婦之友』昭和一九年五月号 )

斎藤美奈子『戦下のレシピ 太平洋戦争下の食を知る』、岩波書店、2015年、144−145頁

燒け跡での非常炊事
料理道具は何一つ持ち出せなかったとしても、バケツで結構御飯が炊けます。洗面器で汁もできれば煮物もできます。待避壕の入口にあるシャベル、これは立派なフライ鍋。もし油があればこれで非常袋の中の乾燥野菜を炒める。こうした機転で同じものも美味しく食べられるのです。爆風で落ちた瓦、これも重宝な調理器具 、お米やお豆が即座に炒れます。干魚も焼けます。
 ( 川島四郎大佐/『主婦之友』昭和一九年十月号 )

斎藤美奈子『戦下のレシピ 太平洋戦争下の食を知る』、岩波書店、2015年、147頁

食事の話というよりもサバイバル入門といった内容ですが、この時期には食糧難に加えて空襲で焼け出される可能性もあり、飢えて死ぬことが現実にありえた時代では食べることが生きるか死ぬかに関わる話題だった事を反映していると言えるでしょう。他にも大根は料理なんかせずに生で食べなさいとか、じゃがいもの芽に含まれる毒素のソラニンは熱を加えればある程度消えるから生で食べるとき以外は皮を剥くなとか、現代からするとむちゃくちゃなこと言っとると思えるような意見もあるのですが、これらもいかに当時の日本の食料事情が逼迫していたかの表れでしょう。

川島四郎は50歳という年齢で1945年8月15日を迎え、その時の地位は立川の航空技術第七研究所の所長で軍隊での最終階級は陸軍主計少将でした。終戦後しばらくはGHQによる公職追放の対象となっていたために二、三人の元部下と「食糧産業研究所」を立ち上げますが資金を出してくれていた「修養団」という組織からのお金が途絶えたため研究所の看板のみを残して解散します。しかし1950年8月にはGHQから直々に朝鮮戦争で韓国軍に支給する携帯食料の開発を依頼されたりといった仕事を請け負い、戦時中に培ったキャリアとマスコミとの人的繋がりを生かして民間の学者として活動を続けます。その後は大学での教育活動や婦人雑誌とか栄養学の業界の雑誌への執筆など順調な仕事ぶりでしたが、それはあくまでも知る人ぞ知るといったもので学問分野ですごい貢献をして注目をされたわけではありませんでした。しかしその運命がある人物との出会いによって大きく変わります。その人物とは昭和の伝説的なプロデューサーの小谷正一でした。

小谷正一についてこの記事で詳しくは取り上げませんが、終戦直後の時期に毎日新聞とその関連会社に所属しながら大掛かりなイベントを次々に仕掛けて成功させ、のちに電通の社長から直々に誘いを受けて電通に移籍し、その社長が亡くなってから独立した後もずっと電通の顧問として影響力があった、そんな人です。小説家の井上靖が彼をモデルに『闘牛』という小説を書き、その作品で第22回芥川賞を受賞したことでも知られています。川島四郎と小谷との出会いは全くの偶然によるもので、その経緯は川島の伝記に小谷自身の証言として載せられていますので少し長いですが引用してみます。

電通の顧問で、デスクKの社長小谷正一氏は、川島さんを心から尊敬している一人だが、それは約一〇年前の偶然の出会いから始まったのである。その出会いの思い出を小谷氏の口から聞くことにしよう。
〈私が世話しているある旅行社の社員から、欧州パック旅行の人員が二人足りないので何とかしてほしいと頼まれ、じゃあいっそ家内と二人で参加しようということになりました。東京からローマまで飛びつづけ、ローマのホテルに着いたのは、夜の十時を過ぎていましたか……。あくる朝のことです。朝食のテーブルに就くと、同じテーブルに一行の仲間の初老(と当時は思った)の人が座っておられました。お互いに挨拶を交わしてから、儀礼的に、『昨夜はよくお眠りになりましたか」ときくと、「いや、あまり寝てないんです。二時間ばかりしか眠っていません」との答え。その理由を聞いてビックリしました。昨夜ホテルに着くとすぐ市中へ出て行って、食べ物を売っている店を見て歩いた、と言われるのです。しかも、今朝は三時前に起きて、昨夜予約しておいたタクシーで市外の生鮮食料品の市場に行き、どんなものを入荷し、どんなものがよく売れているかを調べてきた。そして、昨晩売れ残っていたものと比べ合わせて、この町の人がどんなものを好んで食べているかを研究したというわけです。海外パック旅行を経験した人は覚えがあるでしょうが、夜遅くホテルに着くと、早々にバスかシャワーを浴びてベッドに潜り込むのが常例ですが、この方はあまり若くもないのに、いったいどうした人なんだろう、と思ったのが第一印象。それが、ほかならぬ川島先生だったんです。ポンペイの廃墟を見物に行った帰りにも、また驚かされました。「今日はとてもうれしい発見をしました」と言われるので、わけを聞いてみると、廃墟の家の壁画に鯛の絵があった。この辺の人も鯛を食べていたのか……漢字の鯛という字は魚ヘンにあまねしと書く、あまねくどこにもいる魚という意味だとは思っていたが、ここのイタリア人も世紀前から鯛を食べていたことが壁画によってハッキリ分かって、うれしくて仕方がない……こう言いながら、子どものようにニコニコしておられるのです。次にビックリさせられたのは、あるレストランに行ったときのことです。メニューを見ておられた川島先生は、やにわに、それこそ椅子を蹴っ飛ばさんばかりに立ち上がり、ボーイの一人をつかまえてそのメニューの一か所を指さしながら何か問答しておられたかと思うと、今度はツカツカと厨房の中へ入って行かれるのです。やがて、満面に笑みをたたえて席へ帰って来られるや、「何十年来の疑問が解けました。いや、じつにうれしいです」と、またまたうれしいの連発なんです。わけを尋ねると、そのメニューにKanenariという料理名があった。ところが、仙台の名物にカネナリという小麦粉を柔らかく焼いたせんべい風のものがある。伊達政宗以来、一種の携帯口糧として軍用に用いられていたのが一般化したものだが、その名称の由来がどうしてもわからなかった。長いあいだ疑問に思っていた。それがわかったのだ……ということでした。つまり、支倉常長が伊達政宗の命を受けてスペインおよびローマ教皇のもとへ使節として派遣されたとき持ち帰ったものだったのです。いずれにしても、川島先生という方は、こと食べ物に関するとなると、何という一途な方なんだろう。すでに該博な知識と豊富な経験を持ちながら、底知れない好奇心と探究精神を持った、じつに現今稀なる人物だ……と敬服してしまったのです〉

