気弱で迷うからこそ掴めるモノについて

正解はない世の中と言われているけど。いつも正しいことを探しています。どんな場所でも自分のあるべき姿はあるのじゃないか?という気がしていて。

例えばこのnote。
こうして文章を書いているといつも悩んでしまう。正解というモノは存在しないと分かっているが、どこに句読点を打つべきか?ここの段落は邪魔だから消してみるか、とか、どうすれば又吉さん・望月さん・村上春樹さんみたいな文章が書けるのかと、あてのない推敲を何日間もしている。

「まだ粘るのだ!!」
そこには今あるすべてを出す姿が正解だと思っていて、表現に正解がなかったとしても、そこには正しい姿がある。
あれも違う、これも違うと何日も足踏みをしているのだ。noteに挑む自分の姿にこそ正解があるという話しです。

でもこれって、もっと遠くの景色(世界線として)を見に行こうと思うなら間違っていると思って。キングコング西野サンや、又吉直樹さんみたいになるには、もっとドシドシ歩かないといけないと思う。
じゃないと遠くの景色は見れないのだ。
週1回の投稿ペースは守れているけど、スキもコメントもつかない。もっとミスを経験していくべきだってこと。

あっけらかんと生きていけることに憧れる。けどこれはもう生まれ持った性格だと思う。

でもだからこそ、そこに最大公約数を見つけられるのだとも思った。


不正解しかない選択だったとしても、
社会での中で
誰かに謝らないといけないときも
なにかをお願いするときだって、
このnoteを書き続けたいとしても。

「ああしておけばよかった」と足踏みをしながらも、ドシドシおおきく歩いていけばいいのだ。

気持ちが伝わるように
まっすぐな自分でいられるように
もっと進めるように
今と違う景色のために

そのすべてを取れる場所を探せばいいのだ。


慎重に、一番早く歩いていける場所を探す。

この前も、悩むことがあって、部下に仕事を振らないといけなかったときに「誠意、申し訳なさ」を付けて話すことにした。
うまくいかなかったけど、その正解のない世界に正しい姿を見出そうとしたのだ。

これだいいのだと思う。

もっともっと欲張って、今を出し切りながら、正直でありながら、まっすぐに生きていく。
正解のない世界で、あるべき姿を目指していくのだ。

さて。
ということで、正しい自分を探しに明日も会社へ行こうと思います。

この記事が参加している募集

最近の学び

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?