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ローマ崩壊の中で起こったチーズの多様化と経営イノベーション

 今回は、ポール・キンステッド著『チーズと文明』、第6章 荘園と修道院 チーズ多様化の時代だ。この章には大好物のチーズが多く登場する。面白いのは、こういったチーズの多様化が、ローマの衰退と共に起こったことだ。

ローマ初期に形作られた農業経営と大規模化

 カトーの農業論(B.C.170頃)は、小規模な家族経営の農業が大規模化する時代の農業の経営指南書だった。本の中には、例えばオリーブ農園と100頭の羊、10匹の豚の組み合わせ、9-3月には山から牧場へ降りチーズ作りをする、といった具体的なアドバイスがある。その後(B.C.40頃)、大農園に生まれたウァロは、1000頭の羊を育てるまでになった。規模が10倍に拡大した。当時の富裕者は別荘(villa)の周りの農園を奴隷に賃貸し、彼らに実務を任せた(賃貸した土地もビラと呼ばれる)。 

 カトーの時代から始まった農場の大規模化は、戦争による自営農民の減少と、それに託けた富裕者による土地占有を背景としている。その後、2世紀に入ると、ローマは地域拡大の歩みを止め、土地を耕す奴隷を得ることがなくなった。そのため、大農場は働き手不足になる。7C初期には、富豪たちは、大農場、荘園を修道院に与え、彼らが経営を担った。

安定した修道院の荘園経営と多様なチーズの誕生

 修道院は、戦争に敗れ荒廃したローマで、キリスト教が弱体化しアイルランド勢の布教の脅威の中、「祈りかつ働け」のモットーの基で、規律のある経営母体となった。そして、各地に修道院が作られた。

 温暖な地中海地方とは異なる北西(フランス方面)の冷感な気候が白黴の熟成ブリーチーズ、ウオッシュチーズを産んだ。山のチーズも多様化した。ナッツの様な風味の山岳チーズ、砕いて塩で水抜きしたカンタルチーズ、パルメザン。洞窟では、青黴のロックフォールチーズが生まれた。

 その現場には、女性が重要な働き手としていて「乳搾り女」と言われた。彼女らは、受け持ちの仕事をする技術者であると共に、信頼がおける現場の監督官でもあった。また、娘世代に技術を伝えていく伝道師という役割を担った。

多様化の時代から分化と大量生産・生産性向上へ

 荒廃した時代に規律のある共同生活で生き抜いた荘園は、繊維製品、乳製品の工場を管理し経営の役割に焦点を移す。そこで徐々に家族経営から、個々の寄せ集めのコミュニティ経営を経て、専門家の経営者による大規模農園へと姿を変える。

 チーズは、水分調節の技術の発展により、大きな8kg程度のものが現れた。また、嗜好品としてのニーズを満たすロックフォールのような人気チーズは、産地指定のブランド品へと変化した。羊のチーズと羊毛の畜農は、分化し専門的・大規模化していった。その結果、その生産物は地産地消から市場経済へ流れ込んだ。その中心となったのは、アントワープ、船の貿易都市だ。その頃アントワープは、ノルマンディとフランドルを繋ぎ、ヨーロッパ各地の産物で賑わったのだろう。それとともにその時代には金融制度が整いつつあった。

奢侈な生活を可能にした生産と経営イノベーション

 新石器時代B.C.5000年頃に発明されたミルクの凝結、チーズの誕生から6000年経ち、人類はミルクを飲める様に体を変え、生産のプロセスイノベーションを起こした。その中で、地域の自然環境と融合した多様なチーズが生まれた。

 このような生産のイノベーションと共に、マネージメント技術が誕生した。B.C.170頃のカトーの農業論に始まり、農業経営の書籍によって、経営システムや管理技術が広まった。また、修道僧ベネディクトが目指した人間生活の規律は、従業員の仕組みとも言える。家族経営から共同コミュニティ経営を経て、経営の専門家が登場し、市場交換に十分な量の生産が可能になった。この生産性向上が、当初は捧げ物で手の届かなかった高価なチーズを、私たちの暮らしを彩る奢侈のシンボルにしたのだ。

 次に登場するイノベーションは資本主義の基礎である市場経済だ。船での貿易事業の繁栄と共に、地の利で世界の表舞台に立ったのがアントワープだった。次の章は、イングランドとオランダの明暗、楽しみ!


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