見出し画像

三国志:悪とは何か?

いやあ、泣く子も黙る武勇伝ですね。ここの所、三国志にハマっていました。ここから劉邦に戻るという可能性もありますが、ひとまず区切りになったので、感想やらを書きたいと思います。以下にネタバレが出てきますので、三国志を読みたい人や、ドラマなどを観たい人は遠慮してくださいね。


さて、言わずとしれた三国志。後漢の末期から、晋が成り立つまでのおよそ起源後200年くらいの話です。日本では卑弥呼が出てきた少し前くらいでしょうか。魏志倭人伝とは、この三国の魏の国の書物ですね。漢という国が乱れ群雄割拠し、魏呉蜀という3つの国が立ち上がり、最終的に魏が天下統一を果たすという中国100年の歴史もの、それが三国志です。

三国志には陳寿の書いた正史という書物と、それや伝承等を土台に施 耐庵もしくは羅漢中によって物語として書かれた三国志演義があります。もっぱら、三国志と聞いて日本人に馴染みがあるのは三国志演義です。

この三国志から、最近のドラマ『三国志〜司馬懿 軍師連盟〜』と『三国志 Secret of Three Kingdoms』を二本観てみました。加えて岩波から出ている小川環樹・金田純一郎訳の『三国志』を読みました。これらの感想を書きたいと思います。

上記の3つのコンテンツの前に、三国志との出会いについて。最初に触れたのは、小学校時代に横山光輝氏の漫画とNHKの三国志人形劇を見たことです。横山氏の漫画は学校においてある数少ない漫画の一つでしたが、絵的に興味がもてなかったため未読に終わりました。また、NHKの人形劇はおばあちゃんと一緒に観ていたのですが、なんだか筋が分からなかった事を覚えています。人形はかっこいいと思っていたのですけどね。(上記の写真はその人形劇の曹操です。)
 ともあれ小学生の私には三国志は理解し難いものだったんです。なにしろ名前が馴染みがない上に人がたくさん出てきて、把握するのがツライ。だから、ずっと三国志はややこしいものとして、ほとんど触れずに生きてきました。ところが、歳をとったんでしょうね、歴史や社会に興味が出てきたことで、がぜん三国志にも興味が湧いたんです。

いきなり、本を読んでも良かったのですが、怠惰な私は映像でいいやと、ドラマを観ることにしました。古いものから新しいものまで色々あります。普通のものはつまらないなと天の邪鬼が働いて、司馬懿の話である『三国志〜司馬懿 軍師連盟〜』を観始めました。

この物語は、三国志スピンオフという感じです。司馬懿という魏の国の臣下が主役になっています。そう、いわゆる劉備たちの話じゃないんですね。軍師連盟とありますが、もっぱら司馬懿を軸にした話です。品評会で目立ったことから曹操に出仕(官職になること)を請われるという所から話がスタートします。司馬懿は曹操配下の軍師ですが、ドラマではとにかく曹操から逃げようとします。既に曹操の非情さは有名だったんですね。なので、足を自ら痛めて歩けないと示し、出仕を断るわけです。曹操には与しないという意思表示なのですが、なんやかやで出仕せざるを得ない状況になります。当時はとにかく目をつけられたら命が危ないという時代でしょうから、司馬懿も已む無く出仕したわけです。(まあ、本当の所、これすらもポーズという事も考えられるわけですが)
 ここから司馬懿の大活躍が描かれていきます。司馬家には父親と、8人の兄弟がいました。司馬懿は二番目の息子で、一番の切れ者。その彼は曹操の息子、曹丕の補佐となって様々な事象に的確に、ときに驚くような奇策で対処します。細かい話はぜひドラマを観てもらいたいのですが、知恵が働く様は探偵もののようにも見えます。そういう演出がこのドラマの面白い部分です。
 司馬懿には跡取りがいて、その子どもたちが成長し、実をいえば、晋を打ちたてる程になります。司馬炎という司馬懿の孫が、晋の皇帝になりました。まあ、流れだけをみると、曹家が漢王朝を乗っ取り、その曹家の皇帝の座を司馬家が乗っ取ったという事になります。この事が念頭にあるためか、ドラマの中で曹操や曹丕、その息子、曹叡および曹家の人々がやたらと司馬懿を疑い、殺そうと企みます。全く筋を知らなかった私としては、この疑り深い人たちは一体なんなんだろう? と思っていたのですが、後ほど理解することになったわけです。司馬懿は人生の最後に来て、クーデターを成功させました。司馬懿の人望や、権勢により皇帝を手中にし曹家を一掃したわけです。この末節によって司馬懿は狡猾な人物として記憶されることになりました。なかなかのやり手ですが、ある意味で残念でもあります。
 主演のウー・ショウポーがなかなかのはまり役で、司馬懿の狡猾さがうまく隠され、司馬懿を良き人物として昇華しているなと思いました。のちに本などで解説をみると、司馬懿は権力の簒奪者と見られているとの事。ちょっと残念に思ったのですが、司馬懿のドラマはそれだけうまい脚本でした。このドラマ、要所要所は物語的な脚色があるわけですが、筋は史実に即していました。全86話です。面白いので、三国志ファンであれば、裏側からみた三国志という感じで興味深いかもしれません。(ちなみに、ウー・ショウポーは昨年不倫疑惑で大変なことになっているようです(苦笑))

