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とある男の自己紹介(後編:社会人〜) #19

前編はこちらから → とある男の自己紹介(前編:幼少〜社会人まで)

前編で働き始めのところまで書きました。
このドキュメントはその後から現在に至るまでを残そうと思います。

パソコン屋からウェブ屋へ

前編でも書いたブラインドタッチ、ジオシティーズでのHTML、CSS、FTPといった当時のウェブ技術の基礎をバイト中に研鑽していた中で、現在共に働いている社長から「お前ウェブ作れるじゃん。やろうぜ」と彼が当時働いていたフリーマーケットを運営している会社に誘われました。

作れるじゃんっていうけど正直完全に趣味域のレベルだし、、、と思っていたのと、電気屋の店員という役職は最高に楽しくて辞めたいとは思っていなかったんですが、
・将来のこと(このまま店員でいいの?)
・新しいことへの挑戦しないの?
の2点が心の中でひっかかって、ツクモ電気を退職しそのフリマ運営会社へ行きました。

デザイナーを目指して勉強したこと

当時僕は「肩書がモテそう」という理由だけでデザイナーを目指します。が、速攻向いてないことに気づいて諦め。HTMLを中心としたコードを書いてるのが楽しくなりそれが主戦場になっていきます。

デザイナーになりたいと思って勉強したことは「うまくパクる」ことでした。

ちゃんと勉強したことないし、独創性とかも特にない普通の一般人が「仕事」としてそういうクオリティを出さないといけないとなると先人をパクるのが最も速いと思いました。
先人の知恵の利用やリスペクトはこの頃に心で理解したように思います。

最初は完コピ
チラシとか本とかなんでもいいんだけど見本を見て再現させる。
当時のYahooのトップページを、自作のHTMLやCSSで組むという車輪の再発明みたいなこと。駅の中吊りのフォントやレイアウトを真似してイラストレーターで作ってみることなどをやっていました。

次のステップでは意図をコピーするようにしていました。同じアウトプットになったとしても「作った人が何を伝えたかったのか?」を考えてパクるようになりました。「意図をパクる」という表現をしてたと思います。

このうまくパクる技術は、その後現在においても使えていて、エンジニアだけでなく何か手に職をという人は勉強の工程として万能に切れるカードなので是非利用してもらえたら良いと思います。

そんなこんなで「あ、デザイナーという職は俺には無理だ」とちょっと触っただけで才能がない(努力でどうにもならない)と思って早々に諦めました。

自分の仕事は、設計や素案をもらって、
1.Photoshopやイラストレーターとかの画像でデザインデータを起こす
2.HTMLやCSSを作る
3.FTPでアップする
みたいな作業に従事するようになります。

チャンスは自分で認識しないといけない

フリマ運営会社のそのウェブ事業部みたいな部署に自分が入った時は、上司、現社長の友人、その他の3〜4名体制だったと思います。

その上司から「このチラシの作業やってくれない?」と言われ、自分は別の作業をしていたのと、上司であるその人を僕はナメていたのとで「ああ、はいはい」とかなり邪険に扱いました。

上司のその人はとても優しい人できつく何かを言う人じゃないのですが多分相当むかついたと思います(僕がそっち側なら多分キレてる)。
ツクモ電気でMD部にやっちまった失礼な行為を反省したはずなのに。

この応対を目の前で見てた現社長から「ちとお前、今すぐ作業止めて外行くぞ。上司さん、すいませんがちょっと時間ください」と言って外に連れ出されドトール(だったと思う)に行って叱られました。
今、思えば同級生&無二の友人から叱られるって叱る方も叱られる方もダサいなと思いますが、当時言われたことは未だに何かあると思い出します。

「依頼された仕事ってお前のやりたいデザイナーへの道に続く作業じゃねぇの?どんな人からの依頼でも仕事に罪は無いでしょ。お前のやりたいことに続く仕事をくれてるのに、チャンスをくれてるのになんで無碍にしてんのよ?お前バカだろ」としっかり叱られました。

バカです。
自分のやりたい、やっていきたい、育てていきたい技術をしっかり仕事としてチャンスくれているのに、自分は放り投げてしまっていることに、これを言われてやっと気づきました。

戻って上司に「さっきは本当に申し訳有りませんでした。先程の仕事まだありますでしょうか?是非やらせていただきたいです」というような言葉は違えど"謝罪"をしたのを覚えています。

ここで学んだのは"チャンスだ!"という意識や認識をすること。チャンスは意外に石ころのように意外に転がっているということ。そして石ころと見るかダイヤと見るかということが大事ということです。
路傍の石も、見る人の立場や意識によってはダイヤなんだということ。

