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涼しくなる日

「おい」

と背中のむこうから呼ばれた

「じゃあ、またな」

私ははたと手を止めて振り返った

「ああ、またな」

彼の言葉に素っ気ないという感じはなかった。お前が元気ならまたそのうち遊びに来るからよ。といった感じだった。
以前、町から少し離れた公園の近くをあるいていたら、鳴き始めてまだ間もない蝉の声が聞こえていた。
まだ一端のようにはいかない、彼らなりの音程を模索しながら震える抑揚で鳴いていた。
彼が家にきたのもちょうどそれくらいだった。
まだ知り合って間もない頃は、彼とのおしゃべりに夢中になっていた。
彼が大胆に振るう明るくあざやかな絵の具に魅了されていた。
疲れも知らないまま、電池が切れたようにして倒れこむまで彼と一日中遊んでいたように思う。
次第に年齢を重ねるにつれて、彼との会話は人並みに、すこしずつ減ってきていた。
いつも彼が来てくれることを楽しみにしつつも、声を聴くと安心してしまい、その時やらなくても良いようなことに敢えて没頭したりしていた。
好きなものや楽しみを最後に取っておきたい私の性格がおかしな作用をしていたのかもしれない。
もうかれこれ三十年来の付き合いになるが、当たり前のように家に来てくれる彼に慣れてしまっていたのだろう。

「見てみろ、とても良い青だろう。上質な絵の具が手に入ったんだ」

「そうだな」

「これは堅めの白だ、インパスティングにとてもうってつけなんだよ。ほら、こんなに立体感が出てくれる」

「本当だ」

「これだけ厚みが出るからねえ、絵の具を塗るというよりは彫刻をしている感覚に近いんだ」

「なるほど」

背を向けて、机に向かいながら発する私の淡白な返答を聞いて、彼は別に不機嫌になったりへそを曲げたりはしない。
何がおかしいのだろうか、目尻にほのかに笑みを浮かべながらずっと麻布に毛筆をこすりつけている。
小刻みにザリザリとキャンバスの粗目を引っ掻く音は、窓から入ってくる蝉の声に似ている。得も言われぬ焦燥が、ティーポットの底に溜まった茶葉のように胸の奥でジワリと波打つ。

「絵の具が足りていないんじゃないか、キャンバスが擦り切れそうだぜ」

「なあに、元は帆布だ。潮風にだってビクともしないんだ。大丈夫だよ」

音がうるさいのだという私の皮肉には全く気が付かないのも相変わらずだ。
昼が過ぎ、ポカンと浮かんでいた真っ白な太陽が徐々に色づき始めたころ、私は彼に呼びかけられた。

「じゃあ、またな」

私ははたと手を止めて振り返った

「ああ、またな」

私がそれ以上なにも言えなかったのは、もうそんな時間になっていたのかということ、そして気づかぬうちに彼が帰り支度を済ませていたことに驚いたからだった。
ガチャガチャと色々な道具をリュックにぶら下げ、彼はドアノブに手をかけた。
胸の横で、小さく手を振ると彼は出て行った。

私は再び机に向かった。
が、なんだか集中力が切れてしまい、椅子の背もたれに深く背中をうずめ、薄暗くなりつつある部屋の壁を見つめていた。
窓からはまだ蝉の声が聞こえる。本棚に差し掛かる直角の陽の光はいつの間にか朱を帯びている。
両の手を首の後ろで組んで、凝り固まった首筋にじっくりと力を入れた。
ゴワゴワに乾ききった厚紙に、水が滴るようにして緊張が少しずつほぐれていく。
深く息を吸って少し止める。淡い煙草の煙のように鼻腔の奥で渦巻いたのは夕暮れの空気だった。
おもむろに立ち上がり、部屋のドアを開けた。
外に出ると、気温が少し下がっている。西日はまだ密度が残っているが、風が撫でる指先を肌の表層で感じるほどに涼しくなっている。
誰も住んでいない住宅街を抜け、近くの小さな川に差し掛かる。
空は既に朱を通り過ぎ、紫苑の花の色に染まっている。
彼はこんな色の話をしていただろうか。私が上の空であっただけだろうか。
部屋を出るときの手を振る仕草を思い返す。
私が幼少の頃から、彼は別れ際に少し手招きをするような動作で手を振るのだ。そしてそれは今年もなんら変わっていなかった。
遥か上空、北西の強い風に流されていく雲のかすれた輪郭は、彼がキャンバスに描いていたそれとは少し違っていた。

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夏の思い出

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