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【再掲】湯灌(1)

「"湯灌《ゆかん》"は、どうされますか?」
 黒い背広を着た強面の男の口から発された聞きなれない単語に俺は眉根を寄せ、怪訝な表情を浮かべる。
 底冷えするリビング、出汁の効いた味噌汁の香り、啜り泣く声、そして眠気で少し靄の掛かった視界の中で男の印象と声色は、呆けた頭に良い意味でも悪い意味でも刺激を与えた。
 俺の横で妻は目を赤くし、頬に涙の跡を残したまま、同じように怪訝そうな表情を浮かべている。
 昨晩、親父が死んだ。
 長い闘病生活の上、病院のベッドの上で静かに心臓を止めた。
 84歳。
 後、数日で平成から令和に切り替わると言う時だった。
 俺は、親父が40過ぎて生まれた子どもなのと歳の割には童顔なのでよく孫と間違えられていた。
 今、親父は、俺の背後に敷かれた布団の上で寝ている。枕元に生前、大好物だった味噌汁を置き、その周りを親父の兄弟たちが囲んでいる。
 当時は、コロナウイルスが蔓延する前だったのでこのように密になって集まることも許されていた。
「頑張ったね」
「兄ちゃん今までありがとね」
    70過ぎた親父の兄弟たちは幼い子どもに戻ったように泣き続ける。 
 これが本来の家族の姿なんだろうな、と思いながら俺は目の前の強面の葬祭ディレクターと話していた。
 一見、その筋の人間に見えるこの強面葬祭ディレクターと会うのは今日が初めてではない。
 福祉という職業柄、終活という新しいワードに興味を示し、終活講座を企画した。その時の講師が目の前にいる強面の葬祭ディレクターだ。1級終活ガイドの資格を持つ彼の話しはとても分かりやすく、喋り方も心に響くもので、葬儀の種類や手続きや生前に必要なこと、エンディングノートについても色々と話してくれた。
"死"という身近でありながら身近でなく、抵抗もあるためか?正直そこまで人は集まらなかった。しかし、参加していった地域住民たちは普段、知ることの出来ない話しを聞くことが出来てとても感銘を受けていたことを思い出す。
 かく言う俺も感銘を受けた1人だ。
 あの話しを聞いたお陰で親父が余命宣告を受けてからの動きもスムーズに行うことが出来たと思っている。
 余命宣告を受けてから直ぐに葬祭ディレクターの所属する葬儀会社と早めの契約をすることで死後の対応もスムーズに行うことが出来た。
 料金も通常よりも安く抑えることが出来た。
 檀家となってる菩提寺とも事前に打ち合わせをしておくことで葬儀の形で揉めることなくスムーズに進めることが出来た。
 行政の手続きも前持って知ることが出来たし、自分で調べることも出来た。
 そんなに準備してきたにも関わらず"湯灌"という言葉を聞いた時、頭に?が浮かんだ。
「湯灌とは文字通り個人のお身体を清める儀式です」
 故人の髪や身体を清め、化粧を施し、装束を着せ、納棺する。
「湯灌を行う理由は二つあります。
 一つは衛生的な観点。
 人は亡くなった瞬間から腐敗が始まります。体液の漏れや皮膚の変色が起こります」
 その言葉を聞いて居間に上がった直後の彼の叫びを思い出す。
『これはいけません!』
 平成の終わりで季節も春だったが、昨日の夜から降り続く雨で気温が下がり年老いた親族の為に暖房を付けていた。
 その行為を彼は咎めた。
 親父の身体の腐敗が進んでしまう、と。
 何かの本で現代の人間が食べる食事には、特にインスタントや出来合いの弁当や惣菜、お菓子などに腐敗を予防するものが入っているから、遺体は腐りにくくなっているという話しを読んだことがあるが、所詮は都市伝説だったかとがっかりしたのを覚えている。
 まあ、親父は人一倍健康に気を使ってそう言ったジャンキーなものには手を出していなかったから、例え都市伝説が本当でも普通に腐敗していったのかもな。
「その為、納棺までに湯灌を行うことでお身体の変化に対処することが出来ます」
 つまり最後の風呂か、と俺は漠然と捉えた。
 確かに親父は風呂が好きだったし、ゴールデンウィークに令和の切り替わりで火葬場も混んでいるというから必要な処置なのかも知れない。
 最後くらいは綺麗に送り出してやってもいいのかな?
「もう一つは宗教上の観点からです。
 生まれた赤ちゃんが産湯に浸かるように現世での汚れを洗い清め、魂を浄化し、故人が来世へと導かれるように願いを込めて行います」
 輪廻転生か。
 親父の歩んできた人生を考えると現世の汚れを取るのは大切なことかもしれない。現世でついた余計なものを流して来世で幸せに生きる。
 確かに理想論だな。
 葬祭ディレクターの言うことはよく分かった。
 隣で妻も興味深そうに聞き、俺の顔を見てやってあげようという表情をする。
 しかし、俺はまだ踏み切れずにいた。
 湯灌を行う金額が高額ということも要因の一つにあるが、そんなことをして本当に意味があるのか?
 所詮は、大昔の誰か偉い坊さんが考えた空論だろうと。寺に墓を持ち、仏教に所属しているはずなのにそんな無宗教論者のようなことを考えてしまっている。
 俺が考えあぐねていることに気がついた葬祭ディレクターは、眼鏡の奥で目を細める。
 そんな顔をすると本当にその筋の人のように見える。
「これは私の持論ですが・・・」
 葬祭ディレクターは、身体に似合わない小さな声で話す。
「決して湯灌を必ずやらないといけない訳ではありません。変な言い方ですがドライアイスでもお身体を保つことは出来ますし、装束で痛んだ箇所を隠すことも出来ます」
 俺は、眉を顰める、
 それならやる必要がないのでは?
 しかし、次に葬祭ディレクターが放った言葉が俺の意志を決定づけた。
「私は湯灌は、故人との最後の会話の場と考えています」
 最後の会話の場?
「通夜も告別式も喪主様は式を仕切ったり、弔問される皆様にご挨拶をしたりと故人と向き合う余裕がございません。湯灌は、そんな喪主様やお遺族様に取ってゆっくりと故人とお話し、向き合うことの出来る最後の場となると思います。そしてご遺族様にとっても一つの区切りの場となるのではないかと私は考えております」
 最後の場。
 会話。
 向き合う。
 その言葉が俺の心に清水のように染み込んだ。
 そして俺は湯灌を行うことを決めた。
 親父の火葬が5日後。その2日前に湯灌を実施することとなった。

                    つづく
#小説
#最後の別れ

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