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京都から北海道への旅①-今は旅のできないあの人へ-

京都へ

2021年10月上旬

 京都から北海道旅。こういう変な旅をできるのは幸せやなぁ、と思う。
 世の中がコロナ禍になり、職場で少しあり、行き着いた考えはできるときにできることをすべてしておこう、と思ったこと。旅しかり、書くことしかり。

 ずっと行ってみたいと思っていたTHE GATE HOTEL 京都高瀬川(https://www.gate-hotel.jp/kyoto/)。インバウンドのお客さんが戻ってきたらもうこの値段では泊まれないであろう、破格に安い値段で泊まらせてもらう。旅行業の人たちの大変さを痛感する。

GATE HOTEL外観


 そしてその恩恵を受け、使わせてもらうことが一番の貢献、と自分に言い訳してみる。近畿に住みながら、京都に泊まることを不思議がる人がいる。日帰りで行けるのにもったいない、と。自分も以前はそう思っていた。ただ、一度泊まってみると、京都は泊まらないともったいない場所だと気づく。

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 まだ新しいから心地よい、というのもあるが、なんとも、この今まであった小学校の建物を活かすホテルの建て方がものすごくスタイリッシュでかつ、今はやりのSDGsにのっとってる。というかそんな難しいこと言わなくても、いいものはいいんよね。かっこいい。さすが京都、と思う。

たん熊北店京都本店へ 

 荷物をおいて昼食。向かう先は、これまた旅番組で見てずっと行きたかった、たん熊北店京都本店(https://www.tankumakita.jp/kyotohonten/)。スマホを使っていると場所を事前に確認しないことが増える。そしてびっくりした。お店が文字通り、宿泊場所の目と鼻の先にあった。歩いて数歩レベル。こんなことでうれしくなるのは、しあわせな証拠。

 暖簾をくくる、という仕草が大人に見えたころ、いい歳になるとみんな自然にできるもんやと思っていたが、なかなかどうして、いくつになっても緊張する。高級店、と呼ばれる店に入れるようになったのは本当にここ数年。この緊張感は忘れたくない気がする。

 からりと引き戸をあけると、入ってすぐ左のカウンターに通された。板前さんのすぐ目の前。板さんと気が合わないとこんなに最悪の席はないが、気が合えばこんなに素敵な居心地の良い場所はない。

 目の前に使い込まれた鍋が置かれている。こういう道具にものすごく惹かれる。自分はそれほど料理をしないくせに、使い込まれたこの手のやつに。

 今回は居心地のいい席の方だった。京都はやはり、もてなし文化が身についている、というか、自然ににじみ出てくる気がする。
 当たり前だが、店によって違う。それでもなんだか、東京のお店は自分の格を上げることで客に緊張感を持たせて自分の価値を上げる、そんな気がしてしまう。でも京都は、腹の中はいざ知らず、なんせ店の人の方が自分の格を下げてくれる。いい店ほど、いかに自分をいわゆる『ふつう』に落とし込むことによって相手を和ませてくれる。


 それだけに、その料理の技術との圧倒的な差に驚き、その技量を見せつけられる。この感覚を東京で味わえたのは、実は帝国ホテル東京だった。なんだか、ほんまもんのおもてなしの難しさがあるんやなと思う。

大将

 大将は気さくに旅の話などをしてくれる。今度、熊野に行ってみたいのだ、とこちらの話に合わせてくれて。
 しかしここが難しいところ、というか。いい店であればあるほど、とっても居心地よくて話したいのに、心の底から黙っていたくなる。黙っていないと味わえないから。特にこういう大将の作る料理は、人を黙らせてうならせることが多い。 

先附

 今回はお試しで松花堂弁当をいただいたのだが、その前の先附からもう言葉を発するのが難しくなる。口の中にうまみが広がる。なんじゃかんじゃと料理に関する知識や語彙力がないから、うまくうんちくは言えない。ただわかるのは、ひたすらにうまい、ということ。


 以前、東京の友達と御飯に行ったとき、やたらダシがダシがと連発する私に、関西の人はそんなにダシが大切なのね、と言われた。多分それは自分のボキャブラリーが少ないから。うまみはダシ、そう思っているから。胡麻豆腐をかみしめて舌で転がしてしまう。飲み込むことがもったいない。もっと味わいたい。

刺身

 だからこそ不思議なのが京都の高級なお店で出される刺身。なぜうまいのか。わからない。本当に。よく海側にも旅をするし新鮮な魚はかなり食べている。にもかかわらず、明らかに味付けされていない(と思ってはいるが、もしかしたら昆布なんかで手を入れてるかもしれない)刺身が、他の海側にあるいわゆる海鮮のお店よりもおいしい。
 熟成寿司なるものを食べたときに、正直、あまりおいしいとは思わなかった。だから、熟成なのかどうかも分からない。ただ、身の中にうまみが凝縮している。ただの脂ではないと思う。うまみ、なんやろか。


 思わず笑みがこぼれてしまう。こんな数切れのお魚に、ちゃんと向き合える。おいしいんよね、とにかく。

白味噌

 板さんが、白味噌の説明をしてくださった。なんでもこの白味噌、松花堂弁当の椀物にしか使わないとのこと。この白味噌を味わうために松花堂弁当を頼む人もいる、との事。このこだわり。想像も及ばん。


 言わなくてもいいのに、自分が使ってるのは白味噌に近いものだということ、わざわざ奈良に行って普通の民家のような糀屋さんの作る味噌を買いに行くこと、などをたらたらと話す。
 相手は超一流、味噌なんか知り尽くしてるはずなのに、ちゃんとうなずき、感心し、いいですねぇ、と言ってくれる。掌で転がされる。このことやろなぁ。でもそんな風に心地よくさせてくれる人の料理は、おいしい。

