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「ブルグマンシアの世界」のひとたち2~由紀、ベル~

そろそろ皆さんの記憶から少しずつ、少しずつですが痕跡が薄れてきていることと思います。本番から半月ですしね。でも完全に消え去る、ということはないだろう。という希望や確信はあります。特に公演に関わった(客席にお客さんをお迎えする側の)メンバーにとっては。
お客さんにとってはどうなんでしょうね。僕は拝見した舞台を断片的にでもわりと覚えてる方だと思うんです(覚えておくだけの記憶容量がもったいないと思う公演もあったりします)が、これは僕も「公演を打つ」側に立つことが多いからかもしれません。
だから、「素人さん(演劇公演を開催する立場ではない純粋なお客さん、という意味です)」にとって「ひとつの公演」がどの程度記憶に残るのか、興味のあるところです。
記憶に残っているうちにこのシリーズ書いちゃいたい、賞味期限切れちゃう、というのもありますし、それよりも。
今回の「ブルグマンシアの世界」で初舞台を踏んだメンバーもいます。役者として初めて舞台に立った、その姿を目撃した方。ひょっとしたらコレを読んでくださってる方の中にもいらっしゃるかもしれません。
「ひとりの役者の誕生(今回はそれがふたりいるんですけど)」に立ち会ってくださった方の記憶に、その光景が刻まれているとしたら、何年も経ってから記憶が蘇る瞬間があったとしたら、劇団員でもないただの老兵の傭兵が言うのも何ですが、これほど嬉しいことはありません。

由紀(カリン)

さて、そのルーキーのひとり、由紀について書こうかなと。
去年の手帳をひっくり返すと、2022年10月21日が顔合わせ、11月4日が稽古始めだったようです。僕の個人的なスケジュールでは次いで6日にベル出演のトモダオレ。

、翌週13日は中村太亮出演の演劇集団よろずや

を観劇していました。
トモダオレ。では翌週に本番を控えているはずの中村太亮と、よろずやでは由紀と、客席で遭遇。
第1章で述べたとおり、中村太亮は目配りの人。しかも手練れの彼のことですから、本番1週間前だろうが次回の共演者が出てるとなれば合間を縫って観劇、くらいやってのけるでしょう。事実、終演後はそのまま稽古場直行だったようです。そんなスケジュールを組んでも勝算があったのかもしれませんし、「義理」は優先したいでしょうし、それにもまして共演者のいまを観ておきたいという興味は常に抱いているのだと思います。

で、本題の由紀です。
客席で会った、つまり彼女は(次の共演者の出る舞台だ、という条件を差し引いても)舞台を観に行っていた。
観に行ってたんですよ。
――何をそんなに驚いてるんだ、と思われることでしょう。「観に行ってた」「客席で会った」なんて、中村太亮にも同じこと書いてますしね。

ここ何年か、僕の出身校の演劇部にときどき顔を出してまして。縁あってもう一つ別の学校とも仲良くして頂いていました。
そこで彼/彼女たちに語ってるのは、あくまで僕の持論ですが、いい役者(これも定義が別途必要でしょうが)になりたかったら、いい芝居をしたかったら、稽古も大事だけどとにかく舞台を観に行け、ということです(由紀さん高校生と同列に語ってごめんな)。
いつものように話が脱線して恐縮です。
「お芝居」のチケットって、一般的に「高い」んです。よく映画と比較するんですが、いま(2023/02/14)梅田ブルグ7に掛かってる作品の「一般」といわれるチケットが概ね1500円~1800円。一方で、たとえば今回の「ブルグマンシアの世界」であれば当日券で3000円。ざっくり倍のお値段です。これに限らず、最近の相場としては安くて2500円~、だいたい3000円台~4000円台くらいが主流です(公演自体や劇団の規模・人気度によってかなり変動します。もうひとケタ上がる場合もあります。)。「安くない」です。
もちろんお金のことだけで「観に行く」「観に行かない」が決まる訳ではありませんが、自身の収入が一定だとして、その中から使途を決めようとしたら、当然に優先順位をつける必要がありますよね。
もう一つ言えば、僕の周り、関西小劇場という界隈では、せいぜい金土日3日間5ステージというスケジュールが一般的です。ロングランというのは決して多くありません。まして映画のように何週間にもわたって、というのはほぼ望むべくもありません。「自分のスケジュールに合わせて劇場へ」ではなく「上演スケジュールから自分のスケジュールを逆算する」ことが強いられます。「観に行く」ことの障壁がわりと高いのです。
ひょっとしたら別の誰かに言われたのかもしれません。たまたまよろずやを観に行った、それ以外は・・・なのかもしれません。
ペトリコール社の直接雇用でも研修担当でもないただの派遣社員の僕が言うことでは全くないのですが、「彼女にはそんな小言を言う必要はないな」と感じました。「何が必要か理解してるな」とも。
――こう書き出してみて、ずいぶん上から見下ろすような書きぶりだな、と少し嫌になっています。ほんまごめんなさい。でも、少なからず場数と年数だけはこなしている「先輩(とよばれるところの僕)」の目にはそう映っています。あくまで褒め言葉として、ね。
実際に稽古が始まりしばらくして、彼女の台本を目にする機会がありました。真っ黒でした。余白がないくらい。ページの裏面も。比喩でも何でもなく真っ黒。
――こんな大量の書き込み見たことない――
「舞台を観に行ってた」ことを、少しだけ偶然の可能性を含めてしたためましたが、これで確信しました。間違いなくいっぱい観に行っている。
普段の仕事も決して楽なものではないと伺っています。だから観劇できる機会も限られていると思います。それでもおそらく、僕の想像よりいっぱい観に行ってるんだろうと思います。
繰り返しますが、ルーキーです。
――ルーキー時代からこれやられちゃったら、僕はすぐに追い落とされるなあ・・・。

