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苦しいことを楽しめるようにするコツ

ぼくは今年の6月から、プロボクサーを目指してボクシングジムに通っている。この4ヶ月間で、苦しさに対する考え方が大きく変わった。

ボクシングを始めた当初のぼくは、できるだけ苦しい思いをせずに強くなりたいと考えていた。

苦しさは成長のために支払わなければいけないコスト、同じ目的を達成できるなら苦しさは少ない方が良い、と。

でも今は違う。「苦しさ」がなければボクシングの魅力は半減する。

ボクシングの苦しさには快感が同居していた

あるとき、ボクシングをやっている時の苦しさについて、改めて考え直してみたことがあった。

ボクシングで苦しいと思う時の感覚は
「肺のキツさ、手足の重さ、身体の痛み、興奮、爽快感、生の実感、頑張っている自分への酔い」などに分解できる。

「苦しさ」というとマイナスしかないように聞こえるけど、よくよく考えてみると、実際にはプラスとマイナスが複雑に入り混じった状態だった。

そしてこの感覚を体験するには、健康なカラダ、トレーナーや対戦相手をはじめ、いろいろなものが必要になってくる。そう簡単に味わえるものではない。

この視点を手に入れてから、苦しいときに「この苦しさを思いっきり味わおう」と思えるようになったし、圧倒的にがんばれるようになった。

スポーツに限らず「苦しい」と感じるときには、
「ただ苦しいだけなのか」「楽しさや興奮は含まれていないのか」「それを味わうにはどれくらいのコストがかかるのか」などを考えていくと、その状況を楽しめたり、今まで以上にがんばれることがある。

「苦しかったけどいい思い出」の正体

過去をふりかえって「苦しかったけどいい思い出だなあ」と感じることがある。そう思えるのは、その時間がただツラかっただけでなく、苦しさの中に楽しさが含まれていたからだ。

苦しかったけどいい思い出は、例えばスポーツなら
「苦しい練習(-)と勝利の喜び(+)」
で構成されていると思いがちだけど、実際は
「シンドいけど興奮や充実感を味わえる練習(+)と勝利の喜び(+)」
であることが多い。

ぼくにとって少年野球も高校サッカーもそうだったし、分野は違えど、初めてのインターンシップや初期のプログラミング学習もだいたい似たような構造だった。

「かけがえのない苦しさ」と「ただの苦痛」を区別する

一方でぼくは「全ての苦しさはとらえ方次第で楽しめる」とは1ミリも思っていない。

「マイナス99プラス1」みたいなハナシにならないレートの苦しさは(乗り越えた先のリターンを考慮しながら)可能な限りへらす方向で動いた方がいい。

「苦しかったけど良い思い出」を持っていると、つい苦しいことでも頑張ってしまいがちだ。でもその苦しさの中にプラスの要素がほとんどないのなら、そんなものは単なるコストでしかない。

「苦しい」と感じた時には、その苦しさの構成要素を考えてみる。
それが「かけがえのない苦しさ」ならしっかり味わい、「ただの苦痛」ならへらす努力をするように心がけていきたい。

最後まで読んでいただきありがとうございました!