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尊厳とは何か(訪問看護、在宅医療の現場から)


問いかけ

 私の仕事場からのちょっとしたエピソードをご紹介。

 以前、終末期のがんを患った方に、私たちの医療チームは深い問いかけをされたことがあります。その方はご家族の協力のもと最後までお家で過ごすことを決められた方でしたが、ある出来事が起こります。
 それはご本人が昏睡に陥る前に、ご家族が金銭面の整理(カード暗証番号などを聞いておくこと)をしようとした時でした。ご家族も様々な胸中が渦巻く中で…のことでしたが、その時すでにご本人は軽度のせん妄(意識が混乱していること)があり、ご家族と言い合いになってしまったようなのです。そしてそこに出くわし、止めに入った医師にご本人が問いかけられたのです。
『私の尊厳はどうなる?』と…

尊厳とは何か

 「尊厳」と言えば、とても大切なことと言わずもがな伝わるのではないでしょうか。ただ「尊厳ってなに?」って聞かれたとき、明確に言える人は少ないかもしれません。

 きっと問われているのは答えではなく応え方なのです。だから私はこう応えます。
『あなたの思いや考えを、すべて叶えることや実行することは医師や看護師の私たちにはできないかもしれません。でもだからと言ってあなたの尊厳を蔑ろにしてもいません。』『なぜならあなたが例え昏睡に陥って、思いや考えを語ることができなくなっても、私たちはあなたを大切にし続けるから。』

その人の思いや考えと尊厳は必ずしもイコールではない

 もしその人の思いや考え(価値観、人生観と言ってもいい)を大切にすることが尊厳を大切にすることであれば、意識障害や末期の難病や認知症で自らの思いや考えを表現しきれない人たちの尊厳はどうなってしまうのか。
 そう…、その人の思いや考えが必ずしも尊厳とイコールで結ばれるとは言えないのです。 尊厳とその人の思いや考えは分けて考えることができるのです。

 そしてこの裏には恩師から教えられたシモーヌ・ヴェイユの言葉が支えとしてありました。

人間誰にでも、なんらかの聖なるものがある。しかし、それはその人の人格ではない。それはまた、その人の人間的固有性でもない。きわめて単純に、それは、かれ、その人なのである。

聖なるもの、それは人格であるどころか、人間の中の無人格的なものなのである。人間の中の無人格的なものはすべて聖なるものであり、しかもそれだけが聖なるものである。
シモーヌ・ヴェイユ「人格と聖なるもの」

 私にはシモーヌ・ヴェイユが言った聖なるものとは、誰もが持つ剥き出しの《いのち》のことだと思えました。


尊厳とは何か

 私たちが生まれたときに与えられる剥き出しの《いのち》。生まれたての赤子と同じ意ですが、私たちが剥き出しの《いのち》を晒したとき、それは必ずしも美しいと思ってくださる方ばかりではないのでしょうか。
 なぜなら剥き出しの《いのち》は地位や名誉などなく、意思疎通も困難であったり、また自分で自分のお尻も拭けず排泄物にまみれることもあるからです。でも、シモーヌ・ヴェイユはその剥き出しの《いのち》こそ聖なるものだと言うのです。

 私はいくつもの場面を振り返り、尊厳を大切にするとは、地位や名誉などなく、意思疎通も困難であったり、また自分で自分のお尻も拭けず排泄物にまみれることもある剥き出しの《いのち》をどれだけ大切にできるかということだと感じています。



実践の中に埋もれがちなこと

 揚げ足取りではありませんが、尊厳を大切にすれば後はいいのかというと、そう言う訳ではありません。尊厳を大切にすることは当然ながら、その人の思いや考えも大切にしなければなりません。つまり全部必要なんですよね。

 そんなの大変じゃないかと思うかもしれませんが、そうなんですよ、大変なんですよ。でもそんな大変なことに日々向き合っておられるケア提供者の皆さんが、こんな話から「私、この人の尊厳を大切にしているかも…」と感じられたり、「あ、私はその人の意思や考え方に捉われて、尊厳を見失っていたかも…」と感じられたりすることがあったら嬉しいです。そう、多くの心あるケア提供者は意識的無意識的にその人の尊厳を大切にしているのだから。

(尊厳についての一考察)

桜新町アーバンクリニック在宅医療部
桜新町ナースケア・ステーション
看護師/スピリチュアルケア師 坂詰大輔

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