見出し画像

冷たい男 第7話 とある物語(後編)

冷たい男は、胸元を握り締める。
「人生をなかったことにされる?」
 チーズ先輩は、子狸の持っている線香を2本抜き取る。
そしめカウンターの下からはすの形をした香炉を2つ取り出すと一本ずつ香炉に差し、片方に火を付ける。
 子狸が何か起きるのではないかと恐々した目で見る。
 線香から小高い山を思わせる澄んだ草花の匂いが漂う。
「人生と言うのはこのように命を燃やしながら時を刻み、進んで行きます。それは誰もが一緒。しかし、その歩んで来た道は千差万別。その人それぞれ築いてきたもの、得たもの、そしてそれを見てきた人が存在します」
 チーズ先輩は、短くなった線香を高炉から抜き取り、火のついた部分をもう一本の線香の先に付ける。
 子狸がアワアワと口を動かす。
「とある物語はその歩んできた人生、つまり"物語"を手記に書き写してしまうんです」
 線香に火が灯る。
 チーズ先輩は、指先まで短くなった線香を元の香炉の上に落とす。
 線香は、砂の中に沈み、跡形もなく崩れ去る。
 何事も起きたなかったことに子狸は、胸を撫で下ろす。
「このように。故人の歩んできた人生は"とある物語"の中だけに存在し、亡骸は文字通りのただの抜け殻になってしまうのです」
 冷たい男は、心臓を知らない誰かの手で握りられるような感覚に襲われる。
 脳裏に蘇るはあれだけ嘆き、悲しみ、慈しんで故人を見ていたはずの遺族の無表情な顔、顔、顔。
 そこには何も存在しない。
 テーブルに並んだ見慣れた菓子や小物を見るように無感情で無感動だった。
「・・・誰も・・・覚えてないんですか?」
「覚えてないかは分かりません。ただ、覚えていたとしてもそれを近しいものとは思わないでしょう。それこそどこかでそんな話しを聞いたことがあるな、と言うような御伽話くらいに」
 冷たい男は、拳を強く握り締める。
「戻してあげることは出来ないんですか?故人の記憶を」
 チーズ先輩は、首を横に振る。
「分かりません。"とある物語"自体が魔女の間でも文献にしか残っていない不確かなものなので。実例を聞いたのも近年では私くらいでしょう」
 魔女ではありませんが・・と小さい声で付け足す。
「それに実際に"とある物語"で実害があったと言う報告もないのです」
 冷たい男は、驚愕に目を見開く。

 実害がない?

 生きてきた存在を取られているのに?

 冷たい男の疑問を表情から読み取ったのか、チーズ先輩は、小さく息を吐き、切長の目を閉じる。
「被害を受けているのはあくまで死者。生者ではありません。実際に存在を奪われたとされる故人の遺族を後追いした研究事例もありますが大きな影響を受けたと言うものはありません。と、言うか本来出るであろう影響すらも"とある物語"に記されてしまっているのでしょう。だから実害が出ようはずがない」
 だから放置されている、問題を先送りにする政治のように。
「てか、何で死者の存在なんか記す必要があるんや?」
 凍りついた蝉の回収を終えたハンターが口を挟む。
「そんなもんに何の価値があるんや?」
 ハンターは、口にしてから"しまった"と己を呪う。
 冷たい男が、あだ名とは正反対の怒りに燃えた目でハンターを睨みつける。
 ハンターは、その手に触れられたかのように背筋を震わす。
「分かりません」
 その空気を読んでか、読まないでか、テーズ先輩が静かな口調で言う。
「"とある物語"の実例はあまりにも無さすぎるのです。ですからその目的すらも解明されてません」
 チーズ先輩は、怒れる冷たい男に優しい目を向ける。
「慰めになるかは分かりませんが"とある物語"が記すのはあくまで存在。魂ではありません。その方はしっかりと天国に・・・」
「そういう問題じゃない!」
 冷たい男は、叫ぶ。
 チーズ先輩、ハンター、茶トラ猫、子狸は思わず息を飲み込む。
 穏やかで優しい冷たい漢が激昂するのを2人と2匹は初めて見た。
「・・・すいません」
 皆の視線に気づいた冷たい男は、恥ずかしそうに身を縮める。
「・・・この仕事をしていると"死"について考えさせられるんです」
 冷たい男の言葉にチーズ先輩は、眉を顰める。
「人生って十人十色ですが死ぬ時って一緒なんです。冷たくなって、動かなくなって、喋れなくなって。でも、無くならないものもあるんです。
 それが生きた証。
 生きてきた歩み・・存在です。
 それは人の記憶の中にあったり、記録の中にあったり、身寄りなく孤独に亡くなる人もいるけどその人にだって関わってきた人もいれば存在していた証もある。最後を見送る俺達だってしっかりとその人のことを覚えてます。
 でも、それすら無くなってしまったらその人は本当に死んでしまう。存在が無くなってしまう。遺体があろうと霊があろうとそれではいないものと一緒だ」
 冷たい男の悔しげに歯噛みする音が皆の耳に届く。
「死者を送る者としてそんなモノの存在を俺は許すことは出来ません。絶対に・・・」
 冷たい男は、子狸が纏めた線香の箱詰めを受け取理.背負っていたリュックに仕舞うとそのまま店を出ていこうとする。
「まっ・・・」
 チーズ先輩が呼び止めようと身体を起こすと。その胸が香炉に当たり、2つとも見事に床に落下し、灰をばら撒く。
 チーズ先輩は、汚れた床を見て、そして恐る恐る子狸を見る。
 子狸は、恐ろしく冷ややかな目でチーズ先輩を見ていた。
 ハンターは、海色の虫網を槍のように肩に背負って冷たい男の去った扉を見る。
「会長・・・」
「何でしょう・・・?」
 チーズ先輩は、子狸に小言を言われてしゅんっとしている。
「その"とある物語"っていうのはSSRなんか?」
 ハンターの言葉の意味が分からず眉根を顰める。
「凄いレアなのって意味」
 子狸が翻訳する。
「レアかどうかは分かりませんが魔女歴史でも実物を見た事例は今回を含めて数える程です」
「そうか・・・」
 ハンターは、短く答えてにっと笑う。
 チーズ先輩と子狸は、意味が分からず首を傾げる。
 足元にいる茶トラ猫だけがその意味を察していた。
「また、面倒なことになりそうにゃ」

