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不道徳なネタが楽しめなくなった話についての1人対話

昔のまんがとかお笑いを見るとオカマやブスを無邪気に笑いの対象にするネタがたくさんあって「今はこういうのもう無理だな」と思うと同時に、そういうのを面白がれる感受性が自分の中から無くなってるのにも気付く。自分以外の人の感覚も結構そうなってきてるんだろうか。

「このツイート、ずいぶん拡散されてしまったな」

「3000RT以上されてますね、なんででしょうね」

「差別とかそういう話題はツイッターのトレンドだからじゃないか?」

「そんな簡単なもんですかね」

「みんなリプライや引用ツイートで勝手な連想を書きまくっているな」

「勝手な連想を書きまくるのがツイッターだからそれでいいんじゃないですか」

「それにしたって、ピントが外れた返信が多くはないか、これとか」

「これは確かにだいぶズレてますね。そこは主題じゃないし、書いたの、男だし」

「あくまで例のひとつにすぎない『ブス』という言葉に反応して、自分が常々抱えていた問題意識をこの機会に書こうとしているんだろうか」

「これもズレている。要るとか要らないとかの話はしてないのに」

「うーん、そうでしょうか。これはこれで鋭いことを言っているような気がしますが」

「どこがだ?」

「元ツイートの趣旨を少し単純化するとこんな感じになりますよね」

道徳的に悪いとされているネタを昔は楽しめたけれど、今となっては「もうこういうネタを成立させるのは無理だな」と思うばかりか、楽しめる感性自体がなくなっていた。他の人もそうなんだろうか?

「うん」

「このツイートに引っかかりを感じた人は、たぶん『道徳的に悪いこと(この場合は容姿や性指向での差別)で楽しむこと』自体を道徳的に許しがたいと思っているんです」

「そうだろうな。ここはよく議論になるよな。悪いことを考えて楽しむことは悪いことか、っていう。別にフィクションならいいと思うけどな……でも、ツイート主はたとえフィクションでも『楽しめなくなった』って言ってるんだぜ。意見一致してるじゃん」

「おそらく、『楽しめる感受性をなくす』という形でそれを表現した言語感覚に不安感をおぼえたのではないでしょうか」

「この引用ツイートがまさにそれにあたるな。『感受性を失った』のではなく、『感受性を得た』、だから笑えなくなった。いやむしろ、笑わない人間に成長したのだ、という。私には言葉遊びにしか感じられんが」

「いえ、その言葉遊びに微妙な差を認めるかどうかが、道徳を内面化している人とそうでない人の違いなんじゃないかと。一見ズレたリプライをしている人は道徳を内面化することに成功していて、ツイート主はそうではないんですよ」

「ん、どういう意味だ? そういえば『これはこれで鋭い』って言ってたことは結局なんだったんだ?」

「さっきのツイートでは『オカマもブスも笑いの対象にして良いと思ってること自体が間違い』と書いてありました。この部分はその道徳観の差を示していて鋭いと思ったんです。本人は自覚してないタイプの鋭さですけど」

「ツイート主だって、今や『そういうネタで笑えなくなった』と言っているのに、さも反論みたいにそんなことを言ってくるのはズレてるとしか思えないけどなあ」

「さっきツイートを単純化したとき、こう書きました」

道徳的に悪いとされているネタを

「しかし、ちゃんと道徳を内面化している人は、こういった要約を認めないんです。書き直せばこうなるでしょう」

道徳的に悪いネタを

「『とされている』がなくなるのか」

「『とされている』という言い方が与える意味は、価値観の相対性です。誰もが、世の中の価値観が移り変わっていくという事実を認めますよね?」

「江戸時代は切腹が美徳だったけど、今はなんの意味もないとか?」

「そうです。けど、それを認めた上で対立する問題があると思うんですよ。1つめが『江戸時代の切腹は正しかったのか』そして2つめが『現代の道徳はこれからも正しいのか』です」

「江戸時代は切腹が正しい時代だったんだから正しかったし、現代の道徳だってこれから覆されることがあるからずっと正しいとは言えないんじゃないか? それが価値観が移り変わるってことだろう」

「真に道徳的な人はそう考えません。そういう人たちのいう『移り変わる価値観』とは、間違っていた道徳が徐々に正されていく過程を表現しているのであって、時代によって別の正しさがあるよね、という話ではないんです」

「デモ運動してる人たちみたいに、現在の道徳は不完全だから未来の道徳観を訴えてる人もいるんじゃないか?」

「そういう人は現時点で成立してない社会通念を実現させるために運動を起こしているだけなので、その人の中には確固たる道徳観があります」

「ずいぶん視野の狭いことだな。価値観が移り変わっていることは認めているのに、自分がいる場所こそがその終着点だと絶対視できる神経がわからない」

「しかし、本当に相対的な価値観で生きられる人なんかいるんでしょうか。明日から殺人が合法になったからといって、正しいこととしてそれをやれます? 社会通念や法律を超えて、それは間違っていると思うのでは? 誰だって絶対的な価値観を持っているはずです」

「そうかもしれないけど、だからって自分の価値観を疑わなかったら、これが正義だと信じて大量虐殺とかに加担しちゃいそうで怖いけどなあ」

「でも、『大量虐殺は正しい』という価値観と『ブスをバカにするのはよくない』という価値観は違うんですよ」

「なんで」

「違うから」

「えー」

「結局、今はもうナチスが間違ってたって判明したあとだから相対化できるんですよ。今では逆に『大量虐殺は正しかったかも…?』みたいな可能性を考えることはほとんどできなくなってるんです」

「『ナチスが正しい』と当時の人が間違って信じていたみたいに、『ナチスが間違っていた』と間違って現在の人が信じているってことはないわけ?」

「ないです」

「なんで」

「現在が正しいから」

「えー」

「別に、有無を言わさず正しいって言ってるんじゃないですよ。ナチスが悪なのも、容姿差別が悪なのも、背景にはしっかりした理由があるので。でも理由ごとひっくるめて、あらゆる時代に理由付きの道徳が成立してしまうからこそ、道徳観は現在を軸に絶対化せざるをえないんです。きりがないから」

「あらゆる時代に理由付きの道徳が成立してしまうからこそ、道徳観はどこまでも相対化できるとも言えるだろ。きりなく」

「なぜかそこで分岐するんですよね……。そこが、現在の道徳観を絶対化する人と相対化する人の根本的なスタンスの違いだと思います」


「話を戻すが、発端となった元ツイートが妙に拡散し、変わったリプライがいろいろ来た理由はなんだと思う?」

「ツイート主がより道徳的な価値観にアップデートした、つまり『より正しくなった』にもかかわらず、それを感受性の喪失という形で相対的な視点から書いた、つまり『正しさを絶対視しなかった』せいで、変な感じになったんじゃないでしょうか。正しくなれたことの語り方が間違っていた」

「なんにせよ、あまりツイートの内容とは関係のない部分だな」

「まあ関係なくていいのでは。しょせんツイッターだし」

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