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冷たい男 第7話 とある物語(3)

 冷たい男は、胸元を握り締める。
「人生をなかったことにされる?」
 チーズ先輩は、子狸の持っている線香を2本抜き取る。
そしめカウンターの下からはすの形をした香炉を2つ取り出すと一本ずつ香炉に差し、片方に火を付ける。
 子狸が何か起きるのではないかと恐々した目で見る。
 線香から小高い山を思わせる澄んだ草花の匂いが漂う。
「人生と言うのはこのように命を燃やしながら時を刻み、進んで行きます。それは誰もが一緒。しかし、その歩んで来た道は千差万別。その人それぞれ築いてきたもの、得たもの、そしてそれを見てきた人が存在します」
 チーズ先輩は、短くなった線香を高炉から抜き取り、火のついた部分をもう一本の線香の先に付ける。
 子狸がアワアワと口を動かす。
「とある物語はその歩んできた人生、つまり"物語"を手記に書き写してしまうんです」
 線香に火が灯る。
 チーズ先輩は、指先まで短くなった線香を元の香炉の上に落とす。
 線香は、砂の中に沈み、跡形もなく崩れ去る。
 何事も起きたなかったことに子狸は、胸を撫で下ろす。
「このように。故人の歩んできた人生は"とある物語"の中だけに存在し、亡骸は文字通りのただの抜け殻になってしまうのです」
 冷たい男は、心臓を知らない誰かの手で握りられるような感覚に襲われる。
 脳裏に蘇るはあれだけ嘆き、悲しみ、慈しんで故人を見ていたはずの遺族の無表情な顔、顔、顔。
 そこには何も存在しない。
 テーブルに並んだ見慣れた菓子や小物を見るように無感情で無感動だった。
「・・・誰も・・・覚えてないんですか?」
「覚えてないかは分かりません。ただ、覚えていたとしてもそれを近しいものとは思わないでしょう。それこそどこかでそんな話しを聞いたことがあるな、と言うような御伽話くらいに」
 冷たい男は、拳を強く握り締める。
「戻してあげることは出来ないんですか?故人の記憶を」
 チーズ先輩は、首を横に振る。
「分かりません。"とある物語"自体が魔女の間でも文献にしか残っていない不確かなものなので。実例を聞いたのも近年では私くらいでしょう」
 魔女ではありませんが・・と小さい声で付け足す。
「それに実際に"とある物語"で実害があったと言う報告もないのです」
 冷たい男は、驚愕に目を見開く。

 実害がない?

 生きてきた存在を取られているのに?

 冷たい男の疑問を表情から読み取ったのか、チーズ先輩は、小さく息を吐き、切長の目を閉じる。
「被害を受けているのはあくまで死者。生者ではありません。実際に存在を奪われたとされる故人の遺族を後追いした研究事例もありますが大きな影響を受けたと言うものはありません。と、言うか本来出るであろう影響すらも"とある物語"に記されてしまっているのでしょう。だから実害が出ようはずがない」
 だから放置されている、問題を先送りにする政治のように。
「てか、何で死者の存在なんか記す必要があるんや?」
 凍りついた蝉の回収を終えたハンターが口を挟む。
「そんなもんに何の価値があるんや?」
 ハンターは、口にしてから"しまった"と己を呪う。
 冷たい男が、あだ名とは正反対の怒りに燃えた目でハンターを睨みつける。
 ハンターは、その手に触れられたかのように背筋を震わす。
「分かりません」
 その空気を読んでか、読まないでか、テーズ先輩が静かな口調で言う。
「"とある物語"の実例はあまりにも無さすぎるのです。ですからその目的すらも解明されてません」
 チーズ先輩は、怒れる冷たい男に優しい目を向ける。
「慰めになるかは分かりませんが"とある物語"が記すのはあくまで存在。魂ではありません。その方はしっかりと天国に・・・」
「そういう問題じゃない!」
 冷たい男は、叫ぶ。
 チーズ先輩、ハンター、茶トラ猫、子狸は思わず息を飲み込む。
 穏やかで優しい冷たい漢が激昂するのを2人と2匹は初めて見た。
「・・・すいません」
 皆の視線に気づいた冷たい男は、恥ずかしそうに身を縮める。
「・・・この仕事をしていると"死"について考えさせられるんです」
 冷たい男の言葉にチーズ先輩は、眉を顰める。
「人生って十人十色ですが死ぬ時って一緒なんです。冷たくなって、動かなくなって、喋れなくなって。でも、無くならないものもあるんです。
 それが生きた証。
 生きてきた歩み・・存在です。
 それは人の記憶の中にあったり、記録の中にあったり、身寄りなく孤独に亡くなる人もいるけどその人にだって関わってきた人もいれば存在していた証もある。最後を見送る俺達だってしっかりとその人のことを覚えてます。
 でも、それすら無くなってしまったらその人は本当に死んでしまう。存在が無くなってしまう。遺体があろうと霊があろうとそれではいないものと一緒だ」
 冷たい男の悔しげに歯噛みする音が皆の耳に届く。
「死者を送る者としてそんなモノの存在を俺は許すことは出来ません。絶対に・・・」
 冷たい男は、子狸が纏めた線香の箱詰めを受け取理.背負っていたリュックに仕舞うとそのまま店を出ていこうとする。
「まっ・・・」
 チーズ先輩が呼び止めようと身体を起こすと。その胸が香炉に当たり、2つとも見事に床に落下し、灰をばら撒く。
 チーズ先輩は、汚れた床を見て、そして恐る恐る子狸を見る。
 子狸は、恐ろしく冷ややかな目でチーズ先輩を見ていた。
 ハンターは、海色の虫網を槍のように肩に背負って冷たい男の去った扉を見る。
「会長・・・」
「何でしょう・・・?」
 チーズ先輩は、子狸に小言を言われてしゅんっとしている。
「その"とある物語"っていうのはSSRなんか?」
 ハンターの言葉の意味が分からず眉根を顰める。
「凄いレアなのって意味」
 子狸が翻訳する。
「レアかどうかは分かりませんが魔女歴史でも実物を見た事例は今回を含めて数える程です」
「そうか・・・」
 ハンターは、短く答えてにっと笑う。
 チーズ先輩と子狸は、意味が分からず首を傾げる。
 足元にいる茶トラ猫だけがその意味を察していた。
「また、面倒なことになりそうにゃ」

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