 公園のベンチに座り、冷たい男は、マイボトルの蓋を上げる。飲み口から夥しい湯気と小豆の甘い匂いが立ち昇る。
 母特製のお汁粉の匂いに心の痛みが少し和らぐような気がする。一口飲むと舌が溶けるような甘味が身体の中に行き渡る。
 冷たい男は、口に含んだお汁粉を一気に飲み込む。
 長く口に入れて置くと凍りついてしまうからだ。
 もう頭よりも先に身体が条件反射で行う。

(これも俺の身体が身につけてきた歴史だ)

 その歴史が奪われてしまう。
 その人の中から消えてしまう。
 親しい人たちの中にも残らない。
 存在したことすら無くなってしまう。

 それは正に"本当の死"だ。

 この1年の間に冷たい男は様々な死を見てきた。

 家族に見送られ、惜しまれながら去っていく死。
 孤独ではあるが生きたいように生き、悔いを残さず満足して去っていく死。
 苦しみあぐねながらも生を望み、そして儚く消えていった死。

 直接、その場にいた訳ではない。
 全ては遺族や関係者から聞いて知ったことばかりだ。
 亡くなった人達とは言葉を交わしたすらない。
 それでも冷たい男は亡くなった人のことを覚えておこうと思っている。
 最後の姿を忘れまいと思う。
 例え、肉体を失い、魂が昇っていったとしても忘れなければ、覚えてさえいればその人は生きていけるのだから。
 それがただの自己満足だとしても、だ。
 だからそこ"とある物語"の存在を冷たい男は許すことが出来なかった。
その人の生きてきた証、道、そのものを奪ってしまう存在を。
 冷たい男は、ぷっと西瓜の種のように口の中にあるものを飛ばす。
 赤黒い小石のような塊が地面で跳ねる。
 口の中で凍ったお汁粉の残渣だ。
(物思いに耽ってしまったな)
 口の中に残渣を残すなんて子どもの時以来だ。
 冷たい男は、水筒の蓋を閉め、小さく息を吐く。
「悩んでもしょうがないか・・・」
 チーズ先輩の話しでは"とある物語"の事例はあまりにも少ない。それはつまり遭遇率の低さを意味する。
 今回は、たまたまうちの斎場に現れたが次にまた現れるとは限らない。ひょっしたら一生現れないかもしれない。
 そんなものにら囚われても仕方ない、仕方ないと分かっているが・・・。
 冷たい男は、わしゃわしゃと髪を掻き、仕事に戻ろうと
 リュックに水筒を仕舞おうとした時である。

 サイレンの音がする。

 不安と警戒を集わせるような救急車のサイレン。
 冷たい男は、サイレンのする方を見ると多くの人だかりが出来ていた。
 野次と悲鳴が飛び交い、カメラのシャッター音とそれを怒る声、そして「しっかりして!」と泣き叫ぶ声。
 物思いに耽りすぎてこんな大騒ぎに気づかないなんて。
 冷たい男は、自分に呆れた。
 そしてベンチから立ち上がると人だかりへと足を向ける。
 野次馬根性ではない。
 ひょっとしたら自分に何か出来ることがあるのではないか、そう考えて。
 人が良すぎるほどの世話焼き。
 それが冷たい男だ。
 そして案の定、それは冷たい男が何とか出来るであろうことであった。
 人だかりの中心にいたのは80を過ぎたくらいの男性と、そしてその男性に必死に呼びかける同じ年くらいの女性であった。
 男性は、左足を押さえて、青黒い顔で蹲っていた。
 足からは大量の出血が。
 それを見て女性が狼狽し、野次馬達は心配半分、好奇心半分の目で見るも何もしない。
 冷たい男は、そんな野次馬の姿に嘆息し、人波を抜けて2人に近づく。
「大丈夫ですか?」
 冷たい男に声を掛けられたことに女性は驚く。
 蹲る男性は、そんな余裕なく呻くことしか出来ない。
 冷たい男は、しゃがみ込んで男性を見る。
 側から見ていたよりも大量の出血だ。
 恐らく今さっき流れたものではない。
「転倒した時に石に足をぶつけてしまったの」
「それでこんなに出血を?」
「心臓の病気で血をサラサラにする薬を飲んでて、それで・・・」
 血液を凝固することが出来ないのだと言う。
 冷たい男は、男性のズボンを捲り、出血点を確認する。
 膝部分がぱっくりと三日月に割れていた。
 出血をだけでなく膝蓋骨も割れている可能性がある。
 男性は、痛みで呻き声を上げる。
 冷たい男は、ポケットからハンカチを取り出し、逆の手の手袋を口に咥えて外す。
 周りの温度が低くなる。
「誰かこのハンカチに水を掛けて」
 冷たい男は、野次馬達に声を掛ける。
 声を掛けられるなんて思っていなかった野次馬達が動揺する。
 冷たい男は、イラっとする。
「誰でもいいから!」
 思わず声を荒げる。
 野次馬の中から中年の女性が前に出てペットボトルを出す。
「これでいいかしら?」
「ハンカチに掛けて」
 中年の女性は、言われるがままにハンカチに水を掛ける。
 冷たい男は、ハンカチが濡れたのを確認し、剥き出しの指で一瞬触れてそのまま叩きつけるようにハンカチを男性の膝に当てる。
 ハンカチが白色に凍り、膝に張り付く。
 ハンカチを中心に男の膝の周りが凍てつく。
 野次馬から「おおっ」と声が上がる。
 冷やされて痛みが引いたのか、男性の表情が柔らぐ。
 女性の表情に歓喜が浮かぶ。
 サイレンが近づき、公園の外に救急車が止まる。
 それを確認して冷たい男は、立ち上がる。
「深く冷やしてないので病院で温めて貰えばすぐに溶けますよ」
 女性は、感謝の言葉を冷たい男に向ける。
 歓声が野次馬から巻き起こる。
 冷たい男は、恥ずかしそうにしながら手袋を嵌め、そして気づく。
 野次馬の中にあの少年が、"とある物語"を持っていたあの少年がいることに。
 男性が救急車で運ばれ、女性が付いていく。
 野次馬がそれを見届けて誰も号令を掛けないままに解散する。
 そして残ったのは冷たい男と少年だけだった。
 少年は、憎悪の籠った目で冷たい男を睨む。
 冷たい男は、小さく眉を顰める。
「余計なことを・・・」
 少年は、憎々しげに呻く。
「お前のせいだ!」
 少年の言葉に冷たい男は、眉を顰めた。
(この子・・・人間だ)
 冷たい男には霊感や魔力と言った類のものはない。
 あくまで普通の人よりも体温が低いだけの人間だ。
 しかし、その為か直感や感覚だけは刃物のように鋭利だった。
 その直感が告げる。
 目の前の少年は、ただの人間の男の子だ、と。
 そう理解した瞬間、冷たい男は、声を出すことが出来なくなった。
 怒っていたのに、見つけて問い詰めようと思っていたのに、予期もせぬ所で見つけ、しかも相手からアクションを起こしてきたと言うのに。
 目の前にして言葉が出ない。
 適切な言葉が出てこない。

