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【お茶と文学-インド編】チャイとタゴール『ギーターンジャリ』

忘れた頃に再開する、コロナのせいで海外旅行に行けないので「もし世界一周をやるならこういうルートでやるんだけどな〜」とスカイスキャナーを駆使して妄想しつつ、旅先の文学と料理(が作れないので飲み物)を楽しもうという自分内企画第3弾。

初回は韓国、第2回目はチベットと来て、「普通に効率悪くない? 航空券高くない? 世界一周でこのルートはなくない?」って感じになってきているが、そこはいいの妄想だから。というわけで今回は、チベットのラサ・クンガ空港からインドのニューデリー空港に降り立ったという設定でいきたい。ちなみにスカイスキャナーによるとこのルートはお値段約15万円、飛行時間はトランジットを含めて20〜24時間。ち、地図で見たら近いのに。普通に行くの大変じゃねーか。政治的な理由からでしょうが、チベットからインドに直接は行けないのね。中国経由で行かないといけないのね。このへんのアジアの歴史、もっと勉強しなきゃな〜と思う。

日本→どこかの外国の都市っていうスタンダードな海外旅行は、私も何度もやったことがあるしそれもぜんぜん楽しいのだが、外国の都市→外国の都市っていう移動はやっぱり面白い。ヨルダンからイスラエルに入国するのは簡単だけど逆ルートはめちゃ複雑で面倒だとか、パタゴニアを移動するときはアルゼンチンとチリの国境をジグザグまたぐのでその度にバスを止められてパスポートチェックされるとか。「国境」がいかに恣意的なものであるか身をもって実感するし、それはつまり、”私たち”と”あなたたち”を隔てる「分断」や「境目」もまた恣意的なものなのだろう、と気づかされる。まあ海外旅行など行かずしてその感覚を体得している人もいるのでしょうが、私はやっぱり外国の都市の移動で、そういうのを実感する。だから、やっぱり海外旅行って面白い。

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(野犬がウロウロしていて超ビビるアルゼンチンのバスステーション)(レストランで食べきれなかった肉を袋に入れてもらって持ち帰ってたら野犬に追われた経験アリ)

さて、インドといえばチャイなので、今回はノーベル文学賞を受賞したタゴールの詩集『ギーターンジャリ』を読みながら飲んでみる。TazoTeaのチャイは「スタバと同じ味」とのことです。私はもう少しスパイス強めが好みなので、自分でシナモンスティックを浮かべ、それっぽさを演出。

ところでインドというと、うーん、悪いけど、「ジェンダー観において先進的である」ってイメージを抱いている人は地球上にほとんどいないのではないか。えーと、フツーに直接的にいうと、「女性蔑視観がまだまだ強い国である、女性の人権が脅かされている」ってイメージが強い人が大半ではないか。イメージっていうか、事実としてそういう面がある。

インドで起きた女性への性暴力に関するニュースって、本当に目を覆いたくなるようなショッキングな内容のものが多い。で、私はインドにおけるそういう空気感? 女性蔑視の雰囲気? って一体何に由来するものなんだろう〜? と長年疑問だったんだけど、以下のインド旅のエッセイマンガを読んだらその空気感の由来が、ちょっとだけわかった気がしたのだ。

これは決してインドにおける女性蔑視を擁護するつもりで言うんじゃないんだけど、世の中で批判されているシステムの大半って、かつては意味があった、価値があった、でも今はもう時代に合わない」って類のもんなのではないかと思うんだよね。インドにおける女性への風当たりの強さも、今は完全に時代に合わなくなっているけど、かつての大昔は「コミュニティにおける治安維持」みたいな意味があったんじゃないかと思う。あと、これは流水りんこさんのマンガではっきりとそういう記述があったけど、現代では悪の代名詞かのように言われるインドのカースト制も、もともとはやっぱり、「コミュニティをサスティナブルに保つ」みたいな役割があったっぽい。同じ階級の人と結婚するのが幸せだよ〜って、現代では唾を吐きたくなるような価値観かもしれないけど、今ほどテクノロジーが発達していなかった時代、今ほどグローバルではなかった時代のことを考えると、「まあ、そうかも」って確かに思うわな。