これはその後、仕事だけでなくいろんなところで「あっ!」と気付くようになったと思うし、いわゆるアンテナを広げろ的な意識や意味を理解したように思います。

創業

19歳か20歳ぐらい。フリマ運営会社から退職し3名で登記し起業します。

現社長の前職の先輩がすごく気に入ってくださって「お前ら面白いから会社やれよ」と言って。
当時株式会社1000万、有限会社300万の資本金で設立ができたのですが、ミニマムの300万ですら、20歳前後の僕らには大金で、あるわけもなく。そしたらその先輩が「出してやるから(出世払いで)」と。

高田馬場の飲み屋でそんな提案をもらって、現社長20歳、僕20歳、もう一人22歳の3名で相談の上、決断。
「全員どうせどこの会社いっても辞めそうだし、就職できなそうだし、捨てるもんもないし、お金出してくれるならリスクないし、やってみっか」と。

先輩が「トイレいってくるから(決めろよ)」と席を立った。
誰も社長をやりたくないから「じゃんけんで決めようぜ」となって現社長が負けたので彼が社長となりました(以降彼は常に社長ですがきっかけはジャンケンで負けたからです)。

創業時の社名は「ルートゼロ」でした。
ルートは根っこから元々から、ゼロはゼロから頑張るどうせゼロだしという意味合い。そして平方根に0ってありえない数字なので、そのありえない存在でありたいみたいな意味を後付けた記憶です(若干怪しい)。

やってた業種としてはウェブ制作会社って感じですが、正直何やるかすら適当で起業してます。高校2年の時の無駄夢会議の延長にあった妄想に、すべて後から肉付けして実際の稼働にしていったという感じで、部活とかサークルのノリだったと思います。

ポンコツの戦い方

高田馬場のアパートの一室を借りて3人で何かをしてました。
お金を出してくれた先輩の友達(営業)と僕ら3人。とある業界のウェブメディアを作成、掲載費用をいただくという仕事を始めました。

ウェブメディアを作るというので全部0から作ったのは初めてだったと思いますが、設計やサイトの意図などを現社長が伝えてくれるのですが僕はポンコツなのでちゃんと作れず。
意図を組んで作れるまで最低3回は作らないといけなかった。

職人側がよく商人側に文句をいうような江戸っ子的な話やジョブズの注文は厳しい的な話とは、全く逆の職人が只々ポンコツ。
イメージ暖色系でと言われてるのに、なんか作るのに夢中になっちゃって青くなって出てくるみたいな。指摘されてあー修正しますってなって緑色。正しく暖色で出てくるまで3回という酷さ。

何度やってもそれが1回で出来なくて、僕は「1回で作れないなら3回作ればいいじゃない」というマリーアントワネットもびっくりの開発ロジックを作り上げるに至ります。
オーダー側の意図を組んだ仕事をするのではなく、意図を組むことを諦めて同じ時間で3つ作って意図に寄っていくやり方。非効率極まりない。
そのおかげなのかショートカットキー操作やマウスの緻密操作、各ツールのGUI、特定の繰り返し業務などなど、自分なりルーティン化してミスを出来るだけしなくする能力はあがったと思います。
このやり方の問題は作る側も非効率なんだけどチェックする人の工数も3倍取るのよね。。。すいませんでした。

廃業と転職

そのメディアの仕事自体は全然うまくいきませんでした。クライアント200〜300取れるといってたところが期日が来た時には2社だけという結果。
当時は営業のその人になんやかんや言ってしまったと思いますが、僕らの協力体制が最もよくなかったと思います。

その後自分らで営業しようとなって、僕以外の2人が営業窓口をやりつつ全国のフリーペーパーやチラシを掲載したら面白そうということで「チラシオンライン」というウェブサイトを作りました。
これは200媒体ぐらい集めたと思いますがこれも特段なにかお金になったわけではなく、うまくいきませんでした。

とうとう僕はギブアップします。「もう実家帰る!」と尻尾を巻いて逃げ出そうとします。別に実家帰ってもなにもないのに。いわゆる鬱。
創業からこの期間、結果だけ見れば毎月20万ずつの給料はもらえてたんですが、毎日生きていけるのかが不安で不安で”地獄”でした。

そして創業から半年ほどだったでしょうか(正直時間がわからなくなるような生活してたので時間間隔はおかしくなってる)。
現社長から「お前らじゃなければ俺はもっとやれるのに」という本人が振り返ってあの当時は本当にすいませんでしたという名言を最後に法人ルートゼロは生涯を閉じることになります。

休眠という手続きを取ることになりました。廃業にしてしまうと単に300万も入れたのにということと税金かからないらしいしと。

ここで学んだのは"地獄ライン"
このラインを超えたら自分が死んでしまうというそこから先地獄よ?というライン。体力的にも精神的にも、そこに到達したら終わり。ジ・エンド。これを知れたのは良かった。
逆に言うと、ここにいかなければ死なない。生きてるだけで丸儲け。死ぬこと以外かすり傷。この真理を心で理解しています。自分の限界値を知れたというのがすごく良かったです。苦労は買ってでもしろという言葉あるけど苦労は不要で地獄知っとくべき。

