水と怪物 第三部・前
第三部
暗闇の中で、音が鳴り響いている。大きなその音は、どこか懐かしい気すらした。嫌な響きのはずなのに、鼓膜からそこへと引き込まれるようだった。引き込まれる、というより音に呑まれる、という方が正しいか、
「胎内記憶の一種やろね、それ」
僕の感傷じみてすらいた吐露に、彼女は応えるかのように呟いた。その声はどこか掠れているけれど、比較的高めな……どこか、金属音のような印象だった。
「どういう事ですか」
「お母さんのお腹の中ってさ、ずっと音が鳴ってるんやってさ。ごおごお、って。海の音がヒーリングとして使われるのもそんな理由じゃなかったかな」
そういえば昔、赤ん坊に掃除機の音を聴かせれば泣き止むだとか聞いた事がある。ワイドショーでやってた豆知識程度の内容だけど、こんなところで繋がってくるのか。
……京都府一級河川、鴨川。深夜二時に訪れた巨大な川は、荒れていた。昨日の雨の影響らしい。僕は生まれて初めてここに来たけれど、真っ暗闇なせいでこの川の本来の姿なんて知りもしない。
「多分明日まで荒れてそう。色もさ、普段は綺麗な透明なんよ。底が見えるくらい。今は真っ茶色」
「へえ」
正直川の事に興味なんて無い。単に相槌を打たないと失礼な気がしただけだ。そしてそれに、彼女は気付いている。だからこそ、遠慮は無かった。出会ったばかりなのに。
「確かに今飛び込んだら、死ねるかもね」
強い濁流。逆らって泳ぐ事もきっと出来ないだろう、それは音だけで分かる。得体の知れない怪物のようにすら感じた。
「深いんですか」
「何、そんなんも調べんと来たん?」
どこか小馬鹿にしているかのような言い方だったけれど、事実だし仕方無かった。大人しく頷くと、彼女は実際に笑った。
「浅い浅い、ここはね。他のとこならもっと深くなるやろけど」
「そう、なんですか」
「どっちにしろ、ここを選んだ時点で多分死にきれんかったと思うよ。散々体打ち付けて、流されてる最中に他の親切な人に見つかって終わりやろ」
「そういうものですか」
「うん、そう簡単に死なせてなんてもらえんよ」
第一、と彼女は続けた。がち、と音がしたのでそちらを見るとライターを鳴らした音だったようだ。現れた灯りで、漸く彼女の顔を知った。この場所は、あまりにも暗い。煙草の先に点いた明かりは、僅かながら彼女の顔周りを照らした。目の下の隈は酷いけれど、目鼻立ちのくっきりした色白の顔だった。
「ほんまに死にたいんやったら、それこそ自殺の名所ってこの辺いっぱいあるやろ。歴史的にも血なまぐさい伝説でいっぱいよ、この辺りなんかとくに。何でここを選んだん?」
「何で、って」
「さっきの話から思ってたけど、あんたここの人間ちゃうんやろ。その中でわざわざここを選んだ理由あるん?」
記憶を、辿る。その最終地点に辿り着いたところで、僕の胃がぎゅっと締め付けられる。そんな僕の気持ちを察したのか、彼女は微笑んだ。大きな目が、柔らかく伏せられる。今度は馬鹿にしている様子は無かった。
「まあ死にたい理由なんて言いたくないわな、ごめん」
「そっちこそ、何で」
じじ、と煙草のフィルターが焼ける音。小さな音だったけれど、川の音を破るように聞こえた。
「何で、僕を止めたんですか」
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