 怒りの声を上げるべきなのか?

 問い詰めるべきなのか?

 言葉の答えが見つからないままに唇が言葉を紡ぐ。
「君は・・・何者だ?」
 どこの小説にも転がってそうなありきたりな台詞。
 しかし、紡いでみればそれは冷たい男が1番聞きたかった言葉へと続く最も適したものだった。
「君は・・・何がしたいんだ?」
 しかし、少年は答えない。
 ただただ単調なまでの怒りと憎しみを燃やし、睨むだけだ。
「お前には・・・関係ない!」
 少年は、そう吐き捨てると踵を返して走り去ろうとする。
 冷たい男は、一瞬の間を遅れて手を伸ばし、足を踏み出す。
 しかし、少年は、直ぐに立ち止まる。
 それどころかその場に蹲って地面に倒れ込む。
 冷たい男は、慌てて駆け寄る。
 少年は、怯える猫のように身体を丸めて痙攣し、唇は染めたように青く、呼吸は短く荒い。
(チアノーゼ!)
 冷たい男は、反射的に手を引っ込める。
 そんな状態の人間に自分が触ったらそれこそ死を招いてしまう。
 冷たい男は、ポケットからスマホを取り出すと119番に連絡をした。
 少年は、苦痛に喘ぎながらも冷たい男を睨みつけていた。

(お前の・・・せいだ!)

 救急外来の席に座っていると30代くらいの女性が冷たい男に話しかけてきた。
「この度は、息子がご迷惑を!」
 その言葉だけでこの女性が少年の母親であることが分かった。
 確かに少し面影がある。
「いえ、大したことも出来ず・・・」
 冷たい男は、椅子から立ち上がって頭を下げる。
「いえ、貴方は命の恩人です。あのまま誰もいなかったらどうなっていたか・・・・」
 母親は、堪えることが出来ず嗚咽しながら涙ぐむ。
「息子は、生まれつき循環器の病気で気温の変化や興奮したりすると発作を起こしてしまうんです。ひどい時は呼吸すらままならなくなって・・・」
 母親の言葉に冷たい男は、つい先程の少年の姿を思い出す。
 身体に負担を掛けるほどの怒りと憎しみ自分に向けた姿を。
「息子さんはよくあの公園に1人で?」
 そんなことを聞きたい訳ではないが、少年のことを少しでも知れればと思い、口を開く。
 母親は、首を横に振る。
「いえ、初めてです。と、いうか私達が住んでるのはここではないので・・・」
 場所を訊くと少女の大学のある駅の手前だった。
 確かに病気の小学生が来るような距離ではない。
「ただ、最近1人で家を出てしまうことが多くて。今日も気づいたらいなくなっていたんです」
 いなくなる・・・。
「それはいつ頃から・・・?」
 少年の母親は、怪訝そうに首を傾げる。
「何故、そんなことを?」
 母親の質問に冷たい男は、言葉に詰まる。
 確かにそんなことを何で聞いてくるのだ、と自分でも思ってしまう。
「すいません・・・以前もあの辺りで見かけたような気がしていたので・・・」
 動揺しながらも何とか誤魔化そうとする。
「そう・・・ですか」
 母親は、そのまま納得する。
「やっぱり・・・受け入れられていなかったんだ」
 今度は、冷たい男が怪訝とした表情を浮かべる。
「あの子・・・2ヶ月前に手術したんです。心臓の。そうすれば治ると言われて。あの子は希望を持って受けました。そうすれば他の子みたいに遊べるって。学校にも行けるって。それなのに・・・」
「ダメだった・・・んですか?」
 母親は、頷く。
「医師に言わせれば前よりは良くなっているはずだ。後はあの子の生きる力次第だと言われました」
 冷たい男の胸に痛みと怒りが走る。
「何ですか・・・それ・・・」
 希望を持って大人ですら怖い手術を受けたと言うのに・・・。
 母親は、小さく笑みを浮かべる。
「貴方は・・・優しいのですね」
 冷たい男は、胸元を握り締め、顔を下に下ろす。
「私達も思いました。あの子を何だと思ってるんだって。でも、確かにあの子の身体が弱いのも事実です。私達はあの子が良くなるのを信じて支えていこうと思いました。そんな時なんです」
 少年の母親は、形の良い唇を触る。
「あの子が"神様と約束した"と言い出したのは・・・」
 冷たい男は、眉を顰める。
「神様?」
 診察室の扉が開く。
 年配の看護師が病衣を纏い、点滴に繋がれ、車椅子に乗った少年を連れてくる。
 痛々しいが顔色は良くなっており、冷たい男は、ホッとする。
 母親が少年に駆け寄り、抱きしめる。
「何してたの!」
 母親が叱責すると少年は短く「ごめん」と謝る。
 しかし、その目は母親ではなく、冷たい男を見ていた。
 憎々しげに。
「お薬を打ったら直ぐに呼吸は落ち着きました。心音、脈拍も正常です。そちらの方が直ぐに救急車を呼んでくれたかは処置も早く出来ました」
 看護師は、少年の頭を撫でる。
「お兄さんに感謝だね」
 そう言ってにっこり微笑むも少年は笑わない。
 冷たい男を睨みつけるだけだ。
 年配の看護師は、顔を引き攣らせて頭に乗せた手を引く。
「ママ」
 少年は、母親を見ずに呼びかける。
「このお兄さんとお話ししたいんだけどいいかな?」
「えっ?」
 母親は、少年から手を離す。
「このお兄さんとお話しがしたい」
 母親は、戸惑った様子で冷たい男を見る。
 冷たい男は、何も言わずに頷く。
「それじゃあママ、先生とお話ししてくるわね。後、飲み物も買ってくるわ」
 そう言って立ち上がると冷たい男に会釈して歩いていく。
 看護師も頭を下げて去っていく。
 そして少年と冷たい男だけになる。
「・・・」
「・・・」
 痛い沈黙が2人の間を流れる。
 冷たい男は、小さく息を吐いて再び椅子に座る。
「大丈夫みたいで良かった」
 冷たい男が言うと少年は、少しだけ目を逸らす。
「何で助けてくれたの?」
 少年の言葉の意味が分からず冷たい男は、眉を顰める。
「あのお爺さんといい、人助けは貴方の趣味かなんかなんなの?」
「・・・ごめんっ言ってる意味が分からないんだけど?」
「お陰で僕は神様との約束を守ることが出来なかった。どう責任を取ってくれるの?」

