きっと『政治学』を読まないとわからない『アリストテレスの世界観』
前回はアリストテレスの「二コマコス倫理学」第9巻 愛(フィリア)について続き を読みました。最後の第10巻は幸福論の結論です。幸福に焦点を当て、人間にとって最高の善とは何かというアリストテレスの哲学的探究を深く掘り下げます。幸福に関するアリストテレスの言説は、徳、魂、人間生活における理性的活動の役割に関する彼の見解とニュアンスが深く絡み合っており、『ニコマコス倫理学』第10巻は、幸福の本質とその達成方法に関するアリストテレスの考えを集約しています。
最高善としての幸福
アリストテレスはまず、幸福は人間が目指す最高の善であるという前提に立っています。それは自己充足的であり、すべての人間の行動の最終目標です。富や名誉や快楽とは異なり、幸福はそれ自身のために選ばれるものであり、他の目的を達成するための手段ではありません。そのため、幸福は人間生活の究極の目的であり、倫理的行動を理解する鍵となります。
徳の役割
アリストテレスにとって、幸福は徳と密接に結びついています。アリストテレスは、幸福な人生とは徳に従って生きることであるとしていまする。徳とは、魂の理性的な部分に根ざした、両極端ではない中庸です。それは単に正しい感情を持つことではなく、他者との関わりや個人的な選択において積極的に美徳を実践することに関わります。したがって、徳のある人とは、理性に従って行動し、生活する人であり、それによって幸福が達成されるのです。
知的美徳と観想的生活
アリストテレスは第10巻の終章で、倫理的な行動を支配する道徳的徳と、心の生活に関わる知的徳とを区別しています。知性の徳の中でも、アリストテレスは観照的生活に関わる知恵(ソフィア)と理解(ヌース)に優先権を与えています。アリストテレスによれば、幸福の最高の形は、現実の根底にある原理を理解しようと努める心の活動である観想(テオリア)にあります。
観想が人間の活動の最高の形であるのは、それが最も継続的で、純粋な形で最も心地よく、最も自足的だからです。他人の認識や外的状況に左右される名誉や富の追求とは異なり、基本的な欲求が満たされれば、外的な財を必要としません。このように、観想の生活は、神のそれに最も近い活動であるため、人間が送ることのできる最も神聖な生活なのです。
観想生活の実践性
アリストテレスは、観想生活は最高の幸福の形ではあるが、すべての人が達成できるわけでも、すべての人に適しているわけでもないことを自覚しています。彼は、人間生活における幸運の役割と外的財貨の必要性をある程度認めています。しかし、最高の幸福は、徳に従い、可能な限り思索的な人生を送ることにあると主張しています。
アリストテレスにとって、すべての人間は幸福になることができるが、それを達成する程度は、徳に従って生き、理性的な活動に従事する能力にかかっています。このことは、快楽の享受や社会的義務の遂行を排除するものではなく、自分の人生の質と善への志向に重きを置くものです。
幸福と社会
アリストテレスは、幸福を促進する社会と国家の役割についても触れています。アリストテレスは、国家の役割は、法律や教育を通じて高潔な市民を育成することであり、個人が幸福な人生を送るためには高潔な社会が必要であると主張しています。これは、彼の倫理的考察と政治理論を結びつけるものであり、個人の幸福は共同体の健全さと美徳から切り離すことはできないことを強調しています。
アリストテレスの『ニコマコス倫理学』第10巻は、人間生活の究極の目標としての幸福についての包括的な見解を提示しています。アリストテレスの哲学は、幸福とは単に快楽や外的な成功のことではなく、理性と徳と調和した生活を送ることであると示唆しています。アリストテレスは、人間存在の現実が課す課題や限界を認めつつも、人間的でありながら向上心に満ちた幸福のビジョンを提示し、善き人生の追求に倫理的行動の根拠を置いています。
アリストテレスの主張への疑問
