見出し画像

【再掲】湯灌(終)

 葬儀の2日前。
 俺は、葬儀場の湯灌の行われる部屋にいた。
 小さく、明るい部屋だった。
 橙色の伝統が日の光のように優しい。
 小さな祭壇に出来たばかりの遺影が飾られていた。
 喜寿の祝いに俺と結婚したばかりの妻と一緒に撮った写真を切り抜いて拡大したものだ。色んな写真があったがこの写真が一番良い笑顔だった。
 恐らく全ての苦労の荷が肩から下りた直後だからだろう。そう思うとやはり見えない心労があったのだろうと思う。祭壇の前でストレッチャーの上に横になる親父の表情もとても穏やかものだった。
 自分が亡くなったことにも気づかず、ただ眠っているようだった。
 横たわる親父の真横に白い浴槽が置かれている。膝丈の高さくらいまでお湯が張られていた。
 恐らくこの浴槽で湯灌の儀が行われるのだろう。
 エアコンの効きすぎた部屋は、少し肌寒かったがそれよりも寒気に混じって漂う荘厳な雰囲気に飲まれそうになった。
 これから行われるのは本当に永遠の別れの儀の一つなのだろうか?
 まるで神社仏閣で行われる豊穣や繁栄の儀のような空気だ。
 隣で妻が岩肌が崩れた滝のように号泣し、死をまだ理解していない息子は、じっと横たわる祖父の遺体を見つめていた。
「それではこれより湯灌の儀を始めさせていただきます」
 皺一つ、染み一つない上品なワイシャツに袖を通した細面の綺麗に髪を分けた男がゆっくりと頭を下げる。その隣で同じように皺一つ、染み一つないワイシャツに格子柄のベストを身につけた小柄な女性が頭を下げる。
 この2人が親父の遺体を対応してくれる湯灌師だ。
 もっと高齢な、それこそ寺の住職のような人をイメージしていたが、実際に現れたのは清潔感のあるホテルマンか高級レストランのギャルソンを思い浮かべさせる若い2人だった。しかし、漂う雰囲気は若さではなく、神職のような清水のような冷たい清らかさだ。
 ストレッチャーに横になっていた親父の表情はとても穏やかだった。
 自分が死んでいることにも気づいていないかのように。ただ眠っているように見えた。
「喪主様、お手伝いしていただいてよろしいでしょうか?」
 男性の湯灌師に呼ばれ、俺は立ち上がる。
「これから故人様を湯船で洗体致します。お運びするのをお手伝い下さい」
 俺は、言われるがままに祭壇の前に設置された白い湯船まで湯灌師の2人と共に親父の背中に敷かれた白い布で引っ張って上げて運んだ。
「後は私どもが」
 湯船の上に貼られたビニール製の布の上に親父の遺体を寝かせると丁寧に女性の湯灌師が言う。
 湯灌師の2人は、親父の身体を丁寧に扱った。
 親父の趣味や生前に使っていたボディーソープやシャンプーの話しを聞き、匂いは何が好きだったかまで聞き、それに合わせたジャンプーやコンディショナー、ボディーソープを使って洗ってくれた。
 丁寧に扱ってくれたと、表現したがそれは正しいものではなかった。
 湯灌師たちは、親父を遺体としてではなく、生きた人間のように優しく、労わりを持った目で接してくれていた。
「頑張ってこられたんですね」
 親父の指の先を包むように、労わるように洗いながら女性の湯灌師が言う。
「指の骨がとても太い。これは一生懸命に働いてきた方の指です」
 頑張ってきた。
 そう、親父は、頑張ってきた。
 生きるために。
 家族を支えるために。
 守るために。
 一生懸命に頑張ってきたのだ。
 親父の身体を洗い終えると、男性の湯灌師が柔らかい声で再び俺を呼んだ。
「こちらを」
 渡されたのは木製の柄杓だった。
 柄杓に"木製の"と付けるのは可笑しな気がして胸中で苦笑いする。
 そんな俺の胸中など知らぬ湯灌師は、小さく笑むと、
「足元からゆっくり掛けてあげて下さい」
 と優しく言った。
 俺は、柄杓でお湯を掬い、言われた通りに足元から掛けようとした時に女性の湯灌師が言った。
「お湯をかける時、どうぞお父様にお声を掛けて差し上げて下さい。ゆっくりお話しが出来ると思いますよ」
 そう言って微笑む。
 そうだ。
 この儀をやろうと思ったのも話しをするためだった。
 何を声掛けようと、一瞬、逡巡するが考える時間はない。
 俺は、足元からお湯をゆっくり、ゆっくり掛けながら胸中で話し掛ける。

 苦しくなかったか?
 人生少しは楽になったか?
 お袋のことは大丈夫だから。
 孫は可愛かったろう?
 頭悪くてごめんな。
 心配かけてごめんな。
 俺は、もう大丈夫だから。
 よく頑張ったな。
 ゆっくり休んでな。

 胸元まででお湯は無くなる。
 幾ら言っても言い切った気がしなかった。
 親父からも当然、何も返ってこなかった。
 俺は、親父からなんと返答を求めたかったのだろう?
 