 神様との約束・・・。

「ごめん。それはどう言う意味?」
 冷たい男の問いに少年は答えない。その代わりに両手を前に出し、手の平を上に向ける。
 少年の掌が変化する。
 右手の平は、針のように伸び、左の平から直角の山のように膨らむ。
 そして同時に風船のように肉が破裂する。
 しかし、出血はない。
 右手には茶色の羽根ペン、左手には黒い革に金糸の縫われた本が握られている。

"とある物語"

 その言葉が冷たい男の頭を過ぎる。
「神様が言ったんだ。自分が選んだ人の物語を記せ。そうしたら僕に健康な身体をくれるって」
 冷たい男は、崩れるように立ち上がる。
「その神様っていうのは誰⁉︎」
「神様は神様だよ」
 冷たい男の問いに少年は、馬鹿にするように答える。
「"遊びの神"って言ってたかな。僕みたいな可哀想な子どもの味方なんだって。僕が健康な身体が欲しいって願ったから来てくれたんだ。そしてこれをくれた」
 少年は、大事そうに"とある物語"を胸に抱く。
「これに死んだ人の物語を書くだけで僕に健康な身体をくれるんだ。なんて優しい神様なんだろう」
 少年の目は、まさに神を信仰する信者そのものだった。
 冷たい男は、背筋が震えるのを感じた。
「そんな得体の知れないもの信じちゃいけない!」
 冷たい男は、少年から"とある物語"を取り上げようと手を伸ばす。しかし、ペンも本も少年の手のひらの中に沈んでしまう。
「得体の知れないって意味じゃ貴方も一緒でしょ?何で凍らすことが出来るの?」
 少年の目は、とても冷ややかに燃えていた。
「貴方には僕を救えないでしょ?でも、遊びの神様は、僕を助けてくれるって言ったんだよ」
「その為に他の人を犠牲にしちゃいけない!」
 冷たい男は、声を張り上げる。
 しかし、少年には届かない。
 ただ、冷ややかに、憎憎しくしく冷たい男を見るだけだ。
「何で・・・何で死んだ人間の為に僕が我慢しなくちゃいけないの?」
 少年の発した重い言葉に冷たい男は、息を飲む。
「僕は、生きてるんだ。健康になりたいんだ。やりたいこともたくさんあるんだ。それなのに何で死んだ人のことを気にしなくちゃいけないんだ!」
 少年の呼吸が短く、荒くなる。冷たい男を睨む目が痛いくらい赤く染まり、鼻から血が滴り落ちる。

「僕は、生きたいんだ!」

 少年の命から絞るような叫びに冷たい男は、何も言うことができなかった。

 その夜、少年は1日だけ入院することになった。
 冷たい男に向かって叫んでいる少年を見た母親が大事を取って入院させて欲しいとお願いしたからだ。
 冷たい男は、何かを言いたそうに少年に手を伸ばそうとするが、看護師に止められ、追い出された。
 恐らく彼が少年のことを興奮させたと思われたのだろうが間違ってないし庇う謂れもない。
 あの男さえ邪魔しなければ健康な身体にまた一歩近づいたと言うのに。
 少年は、ベッドに横になったままカーテンの隙間から覗く夜空を見る。
 少年は、夜に外に出たことがなかった。
 身体に触るからと両親に出るのを禁止されているから。
 だからと言って昼に好きに出ていい訳でもない。

 健康な身体にさえなれば・・・。

 少年は、両手を見る。
 遊びの神様からの託宣オラクルは、まだない。
 病院という死が最も身近な場所なら幾らでも物語を書けると思ったのに・・・。
 少年は、悔しげに唇を噛む。
 託宣オラクルを待たずに霊安室にでも忍び込んで適当な私を書き刻んでやろうか、と思った時・・・。

 託宣オラクルは、舞い降りた。


 荒ンデオルナ

 その声は、酷く楽しげで、酷く可笑げに、酷く蔑んでいるようであった。

 しかし、少年は、そんな事に気を止める余裕すらないままに声が聞こえた事を喜んだ。
「神様!」
 あまりの嬉しさに涙が出る。
 それ程までに少年は、自分を救ってくれるであろう"遊びの神"を心酔していた。

 退屈してオルカ?

 遊ビタイカ?

