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【10/19】「寂しさ」について

週2〜3回更新しますと宣言しておきながら先週・先々週の更新が見事にできていないが、まあ……。今後はゆるく、noteも月2回くらいのペースで更新していきたいと思っている。

ところで、30歳前後の独身女性向けの本を出させてもらったおかげで、「寂しさ」をテーマにコラム寄稿の依頼をもらったり、インタビューを受けたりする機会が多い私だ。

だけどそういう仕事を受けたとき、実は、なんだか読んでくれる人を裏切っているような、なんともいえない気持ちになっていることが多い。というのも、私はもともと、かなり「寂しさ」を感じにくいタイプの人間だからだ。(本のタイトルでちゃんと「寂しくない」って言ってるしな!)

●「寂しさ」を感じやすい人と、感じにくい人がいる

今では私もそれなりに人生経験も重ねたし、小説や映画で後天的に「寂しい」という感情を学習したので、「寂しい」を実感できるまでになっている。が、20代前半くらいまでは、まじで、意味がわからなかった。「みんながよく言う『寂しい』ってどういう意味?」と、友達に聞いていたくらいである。辞書的な意味は理解できても、自分の中にほとんどない感情だったので、理解が追いつかなかったのだ。

私が「寂しい」を理解できたのは27歳、スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を読んだときだと思う。主人公のニック・キャラウェイが30歳の誕生日を迎えるにあたって「30歳、それは孤独な10年の始まりだ」と独白するシーンがあり、そこで初めて「あ、この感覚のことを『寂しい』っていうのか」と学んだ。『グレート・ギャツビー』は、私的にはとても「寂しい」小説だと思う。

そのため、「寂しさを癒す方法はなんですか?」「チェコ好きさんはどうやって寂しさから抜け出すことができたんですか?」という質問がいちばん困る。癒さなくてもそんなに寂しくないし、もともと寂しくないから抜け出してもいない。まあここは、正直にいつもそっくりそのまま答えているのだが。

でも、私みたいなタイプは決して珍しいわけではない。たしかに少数派ではあるのかもしれないが、「珍しい」までいかない。感覚的にだけど、血液型がAB型の人くらいの確率で、私みたいなタイプの人間も日本社会に紛れている(気がする)。

「寂しさを感じにくいタイプの人がいるってことを知りませんでした。みんな、寂しくて寂しくして仕方ないのかと思ってました」

とは、先日仕事で知り合ったとある人に言われた言葉だ。

まあ、それはそう。いることはいるんだけど、やっぱり世の中の多くは「寂しさ」を感じやすい人たちでできている。私のようなタイプが気付かれにくい存在であることは間違いない。ここを理解してもらえないと、たぶん「強がってる」「意地をはってる」と言われてしまうんだけど、寂しさを感じにくいタイプの人間は、本当にいるのだ。

●愛されなくてもいい、認められなくてもいい

誤解してほしくないのは、「寂しさ」を感じやすい人も、感じにくい人も、他者へ依存していることは変わりないということである。

ただ、前者は「他者」がそのまま「生きている人間」を意味するが、後者における「他者」は「自分以外のもの」くらいの意味になってしまう。つまり、死んでいる人間でもいい。会ったことがない歴史上の人物でもいい。小説や映画に登場する架空の人物でもいい。もっといえば人間以外、動物や草や木や滝でもいい。

このことに気付いたのは、文化人類学や原始に近い暮らしをしている少数民族に関する本を、一時期やたら読んでいたからである。彼らは、あまり寂しそうではない。「寂しい」という感情がないわけではないらしいが、現代人のいうそれとは、微妙に意味が違っていそうだった。

「生きている人間」は、どんなに心を通わせられている人でも、自分の都合通りには動いてくれない。でも、架空の人物や自然なら、自分の都合通り……というわけではないのだが、いつもそばにいてもらえている感覚がある。寂しさを感じにくいのは私がサイコパスだからだと去年くらいまでは思っていて、それで落ち込んでもいた。でも今は、いつも一緒にいてくれる、生きている人間ではない「他者」がいるから寂しくないんだ、と感じる。「他者」は作家のスコット・フィッツジェラルドであったり、サリンジャーであったり、あるいはローマのトラステヴェレにある教会であったり、南米大陸で見た藍色の蝶であったりする。

……と書くとなんだかポエミーに聞こえると思うが、まあ、ようはひどくオタク気質なのだと思う。現実を完全に無視できるくらい、コンテンツに入れ込むことがある。まわりに認められたいとか誰かに愛されたいという欲望が、私は幸か不幸か昔から希薄だった。誰にも認められなくても愛されなくても、小説を読む機会を奪われたりしなければ、私はそんなに不安にならない。まあでも、いじめられたらやだな。明確な無視もやだな。あんまり仲間に入れないなあ〜くらいだったら別に平気。家に帰ればコンテンツがあるからね。

ただ、私は自分のこの特性をいいものだとは決して思っていない。劣等感は抱かなくてもいいが、優越感を抱くようなものでもない。だいいち、かなり先天的な部分が多くを占める特性なので(たぶん)、今さらどうこうしようがない。あと私はそもそも、「社会やチームにはいろいろな特性を持った人がいたほうがいい」という思想の持ち主。画一的な特性を持った人しかいない社会やチームは、強いときは強いかもしれないが、風向きが変わると一気にボロボロになる。すべての特性に優劣はなく、ただ状況によって、有利に働きやすいものと働きにくいものがあるだけだ。

●これからどうしようかな

私が今後やっていきたいことは3つ。

まず、「〈30代の独身女性=寂しい〉とするのはあまりにも短絡的だぞ」と世間に吠え、噛みつき、「(強がりじゃなく)寂しさを感じにくい人間がいる」ということを理解してもらいたい。それで人でなしみたいに言われたり、サイコパス扱いされたり(まあ、これは私が自分で自分にしてたんだけど)するのは懲り懲りである。世の中にはA型しかいないと思っている人たちに、AB型の人間もいるんですということを訴えていきたい。

もうひとつは、根本的な性質はたぶん変えられないと思うけど、寂しさを感じやすい人に、寂しさを感じにくくなる方法を伝えられたらいいなと思う。でもこれは無理かも。だって性質だもんね。あと寂しさを感じにくくしてしまって果たしていいのか!? みたいな根源的な問いもある。ほんと、これは優劣のないひとつの特性というか個性というか、その人のいいところでもあるのだ。

最後は、「寂しさ」「孤独」というのは小説や映画における長年のお題目なので、どの時代のどの作家がどのようにそれを描いているか批評すること。私がいちばんやりたい領域はここである。

そういうわけで、いわゆる「独身の寂しさ」みたいなのを語ることはできないのですが、上記のような方向性でよければ、お仕事お待ちしています。

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旅と文学について書くブロガー・コラムニスト。AM連載:https://am-our.com/author/103/article書籍:『寂しくもないし、孤独でもないけれど、じゃあこの心のモヤモヤは何だと言うのか』
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