山下民城『川島四郎・九十歳の快青年』、文化出版局、1983年、157-160頁

ヨーロッパツアー旅行での偶然の出会いをきっかけに川島四郎のユニークな個性と知性に感銘を受けた小谷正一は日本のマスコミに彼のことを売り込みます。二人の出会いの正確な日付はわかりませんがこの証言が載っている本の刊行年が1983年でその約10年前というとおそらく1972年か1971年の出来事でしょう。ということでやっと1972年8月に毎日新聞に掲載された全12回のインタビュー記事の話まで戻ってくることができました。
川島四郎が登場した毎日新聞朝刊の「この人と」欄ですが川島四郎の前に載ったのが自民党の政治家で首相候補であった福田赳夫、次が共産党の政治家の野坂参三というラインナップで、いくら終戦時に陸軍主計少将まで出世していたとはいえ一介の研究者が載るのは異例のことだったはずです。記事が載ったのは小谷正一が川島四郎を自分の古巣である毎日新聞に紹介したからなのはまず間違いないでしょう。

タイトルで用いた「起源」という言葉で表現していますが、この記事の目的はカルシウム不足がイライラの原因だと日本人が信じるようになった原因とは何かを探るというものでした。そしてそれはこの説が多くの人の目に触れて広まったきっかけを見つけることに他なりません。川島四郎が1972年より前にすでにカルシウムに精神安定剤の効果があると信じていて、またその説をどこかに書いていたとしても狭い読者にしか届かない紀要などではそれは「起源」とはいえないでしょう。
私はここで1972年8月17日と18日の毎日新聞に掲載された川島四郎のインタビュー記事こそが「なにイライラしてんだよ、カルシウム足りてねぇんじゃねえの?」の起源であると主張したいと思います。
このHPでは50年分の毎日新聞の発行部数がまとめられていて1972年の発行部数は約482万部でした。実はこの翌年の1973年の約488万部が毎日新聞の発行部数のピークであり、それ以降は毎年下降しているとのことです。毎日新聞が歴史上最も影響力のあった時期に掲載されて好評を博し、単行本化までされた記事を「多くの人の目に触れて広まったきっかけ」とみなすのはごく自然なことだと読者の皆さんも思われることでしょう。そしてTBSテレビが主張する1975年の雑誌記事が起源であるという説よりも私の説の方がより過去まで遡っていてなおかつ与えたインパクトが大きそうだと思っていただけたのではないでしょうか。
それにしても1975年説を2回も放送したのが毎日新聞との関わりが深いTBSテレビであることを考えると、なにか歴史を改竄する意図でもあるのかと勘繰ってしまいそうにもなりますがオチはただのリサーチをした人の見落としか何かだろうとは思います。私は番組を実際に視聴してはいないので正確なことはいえませんが2012年の放送では迷信の原因となった雑誌を『女性セブン』だと特定していたらしいので、もしこの記事をTBSの関係者の方がお読みになることがありましたら『女性セブン』にひと言ごめんなさいといってあげるのが良いのではないでしょうか。

さて、記事も長くなってきましたし、目的である「なにイライラしてんだよ、カルシウム足りてねぇんじゃねえの?」の起源探しは果たせたのでここで筆を置きたいと思います。電通との繋がりが深い敏腕プロデューサー小谷正一に見出された1972年以降の川島四郎の活躍はまた記事をあらためてご紹介したいと思います。

[追記](2022年10月16日)
予告した通り、続編の記事を公開できました。
下記にリンクを貼っておきます。
1972年以降の川島四郎の活動と、そもそもなぜカルシウム不足がイライラの原因になると思っていたのかその理論の淵源えんげんを探ります。そして川島の言論活動がのちの世代の砂糖有害論というフードファディズムにどのような影響を与えたかについても書いております。
是非にご一読をオススメいたします。

<参考文献>
川島四郎『まちがい栄養学』毎日出版社、1973年
斎藤美奈子『戦下のレシピ 太平洋戦争下の食を知る』、岩波書店、2015年
山下民城『川島四郎・九十歳の快青年』、文化出版局、1983年
山元亜希子「カルシウムの神話について I 」『帯広大谷短期大学紀要第42号』、2005年、29〜42頁
山元亜希子「カルシウムの神話についてⅡ」『帯広大谷短期大学紀要第43号』、2006年、15〜28頁