「先輩(とよばれるところの僕)」は、不遜にも彼女に「これはテクニカルなことだけど」とことわりつつも、「台詞術」的なことを伝えました。日本語で書かれた台詞を発語するときの音の高さ低さの傾向、句読点で言葉を句切る時の音程の立て直し方・・・。「もちろん、役者自身だったり『役としての登場人物』だったりが何を見て何を感じて何を思ったかを整理して感情として発露することを優先してね。発露ができてなかったら『台詞術』は何の役にも立たないから。」とも伝えましたが、おそらくその時の彼女に理解を求めるのはまだ厳しかったと思います。
「その時の」彼女には。

正直、本番が始まるまで、稽古期間の彼女はかなり苦戦していたように思います。稽古の終盤でようやく少し、自分の思ったことが動きや言葉に乗るようになってきましたが、お世辞にも充分だとは言えません。
翻ってじゃあ僕はどうなんだ?と問われると答えに窮しますが、おそらく彼女自身も同じように「できない」もどかしさを感じていた「はず」です。

その「はず」の答えあわせが、稽古最終日。
最終調整とはいうものの、この期に及んでも改善点というのは見つかるものです。「ここはダメだった」よりも「ここはこうすればもっと良くなる」という指摘の方が圧倒的に多いので、「ダメ出し」という表現は正しいと言いきれないかもしれません。その時も、「ここまでいいものが出てきてるんだから、もうちょっとこうしてみたらどうだろう」という「ダメ出し(敢えて『用語として』この表現を使いますね)」が由紀にも向かっていました。

(ちょっと様子がおかしいな)
ダメ出しを聴いてる由紀の表情が全く無くなっていました。
「感情が無くなった」というよりも「感情を必死で押さえ込んでる」という無表情。
ほどなくして、押さえ込もうとした彼女の努力は、感情の波の前に崩れ去ります。
声も無く、泣いていました。

――すげえなあ。
文字にすると場違いな感想だとは思います。
あとから本人に聴いたところでは、「悔しくて」だったそうです。家でも泣いていたそうです。
「もう稽古最終回なのに、できてない自分が悔しい。」
これまた翻って、ここまで自分に「悔しい」と思えたことが僕にはあったか、あるいは今そんな感情が抱けているか。
技術で、引き出しの多さで、僕が彼女に負けているとは思いません。圧勝だとは思いませんが。
でも熱量は。
そんな自分を振り返って、「すげえなあ」という間の抜けた感想が出てきてしまった訳です。僕自身にそういう熱量があれば、「すげえなあ」よりももっと寄り添った、あるいは真摯な、マシな感想が抱けていたかもしれません。

