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境界線と共通性

原爆の話

先日、とある原爆体験者(90代)の方のお話を直接聞かせて頂きました。今までもわずかですが、私は看護師という職業を通して原爆体験者の方と出逢う機会を頂いてきました。

きっかけ

この話を別の方(70代)と話したときのことです。その方は率直に悪びれることもなく清々しく『体験したことないから分からない』と言ってくれました。
そうなんですよ、そうなんです、分からないのですよ! 世界には【かなしみ】が沢山あって、毎日驚くべきニュースが流れても、自分のこととは認識できない。なんだか知ったかしちゃうけど、人の【かなしみ】を分からないのが私たちなのです。

境界線

そんな中、私はふと東日本大震災の数年後にボランティアで宮城県に行ったことを思い出しました。そのとき二つの忘れられないことがあったのです。
一つは、とある国道を挟んで右は更地、左は街並みがあったことです。つまり津波に襲われた境目がその道路だったのです。
もう一つは、仮設住宅にいる人たちは私たちが来たことを喜んでくれたけど、現地の保健師さんには無視されたこと。

これらの話には『境界線』という共通事項があるように思えてならないのです。

体験した人ではなければ分からない

先述の70代の方が言ったように、体験したことがない人には分からないのです。分かったつもりも無理があるのです。
死別をしたことがなければ分からない。
虐待を受けたことがなければ分からない。
個別のつらさはその人でしか分からない。

つまり【かなしみ】は個別であり、さらに体験したか、しないかで境界線がある。

ただ…この境界線をもつからこそ人なのかもしれません。

境界線と共通性

私たちは常に個別の体験を持ち、境界線を背負うのだとしたら…。人は決して分かり得ない。

ただ境界線をもつことを前提としたら共通性がある。
そして人と人は、決して分かり得ないという共通性によって【寄り添う】ということを続けてきた。

寄り添うとは何か…

今、医学書・看護学書の本では、“寄り添う”というキーワードが昔より多く出ているようです。無闇矢鱈に“寄り添う”なんて使えないことを知っている人は、少し引き気味でしょう。
しかし“寄り添う”ことを真剣に学んできた私たちにとって非常に重要なことでもあります。

私たちは決して分かり得ないという前提によってこそ、寄り添えるのかもしれないから。

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