この司馬懿を観てどっぷりとハマり、一体、三国志演義では司馬懿はどうなのだろう? と思ったわけです。そこで三国志演義を読み始めました。図書館でたまたま手にとったものが岩波の三国志でした。少々ややこしいのですが金田・小川訳の三国志はいわゆる三国志演義です。全120話で8巻にもなる本です。毛本を下地に、引治本を組みわせて訳しているそうで、そのせいか、途中で雰囲気が変わる部分があります。もしくは金田氏と小川氏の違いかもしれません。文体はやや硬め、講談調なので、苦手な人もいるでしょうか。
 とにかく最初の印象は、やたらと登場人物が多いこと。ウィキによれば1192人だそうです(涙)。そして、出てきて数ページで死んでしまう人も少なくないんです。戦の物語なので仕方がないかもしれませんが、あんまりですね。それと読み方がわからなくなってしまう人物も多いです。とはいえ、大体がすぐにいなくなってしまうのであまり困ることはありません。そういう意味では、ずっと居続ける人物はなかなかすごいわけですね。
 前半部は、董卓や袁紹や袁術、呂布といった猛者たちの話ですが、曹操が現れ、劉備が現れ、孫権が現れという流れで物語が展開していきます。司馬懿はというと、実のところあんまり出てこないです。最後になって、司馬懿の子どもたちが目立つという感じでしょうか。やはり三国志演義は劉備や孔明推しです。神通力のような過剰な演出は殆どが劉備たちに関連していました。特に関羽の記述は違う物語かと思うくらいに、少々やり過ぎた感じです。
 戦闘のシーンなど、徐々にワンパターンになってきます。一騎打ちのようなものはただのお話だったのかもしれません。読んだ印象からいえば、武力で一番強いのは、呂布。次に関羽や趙雲、馬超、続いて張飛、許褚や典韋あたりです。一方で、軍師はといえば、諸葛亮と司馬懿、周瑜、陸遜です。というか、曹操は十分にこの辺りに匹敵しそうです。ちなみに三国志演義だと、曹操は数回ほど死にかけています。劉備も危ない時がありました。そういう意味では、運も大事なのだなと感じます。

 曹操が悪役というイメージでよく語られますが、三国志演義の雰囲気はそこまで悪という感じでもありません。とりわけ前半部は、漢王朝を支えようと奮闘しています。軍の統制に関しても、厳しく行っていてストイック感があります。むしろ、順当に権力を手中に収めていったという出世物語にも思えます。まあ権力を手中にすると好きにやりたくなるという意味では曹操も俗人です。逆に、劉備の方が、どこの馬の骨ともわからない感があります。アウトローなんです。そしてやたらと清廉潔白なんです。人を出来る限り、傷つけないように、礼を欠かないようにします。それがゆえに野心が足りず、蜀を作り出すときも危うく遠慮してしまう所でした。もっとも礼儀を重んじるのが劉備だったわけです。
 なんで魏が勝ったのか、私が思う理由を考えてみます。まずは漢王朝を手中にしたことでしょう。人々は平和を求めます。その時に大義が成り立つには、なんらかの物語が必要であり、王朝とはまさに物語になるわけです。傀儡とする事で曹操は大手をふって武力を駆使できました。曹操に王朝の庇護を進言した荀彧は本当に良い参謀だったわけです。一方で、この虎の威をかった事や傀儡にしたという事自体が世間によく思われません。卑怯なやり方にも見えるわけですね。次に、曹操がコンプレックスをもっていたことです。彼は宦官の養子でした。名家や名士といったコネを持つ人々に対して劣等感があったはずです。それが故に、家柄より能力主義を採用することになりました。縁故などではなく、実力によって職務に当たらせたわけです。よって敵方であっても才があれば味方に引き入れ相応の処遇を与えました。曹操は意外にも懐が深かったといえます。この曹操の態度は、曹丕時代の九品官人法につながっています。これは人材登用を豪族の出であるというような事ではなく、実力に応じて人を採用するという手段でした。このような処遇の良さは魏を強くした要因だと思われます。時代が流れていくと結局、世襲主義になってしまうわけですが。第3に、用心深さがありました。これは言い換えれば、曹操の非情につながっています。疑わしきは追求します。危険な人物は切って捨てます。また徐州のジェノサイドは有名ですね。家族を殺されたことや、陶謙排除のため、その背後の人々を根絶やしにしてしまいます。ですが、これがために後々まで曹操は天下統一を阻まれます。徐州に関わる人々たちは、曹操を恨み続けていたため、事あるごとに曹操に反旗を翻します。まさに因果応報というべきでしょうか。