アリストテレスは『ニコマコス倫理学』第10巻で、知識のない若者は法によって行動が方向づけられない限り、良い大人にはなれないと主張しているが、これは市民の美徳を育成するポリス(都市国家)と法の役割に関する彼の広範な哲学的見解を反映している。この視点は、個人を倫理的行動と共通善へと導く法的・教育的枠組みの重要性を強調している。しかし、このアリストテレス的主張と人間が本来持っている創造性との関係を考えるとき、構造と創造性の相互作用、個人の成長やイノベーションを促進または阻害する法律の役割、社会的文脈における「良い」大人とはどういうことかという定義など、微妙な議論が浮かび上がってくる。
アリストテレスの枠組みと人間の創造性
アリストテレスの哲学は、徳の育成における慣れと教育の役割を強調している。この観点からすると、法律は個人が一貫した実践を通じて倫理的美徳を培うのを助ける指導的枠組みとして機能する。構造化された法と道徳の枠組みの中で生活することで、個人は共通善に沿った選択をすることを学び、調和のとれた高潔な社会へと導くという考え方である。
批判的に言えば、この視点は、法律が提供する構造と個人が本来持っている創造性とのバランスに疑問を投げかけるものである。創造性とはしばしば、既存の規範に疑問を投げかけ、新たな可能性を模索することであり、それは時に既成の法律や社会通念に抵触することもある。この観点からすると、過度に厳格な法律や規定的な法律は、許容される行動や思考の範囲を制限することによって、創造性を阻害する可能性がある。
創造性と構造のバランス
そこで課題となるのは、個人の創造性を阻害することなく、倫理的発展を導くのに十分な構造を提供することのバランスを見つけることである。このバランスをとる鍵は、法律そのものの性質と目的にあるのかもしれない。アリストテレスが示唆するように、徳を培い、公益を促進するように設計された法律は、個人と社会の繁栄に貢献する限り、創造性が可能であるだけでなく、奨励される枠組みを提供することができる。
さらに、アリストテレスのフロネシス(実践的知恵)の概念がここでも関連している。フロネシスとは、道徳的美徳と現実の複雑な状況とのバランスをとりながら、どのような状況においても正しい行動指針を見分ける能力のことである。この実践的な知恵の能力は、高潔な個人が法と倫理に適切に導かれ、社会規範に従うことと個人の創造性を発揮することの間の緊張を乗り越えることができることを示唆している。したがって、フロネシスの発達は、有徳な生活の中で創造性を表現することを可能にする可能性があり、法と倫理は人間の創造性と必ずしも対立するものではなく、補完しうるものであることを示唆している。
徳の構成要素としての創造性
別の角度から考察すると、創造性そのものが善良な生活や徳のある生活の構成要素としての役割を担っているということになる。創造性が個人と社会の繁栄に貢献するのであれば、それはアリストテレスの究極の目標であるエウダイモニア(幸福または繁栄)と一致するとみなすことができる。このように考えると、創造性の育成は、法律によって抑制されるべきものではなく、教育や倫理的発達に不可欠な側面であるとみなすことができるだろう。
若者が良い大人になるためには法の導きが必要であるというアリストテレスの主張は、倫理的発達における構造と教育の重要性を強調する一方で、この構造が人間の創造性とどのように交わるのかについて批判的な検討を促すものでもある。創造的な表現を制限するのではなく、むしろ導く上での法の役割を考え、創造性を高潔な生き方の要素として認識することで、法、倫理、創造性の間のより微妙な関係を理解することができる。課題は、個人を倫理的美徳へと導き、充実した高潔な生活の構成要素として創造性の繁栄を可能にする社会の枠組みを作り上げることにある。
結局、彼の世界観は、政治学を読まないとわからないのではないか?それを見越したように、10巻の最後は「それでは、最初から議論を始めよう」で終わる。これには、してやられた、という感じ。アリストテレスにとってこの書物は、初めから政治学の序章の位置付けだったのだろうか。