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hadakadebanezumi
私のつぶやきにChatGPTは何と答えたでしょう?
私はキリスト教信者ではないが、それでも聖書を読むと、いちいちもっともで、反論の余地は皆無だろうと思ってしまう。その聖書なりに刻まれた真実を具象化することが、たとえば芸術家の仕事だとしたら、「芸術活動」=「ただの布教活動」ということになるが、私は、芸術家の仕事は、一つに、そこまでで良いと思っている。
実際、自分でも気づかないうちに、自らの芸術が布教活動的になっていると思うことが、私自身は度々ある。私が作品に籠めている自らの思想や価値観が、聖書なりにすでに記されているということである。
要するに私は、聖書以上の真実が仮にこの地上にあったとしても、それを獲得することをはなから諦めており、私の芸術的挑戦は、言葉にすると大げさだが、すでに存在する十全な価値観を広めようとしているだけに過ぎないのかもしれない。しかしそれは、私に限らず、すべての芸術家にいえることではないか?
新しい方法論はいくらでも模索はできようが、新しい価値観となると、たぶんもうない気がする。出尽くしている。ジョイスやプルーストにしても、その方法が新しいだけだろう。それ以前のカフカも然り。価値観が新しいわけではない。
一見、新しく思える稀有な考えや価値観のほとんどが、既存の価値観にたどり着くまでの過程としか、最近の私には思えない。しかし、過程のみでもそれに偽りがなければ、一応芸術と言えるのかもしれない。
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