 それは少年に初めて掛けられた言葉。

 神の啓示であった。

「はいっ」

 ナラバ共ニ楽シモウ。

 少年の頭に神の言葉と映像が流れる。

 少年の涙に濡れた目が大きく見開く。

 遊びの神は、愉快に、そして残酷に笑う。

 サア、楽シモウ。

 気温も低いというのにその雨はやたらと身体をベトつかせた。
 弔問客を出迎える為にビニールの合羽を着て外に立っていた冷たい男は、斎場に戻ると急いで合羽を脱ぎ、雫を拭き取る。
 故人の最後の場を雨水で汚したくないと言う思いもあるが、雨水が凍りつくと厄介となのも理由もある。
 小学生の頃は、わざと服の裾を濡らして凍らせてはそのザクザクと割れる感触を少女と楽しんだものだが大人を間近に控えた今となってはそれも煩わしくなる。
 今日の葬儀の主・・・故人は60代後半を迎える前に亡くなった男性だった。
 死因は、心筋梗塞。
 行きつけの居酒屋で飲み仲間と話している時に唐突に痛みを訴え、救急車を呼ぶもそのまま即死だったそうだ。
 斎場にはその飲み仲間と、喪主はその居酒屋の女店主が努めている。
 何でも身内はいないらしく、もし何かあった時は飲み仲間が簡単な葬儀を出してやる、と約束をしていたらしい。
 そしてその約束はしっかりと守られてた。
 居酒屋の女店主は、居酒屋に顔を出すようになってからの故人の思い出を話し、飲み仲間達は、酒を飲んだ訳でもないのに目を充血させ、故人の遺影を見て泣いた。
 誰も居酒屋に顔を出す前の彼の事を知らない。
 本当に本当に短い期間だ。
 それでも彼は、故人を偲んで泣いている。
 故人の冥福を祈っている。
 故人の短い物語の中に確かに彼らは存在し、彼らの物語にも故人はしっかりと存在しているのだ。
 それを思うとやはり"とある物語"の存在を冷たい男は許すことは出来なかった。

 病院から追い出されるように帰った後、冷たい男は、少年と出会った時の経緯をチーズ先輩に電話して伝えた。
 チーズ先輩は、電話越しに静かに聞いてくれた。
"遊びの神様"というのは聞いたことがないと言う。
 しかし、もし、その少年がその神様と何らかの契約をしているならそれを破ることは人間には出来ない。
 それは自分たちの世界から一歩踏み出た領域のものだから、と。
 そしてその契約の実行を阻止しようとするならそれ相応の見返りペナルティが阻止した者にも与えられるだろう、と。
 つまり少年が"とある物語"を使う事を阻止してはいけないと、案に示唆していた。

 止められない・・・。

 その事は冷たい男の心を重くした。

 しかし、それ以上に思うことがある。

 止める方法があったとしても自分がそれを実行することが出来るのか?

『僕は、生きたいんだ!』

 少年がそう叫んだ時、冷たい男は何も言う事が出来なかった。
 死んだ人間を犠牲にして生きようと願う彼を否定することが出来なかった。
 自分は、人より身体が冷たいだけでそれ以外は健康だ。
 もし、自分が長く生きられないとなった時、果たして今まで口にしていた事を言うことが出来るのか?
 曲げずにいることが出来るのか?
 冷たい男は、自問自答を繰り返し、そして答えはまだ見つからないままだった。

 斎場の扉が開かれると雨が石礫のように棺と弔問客を打ち付ける。
 しっとりと纏わりついていた雨は激しい大雨へとその姿を変えていた。
 社長がそれを見て小声で冷たい男に下がるように言う。
 冷たい男は、小さく頭を下げて後ろに下がる。
 故人の棺が霊柩車に収められる。
 雨に打たれながら弔問客が両手を合わせて祈る。
 社長が小さく経を唱える。
 冷たい男も雨の入ってこない所から両手を合わせて祈る。
 そして故人のことを覚えておこうと頭に文字と絵を書き写す。
 その視界に黄色いものが映り込む。
 霊柩車の先、他の人からは見えない死角に立つ小さな黄色の傘を差した少年の姿を。
 冷たい男の心臓が大きく打つ。
 霊柩車から離れた所に立つ少年は、じっと見つめなまま右手を高く掲げる、
 その手には茶色の羽根ペンが握られていた。
 固く閉じられた棺の隙間から黒い液のような文字の群れが溢れてくる。
 文字の群れは、カーテンのレールでまとめられるように両端からゆっくりと移動して合流し、一つのなると蛇の生首のようにその身を起こし、宙を這う。
 目指すのは・・・少年の持つ茶色の羽根ペンだ。
 それに気づき、冷たい男は、反射的に走り出す。
 それに気づいた社長が呼び止めようとすると声をかけるも冷たい男には届かなかった。
 雨に打たれ、冷たい男の着るスーツが濡れ、小さな氷粒が生まれ、霜が広がる。
「君!」
 冷たい男は、少年の前に立つ。
 少年は、茶色の羽根ペンを掲げたままじっと冷たい男を見る。

 やめるんだ!

 そう言って羽根ペンを取り上げるべきなのに冷たい男は、次の言葉と行動に移すことが出来なかった。

『僕は、生きたいんだ!』

 少年の言葉が耳で、頭で木霊する。

 少年は、自答し、逡巡する冷たい男を見て小さな笑みを浮かべる。
 両目が上を向き、そのまま白目を剥いて倒れ込みそうになる。
 冷たい男は、慌てて少年の身体を支える。
 雨に冷えて身体に異常をきたしてしまったのではないかと言う考えが過ぎる。
 雨に濡れた自分の身体が張り付き、少年の衣服に白い霜が侵食し出す。
 このままでは・・・!
 冷たい男は、助けを呼ぼうと声を上げようとする。