曹家が司馬家によって滅んでからは、軛がはずれて、あっという間に蜀と呉を平らげてしまいます。ここに天下統一が果たされるわけです。

曹操の話を読んでいて、常にアタマに現れる人物がいました。それは「ラオウ」です。ラーメンじゃないですよ。北斗の拳のラオウです。北斗の拳が三国志的なテイストを持っている事からいって、ラオウのモデルは曹操だったんでしょう。人々を恐怖によって支配するという方法で、集団を束ねたラオウ。そのラオウは愛を説くケンシロウに敗れてしまいます。もちろん物語なのでいかようにもなってしまいますが、恐怖によって人を支配する体制はいずれ崩壊するといえます。それは活力の低下を招くからです。どんなに恐怖を煽って他者を行動させようとしても、せいぜい肉体労働ぐらいでしょう。同じく、恐怖政治で思い起こすのはスター・ウォーズです。シスの暗黒卿が率いる帝国は、力で秩序を作り出します。ダース・ベイダーはそのシンボルといえるでしょう。ベイダーはそのフォースを人を罰する事に利用します。そのパワーが強大であるがゆえに、帝国は支配力を強めるわけですが、その支配力がゆえに、一部の人々から反感を買います。結局、相当な人数の人間たちをまとめあげるには、ある種の暴力性が必要だということなのでしょう。

ちなみに、劉備の言動をみていて、アタマにちらついたのは西郷隆盛です。人たらしという感じがしますね。本人に卓越した能力があるかというといささか疑問があるわけですが、とにかく人に好かれ、人に情で訴える力があるという感じでしょうか。歴史は不思議なもので、劉備も西郷も本流に敗れ去ってしまいました。義に生きるとはかっこいいけれど、結局食えないのはだめだとなる。それが人情というものかもしれません。劉備の蜀はとにかく国が貧相だった事が大問題でした。(西郷さんの終わりは西南戦争ですが、そこに至る道程はなんだか複雑です。明治維新の話は常に筋立てがはっきりしません。おそらく明治維新自体がクーデターだったからですが、それを教科書に明記しない(できない)ので、良くわからなくなっているのが明治維新ですね。政治的な評価を明らかにすると困る人達が生きているという事も関係するはずです。)

さて表題に戻りましょう。そう、悪とは何かです。自分に殴りかかってくる人間や集団がいたら、通常その相手を非難しますね。そして、その行為を含め悪と断定刷ることでしょう。これは単純に理解されるかもしれません。一方で、イメージに感染した人々が思い込む悪というものもあります。直接的に相手から何かを受けたわけではないのに、悪と思うという事です。人は想像力巧みですから、簡単に悪を作り出します。それは必ずしも、道徳的な悪とは無関係だったりします。例えば、立場によって相対的に悪が生じる事が有り得ます。他者に対する取り扱いに差があれば、それは悪に転じるわけです。 要するに悪とは、本質的に存在し得ないものではないか、それがここで主張したいことです。それは善というもの同士が対立した時に生じる影のようなものではないのか。そう言いたいのです。


もし、自分が飢えていて、周りも飢えている。ところがごく一部の人間達が食料を囲い込み保持している、そんな状況を考えてみて下さい。そして困った多数が一部の人間たちを襲撃したとしましょう。これは悪でしょうか? もちろん悪です。と社会では言います。ですが、人として悪といえるでしょうか? みんなが困っているのに、それを見殺しにしている人々に何らかの罪はないと言えるでしょうか?

