『浴室』
1985年、パリで発表された作家J.P.トゥーサンのデビュー作。日本では1990年に翻訳された。
読み終えてまず感じたのが、僕が初めて村上春樹を読んだ時の感覚と似ている、ということだった。僕が村上春樹を初めて手にしたのは17歳、『ノルウェイの森』。1987年のことである。
小説のすべてに、パスカルの影響が覗える。「些細な事が我々を慰めるのは、些細な事が我々を苦しめるからだ」そんな日常を描いている。退屈な、あるいは惨めな日常から抜け出すには、気を紛らわすことだとか。ところが人は、必ず来る死に向き合い、苦しむ。逃れようとして何かを成し遂げたとしても、醜く争い、滑稽にもがき、やがて無に帰す。人はどうすれば幸せになるのか。人はどうすれば争いをしなくなるのか。実存主義的な、際限のない思考がただそこに、横たわっている。
それを28歳の作者は、若々しい感性で、繊細な筆致で書き上げている。まるで爽やかな風が、重苦しい部屋を、吹き抜けたかのように。
ちなみに日本にもファンが多いフランスの小説家、マルグリット・デュラスの『ラ・マン』は1984年に発表されている。彼女は、映画監督や脚本家でもある。なるほど、たしかに『浴室』は、フランス映画のようだった。
1980年代、僕は多感で繊細なガラスの十代。些細な事で傷つき、考えることが好きで、まるで『浴室』の主人公のように生きていた。なぜ生きるのがつらいのか。だから夢中になれるものが、僕にはたくさんあるのだろう。まるで行き急ぐかように。そして自分が、自分より貧しい世界中の子どもたちが、今日よりも明日、幸せになると信じていた。なぜか。考えていたからだ。死までの時間が長く、考える時間が長いというのは、それだけで幸せということになる。
だが21世紀も20年が過ぎ、僕は50代になる。あれからずっと考えて、やっとわかりかけてきたことは、それでも人は、何も変わらない。むしろみんな、不幸になっている。その予感が、象徴が、AIだ。考えることを、人は止めようとしている。不幸への暴走が始まろうとしている。いや、とっくに始まっていたのだ。まさに人の、認識の問題である。誰にも止めることができない。
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