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No.4 映像・音声・文字の関係


長編映画のトーキー(音声付映画)は1927年に発表発表されており、今や音声は映像作品に欠かせない要素となっています。しかし、正確にいうと、映像にはそもそも欠如があったと言うべきです。

実は映像はそのままでは万能ではありません。音声のみならず、固有名詞(場所や人物)や数などを示すのには限界があり、もともと情報伝達の手段としては、欠如する要素があったというふうに私は解釈しています。

トーキー以前の無声映画、例えば有名な「戦艦ポチョムキン」などでは、欠けた要素を補うために、全面文字の画面を利用しています。記号論者の一人、ロラン・バルトは、「イメージは大海に浮かぶ船のようなもの」とイメージのあいまいな意味を語るとともに、「テクスト(文字)はその船の投錨と中継である」と述べています。
バルトの著書はこのような詩的な表現に満ちていますが、述べていることはきわめて論理的です。まあバルトは画像と映像を分けていないのですが。

すなわち、「ポチョムキン」では字幕オンリーの解説画面がなければ、作品の意味を捉えるのが難しいというのは事実です。この解説画面はトーキーの発明によって、すべてのセリフは音声が担い、BGMやSEなども使えるようになりました。一方、固有名詞などは、スーパーインポーズされた文字(テロップ)に置き換わり、今に至ります。

ところが、メッセージは同じでも、劇映画はセリフ入りの場面で構成するため、全体の尺は長くなります。一方、ニュースやドキュメンタリーは、ナレーションやテロップを多用して、場面を短縮することができるので、全体の尺は短くて済むのです。

ちなみに劇映画の脚本というのは、非常に優れたものです。例えば、主人公の名前を知るのでしょう。これは映画の冒頭場面に他者が主人公の名前を呼ぶ場面が多く入っているからです。これをわざとらしくなく脚本に刷り込んでいくのが、脚本家のすごさなんですね。

逆に、ニュースやドキュメンタリーのナレーションは、バルトの言う「投錨と中継」をうまく使いながら、端的にしなければなりません。この作業もとても難しく、昔は構成作家という専門家がいたくらいです。ビデオジャーナリストは、撮影、編集だけでなく、そういうテクニックも会得しているので、単なるカメラマンじゃないんですよ。(2023年7月24日)

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