表紙

【9/11、本が出ます】私が読書好きになったわけ

明日から、本屋さんに私の初書籍『寂しくもないし、孤独でもないけれど、じゃあこの心のモヤモヤは何だと言うのか 女の人生をナナメ上から見つめるブックガイド』(タイトルが、長い!)が並ぶ予定だ。それを記念して……というのは大げさだけど、いい機会なので、今日から10月10日までの1ヶ月間、noteを週2〜3で更新してみようかなと思う。

そういうわけで今日は、この本に込めた思いのようなものを、長々と語らせてもらいたい。公的なもの(?)は書籍の「はじめに」に書いたので、こちらはどちらかというとパーソナルなもの、初めて私の文章を読むのではなく、ブログやTwitterを通して何回かは私の書いたものを読んだことがある人に向けて書くものだ。

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(※ときどき謎に挿入される旅行の写真)

日々のなかで理不尽なことに出会ったとき、男は、世界を変えようとする。女は、自分を変えようとする。

さて本題。

上の言葉は、どうやら社会学者の宮台真司が言ったものらしい。といってもソースがなかなか見当たらず、もしかしたら私の頭の中で、なんか別のやつと混ざっている可能性がある。しかしとにかく、なかなか象徴的な言葉だなと思って、私のなかでは強く印象に残っているのだ。

男/女の二元論で何かを語るのはバカバカしいと私はつくづく思っているのだけど、それでもあえて上の言葉にしたがって考えるなら、自分はかなり男性的な人間なのではないかと思う。日々のなかで理不尽なことに出会ったとき、「私が悪いんだ」「私のせいだ」とは、あまり考えないのだ。どちらかというと、「世界が悪い」「世界のせい」だと、いつも思っている気がする。

これはもちろん、悪いほうに進むとかなり厄介な、邪悪なやつになるだろう。もしも時代やタイミングが合致してしまったら、カルト教団に入ってテロを起こしたり、たくさんの人が集まるパーティー会場で銃を乱射したり、連合赤軍で集団リンチに手を染めたり、私は自分をそういうことをやりかねない人物だと……思っている。今のところそういったことに手を染めずに済んでいるのは、時代と、タイミングと、運と、あとはなんだかんだで力のない女性であることも関係しているかもしれない。握力がないのでクリスタルガイザーを飲むときはいつも隣にいる誰かに蓋を開けてもらっている。クリスタルガイザーの蓋、開けにくい!

……とにかく、日々のなかで理不尽なことに出会ったとき、「私」ではなく「世界」が悪い。「私」ではなく「世界」が変わるべきだし、問題があるのは「私」ではなく「世界」だ。こういう考えが危うい方向に進むと、それは周囲への暴力やテロ、あるいはしょーもないヤフコメなどになってしまうかもしれない。だから冗談抜きで私はいつも自分のことを警戒しているのだけど、穏便な方向に進むと、それは私の場合、読書になる。

この世界はどうなっているのか。どうして私がこんな理不尽な目に合うのか。この世界に、何か致命的な欠陥があるに違いない。それを暴いてやる。なぜなら私は何も悪くないから──それで年間100冊以上本を読んだり、大学と大学院で映画の研究をしたりするのだから、私はよほどこの世界への怨念が強いのだろう。読書というと豊かな行為のようだが、私の場合はどうにもこうにも根本の動機がバカというか、貧しい。

もちろん、この説明はいくらか簡略化している。実際は、日々のなかで理不尽なことに出会っても「あ、私が悪かったかも〜。ごめんね」としくしく反省しているし、コミュニケーション能力がなさすぎて周囲に迷惑をかけている疑いがあったので、コミュ力を上げるために夜のお仕事を頑張ったりした(向いてなさすぎて続かなかったけど)(あとあんま効果なかったけど)(稼いだお金は旅行資金になりました)。だけど根本には、「私は悪くないもん」という、幼稚で未成熟な怨念を抱えた自分がいることに変わりはない。だから何かをきっかけに、軽いことならあんまり気にしないからいいんだけど、わりとシリアスに「やっぱり私が悪いんだ」という結論に至ったとき、ものすごく落ち込んでしまうし、「お前は悪い人間だ」と誰かに言われることを、おそらく私は人一倍おそれている。海外ドラマの『ダウントン・アビー』(Amazonプライムで視聴できます)で、次女のイーディスが「私は悪い人間じゃないわよね?」と問いかけるシーンに、何の脈絡もなく大泣きしたりした。信頼している人に「お前は悪いやつだ」と言われると、たぶんものすごくものすごく落ち込むと思う。