で、翌日のオフ、翌々日の仕込み(舞台セッティング・リハーサル)を経て、1月28日(土)の本番当日を迎えます。正確には翌29日(日)がより印象的だったのですが、彼女の熱量は舞台上に結実します。
特に印象に残ってるシーンがふたつありまして。
一つ目は、我々の間で「告白シーン」と呼ばれている、後述のイヴ(ベル)に思いを伝えるシーン。
これが先述した、稽古終盤で少しずつノってきたシーンなのですが、稽古段階とは比較にならないくらいグッとくる。
これでは抽象的すぎるので少しだけそれっぽく技術的に詳述すると、台本に書かれた台詞を「読む」から「しゃべる」に進化した、といえると思うのです。そのシーン、僕は「舞台袖」と呼ばれる、舞台や客席から見えない待機スペースで声だけを聴いていたので余計にそう思ったのかもしれませんが、台詞という言葉を、「由紀という役者が音読している」から「カリンという役が由紀という役者の身体を使ってしゃべっている」という、お芝居のもっとも魅力的なありように大きく近づいた、そう感じました。
もう一つ。これはシロ(堀田ユカリ)やダスト(僕)とのシーンです。
台詞を書き出したところで、ご覧になってない方には何のことやらだと思いますが・・・。(「隣の芝は青い」のシーン、といえば身内には伝わるはず)
カリン「隣の芝が青く見える原理ね。」
シロ「え?芝は青くないでしょ。」
カリン「え?」
シロ「は?」
カリン「あぁ~。ごめん!」
いくぶん唐突に「芝は青いか否か」の議論を持ち込んだ辺り、作家の意図をなんとなく想像してしまうのですが、この間抜けなやりとりをカリンが強制終了させる、うまく決まれば手前のシーンからの切り替えとして非常に効果的だと思われます。
このシーン、どうもしっくりこない。シーンとシーンの連続性をスパッとたたき切る気持ちよさが出なかったんです。稽古終盤くらいからは、台詞としては加わっていないダストもシロと一緒にはしゃいでみたんですが、それでもどうにも。
うーん、と唸りながら手をこまねいていたところへ、「うまく決まった」のが本番2日目でした。
変わったのはカリンでした。
「あぁ~。ごめん!」の発語が変わった。それだけのことなのですが、内容を掘り下げると「あ。余計な喩え出しちゃった。このまま『絶望的に語彙力の欠如した二人』を相手にしてると話が泥沼化する。この話終わり!」という思い切りがカリンから発露した、正確にはカリンを演じた由紀から発露した、ということだと思うのです。
だいぶ上の方で「台詞術」について述べた中に、「発露がなければ役に立たない」と書きました。
「あぁ~。ごめん!」の発語は精確には「台詞術」とは少し違うかもしれませんが、少なくとも「発露」はここで実現しました。
「見えていること」「思ったこと」「考えたこと」を言葉や所作に乗せる、大雑把にこれを「発露」と呼びますが、これ実はすごく難しいことです。自分が思うように身体が動かない、言葉が出ないというのは日常生活ですら枚挙に暇がない。ましてや衆人環視の舞台上で。
「本番マジック」という、「本番を迎えてお客さんを前にしたとたん別人のように芝居が良くなる」というのは往々にしてあるもので、それは差し引かなければなりませんが、事実として彼女は感情の発露を成し遂げた。いちどならず、昼・夜公演の2回とも。
――まあ、いちどできたはずのことが、次回公演の稽古が始まったときに「あれ?」ってなるところまでがワンセットなんですが(笑)。
それはともかく、「できた」という事実は変わりません。
上述の通り「『台詞術』は『整理できて発露できてないと何の役にも立たない』」、これは裏を返すと「発露さえできれば『台詞術』を使うことができる」ということです。
僕がエラそうに能書きを垂れた、それをまだ理解できなかったであろう「その時の彼女」から、「理解し使うことができるようになった」「いまの彼女」という、「女優=由紀」の誕生の瞬間です。
例によって(いや例の倍くらい)の言辞を弄してしまいました。
その瞬間に立ち会えた、僕のその嬉しさだと思って許してやってください。

ベル(イヴ)