 胸が熱い。

 痛みが身体中の神経を焼く。
 茶色の羽根ペンの先が冷たい男の左胸の中に吸い込まれるように入り込んでいた。
 血が滲み出て、白い霜を赤く染め、また凍る。
厳罰ペナルティー
 少年が割れるように笑う。
「遊びの神様がね。言ったんだ」
 茶色の羽根ペンに冷たい男の血が伝い、赤く染まっていく。
「貴方に罰を与えろって。そうすれば貴方の人生を記すことが出来る。そしたら健康な身体をくれるって」
 赤い血が滴り、少年の指先を、地面を凍らせる。
「お兄さんの人生、僕にちょうだい」
 少年は、羽根ペンを冷たい男の胸から抜き去る。
 冷たい男は、そのまま地面に倒れ込む。
 胸から血が溢れ、地面を、冷たい男を白く凍らせる。
 少年は、自分の手ごと凍った羽根ペンの先を冷たい男に向ける。
 白く染まった冷たい男の身体から文字の群れが昇る。
 文字の群れは、迷うことなく羽根ペンの先へと向かう。
「ありがとうお兄ちゃん。どうから安らかにね」
 少年は、微笑む。
「どうせもう存在してないけどね」
 文字の先端が羽根ペンの先に触れた。

 青い炎が走る。
 黒い液から湧き上がるように燃え、導火線のように黒いを焼きながら羽根ペンまで走る。
 羽根ペンが青い炎に飲み込まれ、少年は思わず手放す。
 少年の手には火傷のかけらもなかった。
 熱くすらなく、むしろ震えるほどに冷たかった。
 青い炎に飲まれた羽根ペンは、燃えていなかった。
 水の中に浮かぶ魚のように青い炎の中で揺らめき、砂の塊のように崩れていく。
 少年は、黄色の傘を落とし、恐怖に瞳を震わせる。
 何かが動く気配がする。
 少年が目を動かすと冷たい男が立っていた。
 雨に濡れ、自身の体温で凍りついた冷たい男の身体は白装束を纏った幽鬼のようであった。
 唯一、左胸だけが赤く染まり、そしてその中心が青く燃え上がっていた。
「何で・・・生きて・・・」
 少年は、次の言葉を発することが出来なかった。
 冷たい男の左胸でランタンのように燃える青い炎。

 その中に"目"が覗いている。

 眼球だけの白く生々しい、赤黒い瞳を持つ目が青い炎の奥から少年をみていた。

 いや、睨んでいた。

 冷酷に。
 興味深げに。
 獲物を獲られるかのように。

 少年は、身体の機能そのものが停止してしまったかのように震えるどころか身じろぎすら出来ない。
 唯一、湧き上がってくるのは恐怖のみだった。
 冷たい男は、緩慢な動きで左腕を伸ばす。
 その動きはまるで糸で操作された操り人形のようであった。
 左胸で燃える青い炎が泥のように蠢き、左肩を伝い、二の腕に、そして左手の指先へと伸びる。
 指先から小さな青い炎の玉が飛び、少年の頭上に浮かび、弾ける。
 その瞬間、少年の周りの雨が止み、身体が何かに押さえつけられたように重く、動かけなくなる。
 少年は、目だけを動かす。
 雨は、止んだのではない。
 少年の周りの雨だけが凍っているのだ。
 天から落ちた蜘蛛の糸のように空から地にかけて凍りつき、張り付いて、少年の身体を固定したのだ。
 呆然と自分の状況を把握した少年は、叩かれたように我に返り、必死に身体を動かそうとするが、糸の束のような氷はびくともしない。
 少年の頬は、上気し、息が短く乱れる。
 氷の割れる音がする。
 氷で白く染まった冷たい男が体幹を失った動く死体ゾンビのようにふらつく足取りで少年に向かってくる。
 青い炎の奥にある目だけ少年を好色に見つめる。
 少年は、逃げようと必死に身体を動かす。
 しかし、氷は割れない。崩れない。
 冷たい男が少年の目の前に立つ。
 チャコールグレーの手袋に包まれた右手が少年の頬に触れる。
 その手を中心に霜がゆっくりと広がっていく。
 青い炎の奥の目がじっと少年を見る。
 まるで獲物が弱り、食せるのを待つ猫のように。
 少年は、死を覚悟し、短い悲鳴を上げた。