ある日、突然空爆を受けて街が壊滅した状況を考えて下さい。その時、その行為を行った相手を悪だと思うのは自然なことでしょう。そしてその報復として、攻撃してきた相手の都市に同じく空爆をしたとしましょう。その行為は悪でしょうか? いいえ、悪ではないと社会ではいいます。ですが、人としては悪ではありませんか? 相手もまた同じ様に平和な日常をおくっていただけです。その人達の頭の上に爆弾を落としていいという理屈など、あるわけがありません。

この2つの乖離は、個人つまり人道性の問題と、集団つまり国の問題という2つの階層性によって生まれたものです。人間は、個人の思想と集団の思想の狭間で、葛藤を抱えています。

曹操を含め歴史上の人物で大虐殺を行った人々は数知れません。彼らの所業を許せないと思うのは個人的な人道性であり、宗教的であり、社会化された人間の素直な反応です(例外的な人々もいるのは承知しています)。しかし、彼らにも目的がありました。それは、敵対する人間を支配するという道理です。自分達に抵抗されると認識した相手はでした。その相手を屠ることに躊躇しては自分たちが危ないかもしれません。この恐怖こそが、虐殺を生み出します。簡単に言えば、虐殺を繰り出す人間たちは「怯えている」のです。心の弱い人間や他者を信用しない人間だからこそ、虐殺を用いて支配を試みます。
 歴史はこのような心理をアリアリと語ってくれます。相手を信用するには強い心が必要です。それは相手が裏切ることも含めて、相手にするということです。見かけ上、ただ呑気な人と、考慮の上での信頼には差がありませんが、他者を信用できるかどうかは、常に大きな問題として人類に降り掛かってきています。そして、多くの場合、その不信は自らの思い込みで発生します。

人は始めから凶暴に生まれてくるわけではありません。どこかで恐怖との対峙を重ね、その経験から残虐性を身に付けるわけです。それは動物たちの闘争か・逃走かという低次元の行動と何も変わりません。ですが、あまりにも体験は強く心に作用します。結果として、他者を信用しない人間が生まれ、そのような人間において集団が維持されています。そして支配者の立場は常に残忍になるように仕組まれています。すごく簡単に言えば、嫌な人間じゃなければ人を支配するような行為に耽っていられないという事です。
 およそ、もっと身近な会社等でも同じことでしょう。他者を支配する人間には、どこか人間不信があります。嫌なやつほど出世する、そんな事が往々にしてあります。そういう意味では可哀想な人たちとも言えます。
 ですが、そういう人たちに振る舞わされる人々は、そんな悠長なことは言っていられません。横暴な支配者は常に出現します。それに対して必ず抵抗勢力が現れます。それは横暴さの裏返しです。他者に横暴に振る舞うことで支配できる代わりに、対価として、嫌われ、常にその身を危険に晒します。自業自得なのですが、それでしか大きな集団は束ねられないというのが人類の性ではないか、そう考えられます。

私達も例外ではありません。道徳性とは後天的に身に着けた社会化によるものです。その道徳性の核には何があるのでしょうか? いきつくところ、宗教では罰として地獄行きを宣告されます。社会では刑罰が待ち受けています。それは明示的な刑罰以外に、村八分やいじめといった形で表出されることもあります。社会化とは、その恐怖を避ける行為でもあります。道徳が素晴らしいものという観念は、ある種の信条であって普遍な事柄ではありません。人類がそのように振る舞う事には一種の均衡性があったからです。合理的な振る舞いとしての道徳なのです。その意味では、恐怖による支配を我々もそれと知らずに受けていると考えるのが妥当です。

私達は簡単に自己投影します。自分が怯えている時、他者の中に憎悪や敵愾心を見出します。それが真か偽かは不明なのです。敵が多い人はこの投影が激しいわけですが、本人にとっては身を守るためのまっとうな手段と言えるでしょう。およそ、慎重であった曹操もまた猜疑心が強かったのではないかと思います。そして、それが故に、沢山の抵抗にあいます。

このような信条は21世紀の人間こそ、真剣に考えなければならない問題です。未だに、軍事産業は発展し続け、他国に猜疑心をもって接しています。国という単位を動かすために恐怖を利用し、その恐怖がゆえ、人々は不本意な行動を強いられています。国というのはただの制度であり、人の頭の中にしかない概念です。私達はただ、人類として地球に生まれてきたに過ぎません。その人類が互いに争い、命の奪い合いをするような行為にかまけて死んでいくなど、不毛そのものです。
 残念ながら歴史からいえば、人は目の前に残忍性が現れるまで、事の重大性を理解しません。本当はできるはずなのにです。悪や敵とは、私達が生み出したものです。今の所、人類はこれを克服できるほど賢くない。そういう事かもしれません。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?