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都会っ子の人生を変えた初めての一人旅|南米チリ🇨🇱

人生の転機は、突然訪れた。

27歳の春、私は南米チリ・サンティアゴへ飛び立った。それは人生初の一人旅だった。

前年の秋にDJとして来日していたチリ人男性と知り合い、私は恋に落ちた。
出会ってから半年後、私はその彼と再会するため、チリへ飛んだのだ。

後々の人生を大きく変える転機になったチリ生活から学んだことを振り返ります。



脳内アップデートの大転機、チリ人との出会い

DJとして来日していた彼と出会い、一緒に過ごした時間はたったの4日間。ビビビッてやつ。そこから数ヶ月の遠距離恋愛が始まった。

愛に支配された人間の行動はたくましい。(笑)
渋谷生まれ渋谷育ちの、衝動的だけどノミの心臓を持った箱入り娘(私)が、地球の裏側へ行くと言い出すのだから。

今思うと、この男性との出会いは脳内アップデートの大転機だった。

高校時代から英語を使い始めた私だけど、メールやFBで英語を使うだけで、話すことは苦手だった。膨大なボキャブラリーを蓄積しながらもアウトプットをする場所がなかった。それがこの男性と出会ったことで必然と英語を話さざるを得なくなった。そうしないと単純にこの人と会話ができないからだ。

"話してみる→伝わってる→会話になってる→すごい!楽しい!"

このアハ体験であり成功体験ともいえる脳内アップデートを経て、私は一人でチリへ行くまでもの勇気を持てるようになった。
出会いの素晴らしさはこういうことだなと改めて思う。相手がいることで引き出される、眠っていた能力。

将来的に彼と一緒に暮らすことを視野に入れて、まずは2ヶ月間チリで暮らすことになった。インター(インターナショナルスクール)の友達たちは、私の一人旅を興奮して喜んでくれると同時に、海外生活で気をつけるべきことを細かく教えてくれた。私は文字通りの都会っ子。まぎれもない海外旅行初心者だった。

シドニー乗り換えでチリ・サンティアゴへ向かう飛行機の窓から

街をただ歩いているだけで目立ってしまう自分

日本の外に出てしまえば、私は外国人。チリ国内に日本人の駐在員さんはまぁまぁいたけど、私が住んでいたのはローカルエリア。このエリアでアジア人として暮らすことはとても目立つことだった。

常に、なぜここにアジア人が歩いているんだろう?という眼差しで見られる。初めてアジア人を見るような目でじっと見つめてくる子どもたちもいた。だから一人行動は、時間と場所をちゃんと考えなければいけなかった。

チリに着いてすぐのある日の平日に、彼の妹と公園に行った。それを彼に怒られた。平日の公園は人がいなくて危ないから行ってはいけないと。平日の公園が危ないという発想がなかった私は、日本では当たり前の行動も海外では危険な行動になり得ることを知った。

チリの国樹・Araucaria(アラウカリア)と私

人生の中で、こんなにも自分の存在が目立つという経験をした時間は無かった。何をどうしても人の目に晒される、隠れられない身。
だからこそ、自分で自分の身を守る方法を知らなければいけなかった。
夕方5時までには家に着かなければいけない。もしも5時を過ぎるなら、フードを被って颯爽と歩いて帰らなければいけなかった。もちろんどんな時間でも歩きスマホなんてできない。

ただ歩いているだけで目立ってしまう。だけど彼らは私をアジア人と思うだけで、日本人と思うわけじゃない。

そもそも日本人がここにいると思っていないし、聞かれるとしたら「中国人?」違うと答えると、「じゃあ韓国人?」中華スーパーへ行けば中国語で話しかけられ、韓国スーパーへ行けば韓国語で話しかけられる。

そんな国籍のたらい回しのような経験を通して気づいたのは「私は日本人なんだ!」という強い感情。生まれ育った場所を認識してもらえないのはとても嫌なことだった。初めて気付いた自分のアイデンティティ。私、こんなに愛国心のある人間だった?

サンティアゴの近所に咲いていたブーゲンビリア

逆に日本人だということで、日本のことばかりを聞いてくる人も多かった。私に興味があるんじゃなくて、日本に興味があるんじゃん… そういう人はただのエネルギーヴァンパイヤなのでとても疲れた(悪気がないのは分かっているけど)。私は日本人だけど、日本ではないから。

そんな人たちを通して、私は自我と向き合っていた。承認欲求というのかな。自分という存在の正しい認識を求めていた。
チリでのアイデンティティクライシスを通して、恐らく初めて、自分は日本人なんだと強く認識できた気がする。

サンティアゴの街

でもネガティブなことだけではなく、日本にはないチリの素晴らしさもたくさんあった。ちょっと悪そうに見える若い子でさえ、電車やバスでは、お年寄りや体の不自由な人や子連れの人にすぐに席を譲る。身体の弱い人に優しくするのは当然という心遣いが常にある。これは日本の光景ではあまり見られないこと。

治安の良さと優しさはイコールではないことに気づくとともに、日本人として残念に感じることでもあった。

どこに行っても野良犬がいる

食生活にも大きな気づきがあった。都会っ子を言い訳にしたら他の都会っ子に失礼だけど… ホットケーキはホットケーキミックスで作るものだと思っていたし、めんつゆは買うものだと思っていたし、納豆が作れることも知らなかった。

ほとんどのお料理は商品に頼らずに作れるということを知らず、当たり前に加工品を使っていた。自分で作れるんだ!と分かってからは、スーパーマーケットではなく市場まで足を運んで、新鮮な食材を選び、加工品を使わない料理を心がけるようになった。

それはとても健康的で、実験的でもあった。日本で買っていたものをどこまで自力で作れるか、料理はアイディアが生まれる楽しい時間。
捉え方が変われば、どんなことも楽しめる。

こんな面倒なことをしてみた自分が今では信じられない
市場でバナナを吟味する私

楽でも便利でもないチリ生活から学んだこと

言語は英語でもなくスペイン語だし、市場までは徒歩20分かかるし、一人の時はレイバンのサングラスすらかけられないし、正面からジプシーが歩いてくる時はかなり緊張だったし、日本という安全な場所から出てみたら、それまでの当たり前は何も当たり前ではなかった。だけどそのおかげで、私は人間力を高めることができた。

チリ生活を通して、日本に生まれ育ったことがいかに恵まれていたかを理解することができた。それとともに、日本にいるだけではグローバルな人間力は育たないことを知った。幸せなことだけど、日本は平和すぎるから。

最初は本当にツラかった。せめて英語圏であればよかった。言葉が伝わらないこと、日本語が話せない切なさも想像していなかった。だけどチリでの経験がなかったら、今の自分は存在していないとさえ思える。日本を飛び出したことで、日本を客観的に見れるようになった。世の中で起こることに対して自分の考えを持つようになった。世界で起こることが自分事になった。

チリで学んだことは、日本に住む今でもずっと活きている。クレジットカードの暗証番号を入力する時は絶対に反対の手でカバーするし、バッグやパソコンを置いて席を離れたりなんて絶対にしない。日本にいてもどこにいても、自分の身を守るのは自分だから。

コンフォートゾーンから飛び出すことで人間は成長する。

海も山も嫌いだった都会っ子の私を、人間として成長させてくれたチリ。
地球の裏側に自分が成長した歴史があるなんて、人生って面白い。

好きなお花がたくさん増えたのもチリが始まりだった

Nana.

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