火の精霊サラマンダー
 赤い炎の舌が少年の周りの氷を舐めるように焼き切る。
 溶けた雨水が蒸発し、白い蒸気を上げる。
 氷の拘束が外れて崩れ落ちそうになった少年を細い手が支える。
「許せしてな親友」
 少年を抱えた細い手の主は、言うと先の尖った革靴で冷たい男の腹を蹴る。
 冷たい男は、痛みに表情を歪ませることもなく、よろよろと後退る。
 少年は、息を短く荒くしながら状況を確認する。
 自分を支えているのは黒いジャケットに身を包んだピンク色の髪の丸い縁のサングラスをかけた細身の男だ。
 そして2人の背後にいるのは濃い茶色のとんがり帽子を被った長身の美人。その小さな肩の上に赤く燃え上がる蜥蜴が襟巻きのように巻きついていた。
 ピンク色の髪の男は、サングラス越しに少年を睨む。
 少年の心に恐怖が走る。
 ピンク髪の男は、空いている手で少年が凍りついても離さなかった"とある物語"をむしり取る。
「あっ・・・」
 少年は、声を上げる。
 しかし、次の言葉を告げられない。
 本を奪ったピンク髪の男、ハンターはそのまま少年を地面に叩きつけたのだ。
 少年は、あまりの頭に短い悲鳴を上げる。
 しかし、ハンターは、憎しげに唇を歪めるだけだった。
「このクソガキが!なんちゅうことしてくれたねん!」
 ハンターは、冷たい男に目を向ける。
「乱暴はいけません」
 とんがり帽子の美人、チーズ先輩が少年の身体を起こす。いつの間にか茶トラ猫もいた。
「こいつがしでかした事に比べれば優しすぎて涙が出るわ!」
 チーズ先輩も冷たい男を見る。
 冷たい男は、首と両手をだらんと下げ、天から引っ張られているかのように力なく立っている。
 左胸の青い炎、その奥の目だけがじっとこちらを見ている。
 チーズ先輩の首に巻きついた火の精霊サラマンダーが怯える。
「門が開いてますね」
「まだ、鍵突っ込まれたくらいやろ」
 ハンターは、引きちぎるように腰に付けた海色の虫籠を手に取る。
 そして口を使って器用にその蓋を開ける。
「おい、出てこい!」
 ハンターが虫籠の入り口に口を付けて叫ぶ。
 海色の虫籠が激しく揺れ、ハンターの手から落ちる。
 地面に落ちた虫籠から鯨の潮吹きのように海色の何かが飛び出す。
 それは身をくねらせ、軋ませ、気持ちの良くない金属の擦れ合う音を上げながら現れたのは海色の甲冑を着たような巨大な百足だった。
 その身体はまだ虫籠から抜け切れておらず、海色の固い甲殻を 
軋ませる。長い胴体から生えた蟹のような足は百足と言うにはあまりに少なく、20本ほどしかない。
 百足は、見た目と反する知性に満ちた赤い目でハンターを見る。
「我を呼ぶにはまだ早いのではないか?」
「緊急事態やからしゃーないやろ!」
 ハンターは、苛立ち、声を張り上げると"とある物語"を掲げる。
「これは材料にならんのか⁉︎」
「鈴はなったのか?」
 百足は、ハンターの腰に下げられた海色の鈴を見る。
「ならへん」
「それでは材料にはならないという事だ」
 ハンターは、舌打ちする。
「どうにかならんか?」
「ふうむ」
 百足は、"とある物語"を見て、そして冷たい男を見る。
「材料にはならんが効果を高めるくらいには使える」
「どのくらいの効果や?」
「足全部使って押し戻す程度だ」
「それでええ。頼むわ」
「また集め直しだぞ。他の方法考えたらどうだ?」
「そんな時間あらへん。それに・・」
 ハンターは、サングラス越しに百足を見て、口の端を釣り上げる。
「親友の為なら少しも惜しくないわ」
 百足は、目を鈍く光らせ、大きく顎を開く。
 ハンターは、その口を目掛けて"とある物語"を放り込む。
 百足は、一気に"とある物語"を飲み込む。
 20本の足が黒く鈍く光る。
「網を出せ」
 その言葉に茶トラが尻尾を地面に叩き付ける。
 地面がカーテンのように捲れ上がり、海色の虫網が現れる。
 ハンターは、それを掴んで百足に近づける。
 百足の口から緑色の粘液が垂れ、虫網の網の中を侵食する。
 粘液が出るごとに足が土塊のように崩れていく。
 粘液は、網の中でアメーバのように蠢き、揺めきながら形を整え、真円の宝珠のようになる。
 見た目からは想定ずっしりとした重さが両腕に伝わり、ハンターは両足を広げて網を支える。
 百足から全ての足が崩れ落ちる。
「一度きりだぞ」
「分かってるわ」
 ハンターは、虫網を構える。
 青い炎、その奥にある目がハンターの持つ虫網を捕らえ、微かに震える。
 冷たい男の両腕がハンターに向けて伸ばす。
「そいつの身体、勝手に使うんやないで」
 ハンターは、歯噛みする。
 青い炎がその手を伝い、放出される。
 ハンターの周りの雨が凍りつき、その身を拘束する。
 しかし、その氷はすぐに蒸気を発して溶ける。
 火の精霊サラマンダーがその身をムササビのように広げ、幕となってハンターを覆う。
 ハンターのもっと虫網の柄にチーズ先輩の手が添えられる。
「手伝います」
 チーズ先輩は、切長の目を冷たい男に向けて言う。
「これでも元ラクロス部なので」
「おおきに」
 ハンターは、笑うと2人は力の限り虫網を水平に構える。
 冷たい男は、いや青い炎の目は脅威を感じたのか、さらに青い炎を飛ばし、周りを凍て付かせるも火の精霊サラマンダーがそれを全て防ぐ。
火の精霊サラマンダーがこれ以上は持たないと言ってます」
「もう終いやで」
 ハンターは、そういうと2人は力と息を合わせ、虫網を一気に振り上げる。
 虫網の中の宝珠が網を抜け、投擲される。
 宝珠は、強い輝きを放ち、冷たい男の青い炎にぶつかる。
 断末魔のような悲鳴と共に青い炎と宝珠が光を飛び散らせる。
 それは冷たい男から挙げられたものではない。
 青い炎が冷たい男の胸に宝珠と共に押され、そのまま飲み込まれていく。
 そして宝珠と共に冷たい男の胸の中に吸い込まれていった。
 光が消える。
 雨が上がる。
 鼠ほどに小さくなった火の精霊サラマンダーは、事が落ち着いたのを確認し、消える。
 冷たい男の身体を覆っていた白い霜が消え去る。
 青い炎も消え去り、赤い血の跡だけが残る。
 冷たい男は、膝から崩れ落ちる。
 チーズ先輩が慌てて駆けつけ、彼の身体を支える。

 冷たい。

 いつもの冷たさだ。

 チーズ先輩は、彼の左胸を確認しようとするが上手く衣服を剥がす事が出来ない。
 見かねた子狸がとんがり帽子から元の姿に戻り、器用に衣服を剥がすと血の塊があるだけで刺された跡は存在しなかった。
「傷はサービスしといたぜ」
 百足は、人間なら鼻の下を擦るように自慢げに言う。
 ハンターは、サングラス越しに百足を見る。
「これで今までの稼ぎはチャラだ」
 百足は、一本も足の無くなった自分の腹を見せる。
「分かっとるわ」
「だが、急げよ。今回ので門は開きやすくなったはずだ」
「わーってるわ。とっとと集めたるわ」
「期待せず待ってるわ」
 そう言い残すと百足の身体は海色の虫籠に吸い込まれていった。
 ハンターは、虫籠を拾うとそっと蓋を閉める。
 雲の切れ間から太陽の優しい光が降り注ぐ。
 ハンターは、小さく息を吐き、その場に座り込んだ。
 チーズ先輩に身体を支えられた冷たい男の目が開く。
 冷たい男の目とハンターの目が合う。
 ハンターは、にっと笑って親指を立てる。
 茶トラが濡れた身体をぶるっと震わせた。