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 椀と共に松花堂弁当が運ばれる。昼とはいえ、庶民からすればとてつもないかなりの高額。若い時ならば、こんな少しなんか、と思っていたはず。経験は人に学びを与える。これだけ、ではない。この見た目に詰まっているからすごいということ。

 まず椀をすする。出汁という文化、北海道の昆布と鹿児島の鰹節が京都で出会ったことに感謝する。こんなもん、他に何といえばええんやろ。濃厚にして奥行きのある深い味、なんて、うすっぺらい。うまいんよね、ただただ。
 口に入れてのどを流れていくまでの時間が圧倒的に長い。いつも早食いで有名な人間の私が、文字通り、一口一口、口に含み味わう。おいしい。
 白味噌のうんちく、すみませんでした。そう思いつつ、この圧倒的なやさしい甘みをおだしのおいしさに、頭がぼんやりする。
 本当に本当に、ほんっとうにおいしいものを食べると、私の場合の反応は頭の後ろの盆の窪から上がぞわぞわっとする。そして久しぶりにぞわぞわした。

 箸を松花堂弁当へと移す。どれから食べるか迷う。お弁当を食べるのに順番を考えることなんで、ほぼない。こんな体験も面白い。
 何を食べてもおいしい。それが正解。ただあえて言うならば、やはり野菜の煮物。野菜のたいたん、と京都では言うんやろか。里芋のしゅんでる具合が不思議で仕方ない。ぎゅっとかみしめる。別に肉汁がじゅわ、っと出るわけではない。ただただ、ぎゅっとしたうまみが出てくる。おいしい。ここで箸が止まってしまう。まだ一品目やのに。

 大将が話しかけてくれる。旅好きだけは自負してるので、ぜひ熊野に行ったら湯の峰温泉のあづまや旅館に泊まってください、なんて笑顔で話してる。話しつつ、今はただ料理に集中したい、なぁ、と申し訳なくも思う。今はただ、食べたい。味わいたい。

 多分、西京焼き。かみしめる。こんな小さい塊ながら、じっくりと食べさせてくれる。ただ濃い味がついてるわけではない。人によっては、なんやこの味うすいなぁ、となる、かも。
 でもちがうんよなぁ。この一口がずっと残っててほしい。そんな風に噛みしめて食べる。噛んで噛んで、しっかりと舌の上に行き渡らせて。おいしいんよね、ただただ。

 鴨のローストはあまり好きではない。なんというか、ぱさぱさしてる上に、味が濁ってる感じがして。
 ただこれは違っていた。うまい。かかっているジュレが、何にもくどくないからスキっとしてて、何より鴨肉がうまい。なんなんやろ、クセも何もない。そんな肉はたいてい味がない。
 なのにこの肉は、味わいとうまみがある。じゅわっと広がるおいしさ。鴨、うめぇ。「なーーー」と言いたくなる。理由はない。ただ、湧き上がるうまさを表現できない人間にとっての、最後の表現方法としての鳴き声なんかもしれない。

 最後の笹に包まれたお寿司を口に入れる。最後の最後まで、きちんとおいしい。当たり前と言えば当たり前かもしれない。
 ただ、それは当たり前ではない。最後に食べて小鯛の味がしないことなんてよくある。かみしめる。小さな鯛から、しっかりと味が出てくる。うまみたっぷり。ああ、おいし。噛んでも噛んでも飲み込むのが嫌になる。できるだけ長く保ってみる。

 全部食べ終わって、ふぅ、と息をつく。漫画みたい、もしくはドラマ。そんな風に、人はやっぱりほんまにおいしいものを食べたときにはこうなる。

デザート1

デザートと抹茶

 別料金になりますがお抹茶ご用意できますが、と言われ、最初にオーダーしていた。ふぅ、とついた息のあと、ちょうどよい飲み物だと思った。
 デザートの水菓子が本当によいあまさ。甘すぎない、ではなく、本当においしいギリギリ。のどをすっと通る。そして最後、抹茶に何を合わすのかと思ったら、ほろほろと崩れるメレンゲ上のお菓子。
 京都はすごい。別に和菓子でなくてもいいんや。おいしいものなら、それでいい。ただ、一番おいしいものをもってくる、それだけ。それだけが、ものすごくおそろしい。ほろりと口に溶けかける内に、薄茶を飲む。至福。すべてが落ち着く。

おしぼり

うちわと設え

 支払いの時、正直高いなぁ、と思う店がある。それに対して、値段を見るのがばかばかしくなるくらいの満たされた感覚で終わらせてくれるお店がある。ここは言うまでもなく、後者や。

 支払いの紙を見て、おお、こんな値段でいいのか、なんて思ってる自分に、お前は御大尽か、ともう一人の自分が突っ込む。ただ、こんなしあわせの極みはなかなか味わえない。


 ようやく落ち着いてお店を見渡す。設えが、もう自然に京都。京都やから当たり前やねんけど。心地よい空間を作り出すことが出来るのは、センスなのか、はたまた経験なのか。どちらもない自分は、ただただこうして才能ある人が作ってくれた空間に浸るしかない。そしてその時間がすごく心地よい。

 ほんまに近いのに、異空間を沢山内包している京都。そして恐ろしいほど奥が深い、京都のお店。ここはもう一回、いや、季節ごとに来たい。

来られるようになる。

たん熊


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