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イタリア人の家族主義と根源的「不信の文化」

 今回は、『イタリア的:「南」の魅力』ファビオ・ランベッリ第4章 「イタリア政治の不思議な世界-カーニバルとユートピアのあいだ」です。

イタリアの右翼と左翼

 通常、右翼保守的、左翼革新的というふうに使われるが、イタリアでは異なっており、右翼は、ファシスト、自由主義、キリスト教系の政党で、左翼は社会主義や共産主義とされる。90年代初頭の政界の大再編が起こり、フファシスト的な要素が弱まり。キリスト教派と共に「国民連盟」となる。ベルルスコーニが新党を結成に、1993年に「がんばれイタリア」で第1党になった。

イタリアの政治と社会の密接な関係

 イタリアの社会は「家族」を基盤とする。そのため、その他の組織や団結は意思決定が、家族の方向と異なる場合が多く障害となることがある。イタリア人の相互理解の欠如は、「不信の文化」と呼ばれ、イタリア人の価値観には根源的な悲観主義が見られる。イタリア人の陽気さは建前で、悲観が本音であるかもしれない。多くのイタリア人にとって、「明るさ」は人を操るため、利用するために使う「一種の武器」である。イタリア人同士だと、ある程度、信用できる明るさとそうでない明るさが識別できる。なぜなら、共通の文化コードを持っているからだ。
 面白いのは、イタリア人は相手に利用される前に、相手を利用しようとする行動に出るという。この能動的な不信を「furbizia」、日本語では滑稽、利口、抜け目なさという。この元となるのは、前近代的な従属感、絶会的な権力に支配される無力感がある。ヨーロッパの中では、帝国主義、植民地政策に挑むイギリス、フランスなどに2-3世紀遅れた劣等感が消えないのだ。そのため、オペラのお蝶夫人ではピンカートンではなく、お蝶夫人に感情移入する。

新しい制度に踏み出せない家族の呪縛

 イタリアの「家族主義」を強化し続けたのは、カトリック教会である。宗教に関わる祭りや、生活習慣がこれらを存続させる文化装置として機能していた。家族の便宜を図るために、合法だけではなく、時には非合法までも合理化される。権力への不振が生み出すカーニバル、理想に憧れるユートピア、その下にある家族主義がイタリアの政治システムを分かりにくくしている。

世代が受け継ぐものは、そんなに昔のものではない

 今回の章を読んで、なぜイタリアが自信喪失、劣等感ももつのか不思議だった。しかし、偉大な古代ローマの時代の面影は、ローマの土地に残るが、生きている人を鼓舞しないのだろう。せいぜい、今生きている人には、50-70年程度の歴史しか影響を及ぼさないのではないか。
 一方、日本はどうだろうか。まだ戦後の幻想の中にいて、今の現状を理解することは難しい。この風土というか、土地、時代にへばり付くものを、自由に解釈することが、未来を生きる道なのか。

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