自分語りをあまり長くしたくはないので、今回出す本の話に戻ろう。

タイトルを見てもらえればわかる通り、この本は私と同じ「30歳前後の独身女性」が主なターゲットである。もちろん、わりと普遍的なことを書いたつもりではあるので、男性でも、30歳前後じゃなくても、既婚でも、いつも私のブログなどを読んでくれている人ならそれなりに楽しく? 面白く? 腹立たしく? 読んでもらえるはずだ。

本の「はじめに」でも書いたのだけど、恋愛・結婚などがテーマになると、自己肯定感だとか、だいたい「自分が悪い」「自分を変えよう」という方向に話が進み、多くはそれしか出てこないのが、私はいつも不満だった。自分を変えよう、努力しようってことは、乱暴な言い方をすると「既存のルールのなかで上手くやれ」ってことだ。

もちろん自分を省みることも必要だし、「私は悪くない=いい男がいないのよね〜」的な方向に進むと元も子もない。でも既存のルールをこえたところで、「この社会のシステムにそもそも欠陥があるのでは?」という視点だって、あってもいいはずだと多くの恋愛系コラムを読んでいて思うのだ。まあしかし、文章にするとだいぶ傲慢だな……。すみませんすみません。

これだけ書くとやっぱりあまりにも傲慢な気がするけど、本には、私がなぜ「私(人)」よりも「世界(システム)」を憎むようになったのか、その原因になっているかもしれない個人的な経験も少し書いた。これは初めてオープンな場で語ったとてもナイーブな部分だし、オフラインの「本」だからこそ書いたことで、おそらくネットでそれに触れることは今後もないだろう(インタビューとかされる場合は別かもしれないけど)。

誰の人生にも、コントロールが可能な部分と、不可能な部分がある。これは、「はじめに」でも書いたことだ。

コントロールが可能な部分については、他の恋愛系コラムを読んでもらって、自分を変える努力をすればいい。私も、それが不必要だとは思っていない。

だけど、誰の人生にも、個人の努力ではどうにもならない、コントロールが不可能な部分がある。政治や経済、戦争、社会に蔓延する差別や偏見は、「私」を変えただけではどうにもならない。既存のルールのなかで上手くやるには、あまりにも過酷で、つらいことだってあるんじゃないだろうか。「アラサーの結婚・恋愛と戦争は関係ないだろ?」私はそうは思わない。同じ世界で起きていることだ。

長所と短所は基本的に紙一重である。だから私のこの思想も、悪い方向に進めば周囲への暴力やテロにつながってしまうかもしれないし、Twitterで有名アカウントに差別的なクソリプを飛ばすおかしなやつになってしまうかもしれないし、まあいろいろアレな面はもちろんあるんだけど。

だけどたぶん穏便な方向に進むと、システムを憎んで人を憎まずというか……私は、世にはびこる自己責任論を深く深くとてつもなく憎んでいる。私は、「人」は悪くない。社会が悪いし、システムが悪いし、環境が悪い。変えるとしたら、そっちのほうだ。既存のルールのなかで上手くやれる人はいいよ。でもどうしてもそれがつらかったら、そもそもそんなシステムはぶっ壊せばいいじゃんか。

もちろん、社会のシステムを根本から壊すのなんて簡単じゃない。というか、あまりにも難しい。「自分さえ変わればなんとか道は開ける」という思想のほうに救いを見出す人だっているだろう。余談だけど、私、美輪明宏が言いそうなことが大っ嫌いなんだよね。でも私の友人には美輪明宏の言葉が好きな人もいるし、まあそこはなんか、私がまわりと対立している部分である。ちっ、どうせ私は変なやつだよ。

自分はまったく優しくなんかないし、だいぶ未成熟で欠陥のある思想を持つ人間だと思う。32歳になっても全然、成熟なんかしちゃいない。だけどその歪みが原動力となって私を読書や執筆に向かわせていることは確かで、それを受け取ってくれる人がいることは、ほとんど奇跡みたいにありがたいことだ。

これを書いていたら、「やっぱり私ってめちゃくちゃ致命的なバカで邪悪な人間なんじゃないか」とまた落ち込んできたのだけど、まあいいや。本当に、長所と短所は紙一重だと思う。





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