手練れ派遣社員2号。1号は中村太亮。どっちが1号か2号かはさほど重要じゃありません。僕も同じ派遣ではありますが、まあ番外でいいでしょう。
・・ちなみに、「劇団ペトリコール社」は、その名が示すとおり企業を模した組織体という体裁を持っています。今回出演した由紀と南あずきは「インターン生」という待遇から「正社員」に昇格しました。おめでとうございます。これで「ヒラ社員」の存在は見えたんですが、上層部はどうなってるんですかね。社長とか取締役とか部長とか課長とか呼ばれてるひとを見たことないんですよ。おそらく斎藤ゆうや田中愛積が「代取」とか「社長」にあたるのでしょうけど・・・。あ、これは法人格を持った営利企業の場合で、そもそも「劇団」で「営利目的(収益が見込める、くらいの意味)」で「法人格を持つ」が成立するのかと考えると「任意団体」か(仮に法人格を付与するとしたら)「一般社団法人」あたりが妥当なのかしら。そうすると「代表理事」とか「理事長」とか・・・。
で、そんな「企業」にあって、演劇の世界で言う「客演」を当てはめるにはどういうポジションが適当なんだろう、と、人事担当(←誰だよ)と「客演」組で協議の結果、「人材派遣だな」という結論に至りまして(社外取締役とか顧問とかっていう案もあったんですが、さすがにエラそうすぎたので・・・)。
そんなこんなで、演劇の世界でいう「客演」に相当するベル、中村太亮、そして僕は「派遣社員」として活動することになりまして(給料は中抜きされてるんだろうなあ)・・・。

正直に白状します。
20代30代くらいで、最前線で舞台に立ち続けてきてる役者さんの存在が、僕は怖いんです。
もちろんみんながみんなではないですが、彼/彼女たちは、動きが綺麗。人によってはダンスも殺陣もできて、舞台上でどこに立ってどう動けばどう見えるか瞬時に把握できる。
僕は苦手。
じゃあ、僕が持ってるアドバンテージは「台詞術」のはずなんですが、それとて由紀の項で述べたとおり「発露」さえできればいくらでも使えるものです。仮に誰かに教わらなくても、舞台をたくさん観に行っていれば自然に身につくもの。
事実、中村太亮にせよ、ベルにせよ、台詞回しの安定度で測ると、動きもできる彼/彼女に、既に僕が勝てる要素ないんですよ。

でまあ、僕の敗北宣言があろうがなかろうが、ベルという女優(演劇人と言った方がいいかな)の魅力を語りたいなと。
そう思わせてくれる時点で既に魅力的なんですがね。

女優としては「何にでも対応できる」という印象です。「器用」というよりは「全体を見渡す能力」「そこから任意の場面での最適解を見つけ出す能力」に優れた「演出力のある」役者さんだと思います。
ダスト(僕)がイヴ(ベル)と、このストーリーで初めて会うシーン。そこには当初榊(斎藤ゆう)もいるのですが、特に榊が去ったあと。ほんの数分のシーンです。
ダスト 「・・・イヴ。それ・・・。」
イヴ  「ああ・・・。やっとできたの。」
ダスト 「無粋なこと聞いてごめん。でも気になるから聞いてもいい?」
イヴ  「どうぞ。」
ダスト 「ちゃんと、妊娠してる感覚あるの?」
まずはこのシーンの前半部分だけお読みください。
ここで僕は、「妊娠」というとてもデリケートな事象を、できるだけデリケートに扱うために、できるだけイヴから目をそらすように、恐る恐る声を潜めて尋ねる、という手法をとりました。
「妊娠」という事実そのものももちろんデリケートなのですが、このストーリーでの「イヴの妊娠」は後述の通り別の意味でもデリケートです。だから僕はそこを大事にしようと試みました。

稽古も中盤にさしかかった頃、ベルから提案をいただきました。

2023年1月18日のことでした。
彼女は、「このシーンの入り方として、あまりに慎重になるより、明るさや楽しさを前面に出してはどうだろう?」と言ってきてくれました。
先ほどのシーンの続きを引用します(少し中略します)。
イヴ  「・・、・・・この子の命はこのハレンスの中でだけ。ハレンスからログアウトした、リアルの私の元にこの子はいない・・・。」
ダスト 「・・・。」
イヴ  「虚しくない?」
ダスト 「!」
イヴ  「って聞こうとしたでしょ。・・・虚しくないよ。だって、そもそも現実では不可能なことだから。・・だから私は嬉しい。これがいっときの幻だったとしてもね。」
少なくともこのシーンで、「現実では妊娠することが不可能なはずのイヴが妊娠している、その『事実』が持つ意味あるいは意義」が語られている、その認識自体はベルと僕とで共有できていました。それは間違いないと思います。そのうえで、その「事実」の意味や意義をどう捉えるか、というところで。
少し細分化すると、その「事実」自体がいくつかの意味や意義、色合いを持っていて、どの部分に焦点を当てるかという部分で、もっと言えば「観客にどう観てもらうか」に関して、ベルと僕に隔たりがありました。僕にとっての焦点は「ちゃんと、妊娠してる感覚あるの?」でしたし、おそらくですが彼女にとっては「・・だから私は嬉しい。」だったのだろうと推測します。