近年、時代はものすごいスピードで変化している。親世代が経験したことは、もう我々の世代では通用しない。我々の世代が経験したことも、もうその子供たちの世代では通用しないだろう。親世代が子供世代の仕事や結婚に口を出したら、それこそ「毒親」とか「老害」とかいわれてしまう。このことに異を唱える人はいまそんなにいないだろうから、ある意味では「10年前の常識は通用しないのが常識」みたいになっている。

だけど『雪を待つ』を読むと、こんなふうに「10年前の常識は通用しないのが常識」になったのは本当にここ30〜40年くらいの話で、それ以前はもっとゆっくり時間が流れていたのだなと感じることができる。親世代の常識は子供世代の常識としても十分通じるし、親が子供の仕事や結婚に口を出すことは、毒親でも老害でもなんでもなかった。親のいうことは長年の経験ゆえの知恵の蓄積で、親に従っていればまずまず不幸にはならない、そんな時代がまあ、確かにあったんだなと感じる。

前回書いたやつ)

で、前回のチベット文学『雪を待つ』を読んだときと似たようなことを、今回の『ギーターンジャリ』やインドのエッセイマンガを読んで思った。私自身は旧来的な「家族」や「地域共同体」みたいなものにかなり否定的な態度をとっているクソリベラル人間なのだが、「家族」や「地域共同体」を大切にすることが何より重要だった(というか、合理的だった)文化が、時代が、地域があったのは、まあそうだよなと。南米とかラテン系地域も「家族」をすごく大切にするんだよねー。

ラビントラナート・タゴールの『ギーターンジャリ』は、ちょい観念的すぎるので「すごく好き!」とは言えない詩集だったが、アジアの、あのむわっとするようなしつこい甘い香りのことを強烈に思い出させてくれる。アムリタって単語がたくさん出てくるんだけど、これはインド神話に登場する、乳海攪拌で醸造された不死の飲料だそうですよ。

この世でわたしを愛するものたちは、わたしをしっかりとつかまえておこうとする。そのいっぽうで、あなたの愛はかれらの愛よりもずっと大きくて、わたしを自由にさせている。かれらは、わたしがかれらを忘れるといけないので、わたしをひとりにさせてくれない。ところがあなたは、いくら日が過ぎても姿を見せてくれない。

祈りのときにあなたを呼ばなくても、あなたを心のうちにとどめていなくても、それでもあなたの愛はわたしの愛を待っている。

ラビントラナート・タゴール『ギーターンジャリ』(p.225)

詩集の中で、いちばん好きなのは上に引用したやつだった。ここでいう「あなた」は、すなわち「神」のことだろう。私を自由にさせてくれる、姿は見えない、だけど大きな愛を私に授けてくれる存在。

私は特定の宗教は信仰していないが、でも、こういう存在に救われることは日常のなかでたくさんある。タゴールはインド人なので、ここでの「神」はインド神話の神様なのかなーと思うが、私にとっての「神」は文学と旅行かな。「あなた」のところをまるまる「文学と旅行」に変換すると、マジで私にとって違和感のない詩になる。特定の作家や小説、特定の国や都市ではなく、文学という世界が、旅行という手段が、「わたしは世界に愛されているから大丈夫だ」という実感を与えてくれることがある。祈りのときにあなたを呼ばなくても、あなたを心のうちにとどめていなくても。

早くバックパックを背負って、ボロいスニーカーで知らない海外の都市の地面を踏みたい。あのときの心細くて死にそうな感じ、だけど無限の可能性と冒険が待っている感じ、あれ、マジでやめられないんだよな。

第4弾に続く。

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(南インド料理が食べられる「ケララバワン」のマサラドーサ。12時過ぎるとすぐ満席になってしまうので早めの時間に行くのがおすすめ)

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