僕と音楽の出会い
父と母は、母がオーナーだった喫茶店のような飲み屋のような店へ、父が何故か知らないが黒人とはじめて店に入り「オレは外人連れてんだゾ」と言わんばかりの態度に激情した母が、父の入れたばかりの当時”だるま“の愛称で親しいサントリーオールドを、厨房に「どうだ!あんたのような人間が来る店じゃないんだよ!ここは!」と言わんばかりにキッチンに流し込み、さらに塩を撒き強制退店させたことがきっかけで、2週間後に結婚したなかなかロックな夫婦である。
因みに母の結婚の条件は「毎日ビール1ダース飲めること」所謂、アルコール依存性である。
母の出身は、東京の下町で幼少期から中学時代までは僕の祖父の故郷である秋田で過ごしていたそうだ。母の性格はよく言えば、きっぷが良くて度胸がある。悪く言えば、口と手が早い。
父がまた、そんな母を涙させる昭和の男である。
そんな我が家、僕のアルコールデビューは3歳であった。
アルコールは当然毎晩飲むわけで、冗談半分で父が僕に飲ませた所、踊り出し近所のスナックへ連れて行くと、周りの客も大盛り上がり。何と3歳児が当時よく耳にしていた細川たかしの「北酒場」を歌ったそうだ。
挙げ句の果てには、ビールを懇願する様になり「これはまずい」と両親がアルコールを止めたそうだ。
そして僕はアルコール依存性へと一歩踏み出す事となる。アルコールの話はここでは割愛することにする。
酒の席に歌は付き物。小さな頃から昭和歌謡をこのようにして触れて来た僕が、音楽に衝撃を受けたのは15歳、高校1年生のある地方番組だった。
神奈川県近くの町に住んでいた僕の家では、テレビ神奈川(TVK)が受信可能で、ある日部活が終わり家で何となく見ていると「ビデオ星人」と言う、当時一部の若者でブームだった「メロコア / ハードコア」を中心に様々なバンドを紹介している番組が放送されていた。日本で言うと「ハイスタンダード」がその当時の代表的なバンドであっただろう。
当時特にメロコアは、スケーターとセットのおしゃれな扱いで、音楽は好きなジャンルだったが、どうも好きになれなかった。ところがである。その日、イギリスのメロコアバン「China Drum」の「fall back into place」のPVを見た瞬間、今までのチャラチャラしたメロコアのイメージが吹き飛んだのである。
音楽ってこんなにかっこいいんだ!
自分でChina Drumのような曲を作りたい!
でも、どうやって?
もともと父が、大学の吹奏楽部でトランペットを吹いていたり、飲み屋に当時よくいた、1曲数百円で弾き語る「流し」から何故か貰ったと父が言い張っているクラシックギターがあったりしたこともあり、音楽を始めるきっかけが、この瞬間に揃ったのである。
音楽と僕は、切っても切れない関係だ。
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