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第1話「6月の日曜日」

2023年6月4日の日曜日、僕はチェロを抱え、仲間と一緒にホールで演奏した。
大勢の人前で楽器を演奏するのは、子どもの頃のピアノの発表会以来だろうか。1ヶ月前に、フラメンコ公演の本番があったので、舞台に立つこと自体で緊張することはなかった。それでも僕にとってきっと、この日は大きな意味を持つことになる。そう思うと、舞台袖で出番を待つ間、何度も武者震いをした。
ちょうど1年前の6月4日は土曜日だった。その日、成田で15歳の長女の旅立ちを、僕たち家族は見送った。あの日、あの吸い込まれそうな青い空を、今でもはっきりと思い出せる。やがて記憶は薄れるかもしれないけれど、あの苦しみはけっして忘れないと思う。そしていつかあの日が、素晴らしい日だったと思える日が来る。だがそれはまだ当分、先のことだろう。だからこそ、胸に大きな穴がポッカリと空いたあの翌日から、この物語を始めよう。

2022年6月5日の日曜日、妻と次女はいつものように、朝からNHK放送センターへと向かう。僕はこの1日をどう過ごしていいかわからず、数週間前にたまたまFBの広告で見かけた、サントリーホールで開催される「チェンバーミュージックガーデン」のチケットを買っておいた。
マチネというのがいい。明日から仕事がまた始まるのに、夜出歩きたくなかった。コロナ禍ですっかり都心に行く機会は減っていた。日曜の午前中は人出が少なく、出迎える濃い新緑が心を湿らせてくれる。六本木一丁目駅から、アークヒルズへ向かう道も、久しぶりだった。コロナのせいだけではない。僕は父親になってからいろんな意味で余裕がなく、サントリーホールからすっかり足が遠のいていた。
ずいぶんと早く着いて、カラヤン広場のテラス席でスパークリングワインを飲む。梅雨空で視界が灰色に霞む中、華やかに着飾って開場を待つ人や、いつもの日曜日と変わらずに普段着で散歩をする人を、ぼんやりと眺めていた。ここはもともと在日外国人が多いエリアで、マスクをしていない人も多い。僕はといえば、少し場違いなカジュアルな格好だった。何か鮮明な目的を急に見失ったような、今どうして自分がここにいるのか、自分でもよくわからないでいるような。なんとなく若い人が多いかもしれない。そのせいか、僕が浮いて見えることはなさそうだったが、僕が誰よりも沈んで見えていたのではないかと思う。コンクリートジャングルに迷い込んだ、老猫はきっとこんな気分に違いない。
勘定を済ませ、思い出したようにすぐそこにある目的地へ、ゆっくりと僕は歩き始めた。



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