 病室の扉がノックされる。
 窓の外の景色を見ていた少年は、目を扉に向け「どうぞ」と声を掛ける。
 ゆっくりと扉が開き、入ってきたのはチャコールグレーの手袋を付けた若い男性だった。
 彼が冷たい男と呼ばれているのを少年は知らない。
 ただ、彼が入ってきたのを目を細めて見るだけだった。
 彼は、何重にも包装された色鮮やかなドライフラワーを
抱えて少年に近づいてくる。
「こんにちは」
 冷たい男は、少し緊張したように少年に挨拶する。
 少年は、冷たい男から目を反らし、「こんにちは」と小さな声で言う。
 少年が挨拶してくれたことに冷たい男は嬉しくなり、口元に笑みを浮かべる。
「このドライフラワー、とてもいい香りがするんだけど飾ってもいいかな?」
 少年は、目を反らしたまま何も言わない。
「勝手に飾るよ」
 少年は、何も言わないが、冷たい男はそれを承諾と取った。100均で買ってきたと思われるプラスチックの花瓶にドライフラワーの束を挿した。
 清涼感のある心地よい香りが少年の鼻腔を擽り、筋肉が緩む。
「座ってもいいかな?」
 少年は、何も言わない。
 冷たい男は、勝手に丸椅子に座る。
「具合はどお?」
「悪い」
 クナイのように刹那に返された返答に冷たい男は思わず苦笑してしまう。
 少年は、冷たい男と目を合わそうとしないが、出て行けと言わないのだから受け入れてはくれているのだろう、と話しを続けた。
「"とある物語"は消滅したよ」
 少年の肩が小さく反応する。
「ハンター・・・俺の悪友が言うには"とある物語"は俺の救う糧になって消えたらしい。そのお陰で存在を記された故人の事を遺族は認識することが出来るようになった」
あの後、遺族の1人が葬儀社にやってきて49日法要をやりたいので場所を押さえて欲しいと連絡がきた。遺族は、故人の存在を忘れていたことを忘れて、さも当たり前のように依頼してきた。
 勿論、心よく引き受けた。
「君と遊びの神とやらの契約も無かったことになってるはずだよ」
 少年の拳がぎゅっと握りしめられる。
「あれからその神様から何か接触はない?あっても絶対に答えちゃダメだよ。次が大丈夫とは・・・」
「なんで?」
「ん?」
 少年は、こちらに振り向く。
「なんで僕に普通に話しかけてくるの?」
 冷たい男は、意味が分からず首を傾げる。
 その反応に少年は大きく目を見張る。
「だって・・・僕・・貴方を刺したんだよ⁉︎殺して存在を奪おうとしたんだよ⁉︎なのに・・・」
「殺されてないし、奪われてもいないよ」
 冷たい男は、笑みを浮かべて答え、ジャケットを開いて左胸を見せる。
「傷も治してもらったから跡も残ってない。まあ、ハンターや先輩にはこっぴどく怒られたけど」
 それだけではない。
 異変に気づいた社長が故人の対応をしながら警察と救急車を手配し、少年と冷たい男は病院に搬送された。
 少年は、そのまま入院となり、冷たい男は怪我もなかったので診察と警察からの聴取帰されたのだが今回のことが少女に知られてしまい、警察以上の事情聴取を受け、何故かハンターがはっ倒されていた。
 思えば怒られる謂れなどないのにそれでと謝ってしまうのが冷たい男の人柄だ。
 今回、少年のお見舞いに来ているのも少女には内緒だ。
 バレたら・・・冷たい男は思わず身を震わせる。
「だけど刺したことには変わらない。それなのに・・」
 少年は、シーツを握りしめ、唇を噛み、俯く。
 冷たい男は、言葉を探すように天井を見て、そして少年を見る。
「心臓、調子いいみたいだね」
 冷たい男の言葉に少年は、驚いて顔を上げる。
「ここに来る前に君のお母さんが会ったんだ。ようやく手術の効果が少しずつ出てきてるって」
 冷たい男は、小さく微笑む。
「それは君が頑張ってきた結果だよ。君の頑張りとお母さんや周りの人が支えてくれたからだ。"とある物語"なんて関係ない」
 少年の目が細波のように揺れる。
「確かに君がやったことは許されることじゃないし、共感は出来ない。誰かを犠牲にして得る幸せなんて本当の幸せじゃない。だけど・・・」
 冷たい男は、右手を上げてチャコールグレーの手袋を外す。
 部屋の温度が低くなるのを少年は感じた。
 冷たい男は、少年の飲み掛けのペットボトルに触れる。
 ペットボトルの周りに霜が張り、中身が凍りつく。
「俺もこんな体質だから健康ってわけじゃないのかもしれない。君ぐらいの年の時にそんな誘惑が来たら俺も同じようなことをしていたかもしれない。だから共感は出来ないけど理解は出来る。でも・・・決してやっちゃいけないんだ。誰かを犠牲にした先にあるのは間違えようのない不幸だから」
 冷たい男は、手袋をはめる。
 温度が元に戻る。
「幸い俺の周りにはいい人たちが沢山いる。困った時に助けてくれる人がいる。君の周りにだっているだろう?」
 少年の目が微かに揺れる。
 それだけで誰を思い浮かべたか分かる。
「君のことを支えてくれる人がいる。信じてくれている人がいる。期待に答えろとは言わない。頑張れとも言わない。でも、決して周りの人を、自分を裏切っちゃダメだ。君は・・1人じゃないのだから」
 少年は、何も答えない。
 ただ、俯いて、シーツをぎゅっと握りしめた。
 それだけで今は十分だ。
「また来ていいかな?」
「・・・・いいよ」
 少年は、小さい声で拗ねたように答える。
 冷たい男は、にっこりと微笑み、「また来るね」と言って病室を去った。
 春の暖かさが肌を撫でた。





 ナンダ・・・ツマラナイ・・・。

 マア、イイカ。

 新シイオモチャヲモウ少シ楽シモウ。

#連載小説
#魔女
#冷たい男
#葬儀

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?