――悔しいから「彼女の解釈の方が正しい」とは言いません。(笑)。敗北宣言を繰り返さなきゃいけないから(これはまあ事実です)。それに絶対的に正しい解釈というのもないですから(負け惜しみですね)。

――まあこうやってチョケて書いてますけど、ストーリー全体を俯瞰したときにどうなんだろう、というと。

あくまで表面上ですが、「ブルグマンシアの世界」の結末はディストピアだということができると思います。少なくとも作家=斉藤ゆうの言葉でいうところの「救いがない」世界観がこのストーリーの根幹です。
(そこから先、劇場での「お芝居の時間」が終わったあとの「続き」をどう描くかはお客さんですし、僕自身もその先を勝手に創ってますし、他のキャストやスタッフ、ひょっとしたら作家自身も「続き」に思いを馳せているかもしれませんけれど。)
あくまで「お芝居の時間」の中で、その根幹や結末をより際立たせるための「騙り」として、結論の少し手前までは、この世界は「ユートピア」として描かれなければならない。
であるならば、前述(ずいぶん手前に置いてきちゃいました)のイヴとダストのシーンで強調されるべきは「私は嬉しい。」であるはず。さらに、「私は嬉しい。」やその前後のやりとりをより効果的に魅せるためには、「前半を抑えて後半を持ち上げる」僕の方法より「後半をしっかり/じっくりと、かつ平穏/幸福というキーワードで彩るために、前半を敢えてハイトーンで」という彼女の手法がふさわしい。

僕の語りばかりで恐縮です。
「役者は演出であるべき」というのが僕の持論です。
少なくとも自分の出てるシーンは「どう見せたいか」を創り出して、できれば複数パターン創って、演出家に選択肢を与える。
演出家はその選択肢の提示を受けて、ストーリー全体との対照からよりよい選択を行う。
後半は僕の所属するフラワー劇場のマツキクニヒコの受け売りですが、前半は僕の定義として、役者の仕事だと思ってます。
上述の、ベルがやったことって、個々のシーンで捉えれば「役者の仕事」をきっちりやった、ということになるんですが、ストーリー全体で見れば「演出家の仕事」をすらこなしている、とも言えると思うんです。
もちろん「ブルグマンシアの世界」の演出家は田中愛積です。彼女(田中愛積)は彼女でトータルのディレクションをちゃんとやっています。でも演出家である田中愛積に、個々のシーンにとどまらずストーリー全体としても選択肢を提供しているという点で、ベルの仕事はいち役者のそれに留まらない。これは断言していいと思うのです。
――やっぱり20代のバリバリ派遣社員は怖え。
勝てる気すらしねえ。

ベルについて語ろうと思うと、冗談じゃなしに稽古~本番のリアルタイム3ヶ月分の文字数が必要なんですよ。
「面白い」という日本語が"interesting""funny"ちょっと拡げると"cute"いろいろに翻訳されるんですが、思いつく限りのあらゆる「面白い」が3ヶ月の稽古・本番で毎日展開される訳です。ベルの周りに限定したとしても(それ以外でも恒常的に起こってたんで、本気で書こうと思ったら2023年があっという間に終わる)。
この項が難産だったのは、ベルがtwでツッコんできたみたいに「書くことがない」のではなく

むしろ「書くことありすぎて」だったんですよね。あなたにどんだけ笑かされたか。あなたにどんだけグッと鷲掴みにされたか。で、日常的な「面白い(素敵、と言った方がいいかな)」を、息を吐くレベルで連発するでしょあなた。あまりに日常的に。せやから書き始めるまで忘れてて、書き始めてから「あ!これも!」って出てくるんで収拾つかんのよ。だから難産やったのよ。誰のせいや思てんねん(笑)。