 幸せだったよ。
 悪くない人生だった。
 お前は、立派に育ったよ。
 あっちで楽しく過ごしてるからお前は、まだ来んなよ。
 ありがとう。
  
 生きている人間は、何でも自分に都合よく解釈する。
 ひょっとしたら親父が言っているのは尽きない恨み言かもしれないのに。

 病院にいれたことを恨んでるかもしれない。
 家で死なせてやらなかったことを恨んでいるのかもしれない。
 出来の悪い俺を恨んでいるのかもしれない。

 結局、何も分からないのだ。
 俺は、妻に柄杓を渡した。
 妻は、息子と一緒に俺と同じ手順で親父の足元からお湯をかけていく。
 妻は、目を赤く腫らして泣きながら、息子は、目を開かない祖父の顔をじっと見ながら、妻に、母に手を添えられて柄杓からお湯を流していた。
 あんな風に泣ければ、あんな風に曇りない目で見つめることが出来れば、親父も一言くらい声を掛けてくれたのかな?
 そんな馬鹿馬鹿しいことを考えた。
 その後、親父が最後の支度をする為に俺たちは控室に移された。
 息子は、強面の葬祭ディレクターから貰ったヒーローのフィギュアに大喜びだ。
 妻は、めそめそとしながらも俺に気を遣ってくれた。
 その度に「大丈夫」「俺は平気だよ」と答えた。
 正直、何の感慨も湧いてこなかった。
 自分が冷たい人間であると、改めて認識した。 
 スタッフに「支度が出来ました」と呼ばれ、湯灌の部屋に戻る。
 棺に戻された親父は、スーツを着ていた。  
 現役時代のスーツで幼い頃の俺が見ていたそのままの姿だった。
 痩せたのでブカブカなのではと心配したが、綿か何かを詰めてくれたのか?着崩れしていない。
 化粧を施されて顔から指の先までも血色も良く見え、痩けた頬を膨らませ、髪も綺麗に整えられていた。
 まさに生前の頃のままだ。
 その姿を見て妻の蛇口の栓は完全に壊れた。
 息子は、じっとじーちゃんを見ていた。
「一度、棺の蓋を閉めさせていただきます、お式の時にまたお開けしますが、何か声をかけてあげて下さい」
 男性の湯灌師は、柔らかく笑みを浮かべていう。
 と、言われても言葉はもう言う尽くしてしまった。
 これ以上、言う言葉がなかった。
 綺麗になったね?
 疲れたろう?
 ゆっくり休んで?
 思い浮かぶも形をなさずに砂となって消え去る。
「・・・また来るよ」
 雑巾を絞り出すようにして出た言葉は、驚くほどにありきたりで陳腐だった。
 自分でもがっかりする。
「じーちゃん」
 その時、棺の中の祖父をじっと見ていた息子が口を開いた。
「また遊ぼうね」
 何気ない、死を理解しきれていない子どもの純粋な言葉。
 大好きな祖父にかける言葉。
 それを告げる息子の姿と幼い自分の姿が重なった。
 そして理解した。
 ああっ俺は親父が好きだったんだな。
 幼い頃、遊んでくれた親父が。
 周りの人から好かれる親父が。
 孫の相手を嬉しそうにする親父が。
 病気と懸命に戦う親父が。
 相変わらず涙は、流れない。
 しかし、心の中で嗚咽する。
「それでは蓋を閉じさせて頂きます」
 男性の湯灌師は、ゆっくりと棺の蓋を閉じる。
 葬儀の日にもう一度開けられるのにこれが最後な気がした。
 最後に会話をすることが出来た。
 俺の言いたかった言葉を息子が代弁してくれた。
 伝えたかったこと。
 別れでなく、再会の言葉。
 今世ではもう会えないだろうけど、またどこかで違う形で出会えることを願って。
 また、遊ぼうね。
 幼い俺がそう呟いた。
                      了
#小説
  #最後の別れ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?