難産と言えば。
前述の通り、イヴはこのストーリーの舞台となる「ハレンス」というVRの世界で「妊娠」しています。
「虚構」であるはずのVRの世界で、この「ハレンス」には非常にリアルな感覚が実装されています。
サイ 「・・ここまで感覚がリアルなのであれば、それは現実と同じだと、そういうことさ。だから私は、ハレンスに痛覚を、熱感を、実装したんだ。現実とこのハレンスを、ニアイコールに・・・いや、イコールにするために。」
なら、アバターであるイヴが妊娠するのも、何ら不思議なことではなく。
詳細は敢えて省きますが、現実とVRの境界線を、さらに言えば僕たちが「現実」だと思い込んでいる空間を「疑う」という「ブルグマンシアの世界」の概念自体を大きく背負ったキャラクターのひとりが「イヴ」であったことは確かです。
現実では妊娠することができない。
アバターである「イヴ」の、現実(と思われる)世界でのプレイヤーが「(生物学上の)男」であったことが、上記カリン(由紀)の「告白シーン」で明らかになります。
イヴが「妊娠することができない」、その決定的な理由を伴って。
そのことをさらに掘り下げれば、「なぜ妊娠したいと願ったか」「なぜハレンスで『妊娠できた』ことが『嬉しい』のか」。
現在の社会的課題についての考察を、少なくともこの紙面で語れるだけの言葉を今の僕は持ち合わせていませんが(別のスレッドを立てて語るべきでしょう)、イヴは既に自らの問題として内包しています。
第0章で僕が自分語りをしたとおり、この台本はプレイヤーとアバターのどちらを基準に理解すればいいか非常に曖昧に書かれています。おそらく意図的に。
その僕の推測が正しければ、イヴの葛藤は、彼女のプレイヤーの葛藤が直接的に投影されているものでしょう。
残念ながら、僕には、想像することはできても本質的に理解できるものではありません。寄り添うことはできるかもしれないし、そうありたいとは願うけれど。
ベルがどれくらいの解像度でイヴあるいは彼女のプレイヤーに寄り添っていたのか、もちろん僕には測りかねます。
ただ、少なくとも言えるのは、これだけ大きなものを抱えたイヴの、最も印象に残った表情は「笑顔」だったということ。
これもあくまで僕の私見ですが。
これだけのものを背負って、しかもそれらを文字面だけで表面的に理解しただけでは、決して出てこない、包み込むような笑顔。しかも、背負っているからこその強さをも秘めた笑顔。
だからこそ、カリンをして「告白」に至らしめ、カリンをちゃんと「振って」、きちんと納得させることができたんでしょうね。

再度の引用ですが。
「・・だから私は嬉しい。・・」
何度目かの稽古中のことですが、この台詞を言いながら、彼女は僕の顔を見てくれました。「笑顔」をたたえて。そのとき初めて、僕も「嬉しい」に共感することができました。
(本来なら「彼女」ではなく「イヴ」、「僕」ではなく「ダスト」であるべきですが、このときは「その区別は今はいいや」と思えました。今見えてる「彼女」の表情があまりにも心地よかったので。)

演出力がある、とか小難しいこと書いちゃいましたけど、要は人としての魅力、誰かを幸せな気分にする、そういうチカラを。
役者として、はもちろん、普段(といっても稽古場でしか会ったことないけど)の会話でも。
相手を笑顔にする笑顔を、常に持ってる人。
「持ってる」ためにどんな努力があるのか、そこは敢えて知らない方がいいような気もしますが、そんなことは考えるまでもなく、接しているだけでこちらも笑顔になれる。
「人」としての魅力、なんだろうなあ。

追記。
「妊娠している」という役どころゆえ、彼女は衣装として腹部に詰め物をして本番に臨んでました。
途中でダンス(「いごき」と称する、ダンス的な魅せ方よりも「動作」自体のイメージを重視した、成瀬トモヒロ独自のモーション)シーンがあるのですが、少し大きな動作をすると詰め物がずれるんだそうです。
劇場入りしてから実際に舞台で「いごき」を確かめながら、詰め物をずらしてしまったベルが「破水!」って。
「破水!」って。
やめろ!腹筋ちぎれるやろ!
ついでに。
楽屋で。
「破水!」って叫びながらトイレに駆け込むのやめろ!
トイレで「ひいひいふう」とか言うのやめろ!

あぁあ・・・。
台無しにしちまった・・・。

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