面談時に「あの時地獄だったなーという時期とかエピソードあります?」みたいなことを聞くことがあります。
この地獄ラインは人それぞれ。え、そんなラインでダメなの?とかそこまでいっても死なないの?とどっちにブレても驚嘆するわけですが、そこのラインはどうでもよくて、自身が地獄ラインを自覚しているかというのが確認したくてこんな質問します。地獄ラインを知ってる人は強い。

各人はバラバラになり、現社長は当時インターネット広告専門の広告代理店アイレップという会社へ。僕ともう一人は転職活動・就職活動へ。

SEOとの出会い

転職活動しなきゃなーと活動開始したあたり、つまり休眠して1〜2週間ぐらいで、アイレップに入社している現社長から再び声がかかる。

どうも作っていたウェブサイト全部がその単的なテーマワード(例:チラシなど)で検索エンジンの上位を占めているらしい。後々知るのだがSEOというマーケティング手法が自然と出来ていたらしいと。
「これ売れるぞ(サービスとしての価値あるぞ)」と。

そこから自分は、そのアイレップ社から一旦受けられる皿としてSOHO(個人事業主)として起業しました。といっても屋号書いて紙出しただけですが。休眠させたばかりのルートゼロは寝かしつけときました。

bizという屋号での個人事業主

ドメインとして .biz がちょうど販売開始された時期でもあって「biz」というドメイン取得したら「biz@biz.biz」というメアド作れるんじゃね?という意味不明なロマンからSOHO名は「biz(ビズ)」でした。
3文字以下のスペルのドメインは抽選(&入札)制度になっているのを知らず勢い余って登記してしまったのですが、biz.bizは案の定取れず急いでなんか名前を付けないとと思って bizstyle.bizというドメインにしました。

ビジネススタイルを形作ったるわ!みたいな意味を後付けで付けましたが、意味なんてないです。 biz.biz取りたかったけど取得できなかっただけ。

SEOの仕事と成果

検索エンジンで上位表示を自然で出来ていた自分のHTMLを顧みて、色々要素を変更しながらリバースエンジニアリングを繰り返すという形でSEOを中心に勉強・修行・成果を出していくことになります。

最初はアイレップ社自身のホームページを上位表示するということに取り組みました。
「インターネット広告代理店」とか「インターネット広告」とかで検索したときに検索結果の1番上に出てくるようになりました。この頃はGoogleも非常に簡単なアルゴリズムでして。。。
月の問い合わせ数が10件弱だった物が100件になったのが最初の実績でした。

当時のウェブサイトはデザイン性は低いもののCVにこだわりまくりました。地獄を見てた時代に勉強していた"ユーザビリティ"や、AIDMAを始めとした"マーケティング行動の基礎"などが活きました。

現社長がアイレップからSEO案件を発注をしてくれるというマッチポンプが出来上がっていて、実績が積み上がっていく中で「もう雇っちゃおうぜ」という話に。発注する企業側からすると100万以上払うより月給払って抱えられるならその方が安いよなという算段だと思います。

SOHO時代は稼げたみたいな良い話ではなく、最初自宅で働こうとしてたんですが、そもそもサボり癖&受験できない子が自律して出来るわけではなく、当たり前に身が入らず酷いもんだったのでわざわざ別の場所に職場を借りて出社するようにするぐらいだらしなくしてしまいました。
現社長はアイレップ社に出勤後、夕方からそのSOHO側に顔を出してもらう(というか一緒に働く)形でマッチポンプというかスパイというか。

ただのデキレースだし、たるんでしまう僕としてはこの「採用」という話を断る理由はありませんでした。

就職面談で「いくら必要(雇用できる)?」と実に率直に聞かれました(言葉は違うと思いますがほぼ同義)。
僕は声を震わせながら「30万/月でお願いします」と言いました。
20万の給料で働いてきた自分(少なくともその認識)としては、30万はとても高額を突きつけた!と思っていて、ダービー兄との戦う承太郎のような心胆はなく、ビビりまくってました。

「じゃ、それで。いつから来れる?」と秒の返しで採用が決まりました。生意気にも初出社日に自分の椅子、オカムラのコンテッサを持ち込んで働き始めました。

正社員生活

たった半年だったけど最も成長した時期だと思います。
社名を伏せていないのは超絶恩義があるからです。個人名はあえて伏せますが今でも頭はあがりません。

自分のビジネスマン歴として最も重要だったのは入社後の先輩社員でした。入社した僕は、SEOの人で約30万の給与。
その先輩社員は、営業・経理・会計管理などを兼任していて僕より給与少これはやばい。

この事実を知った時、戦慄が走るというのはこういうことなんだなと思いました。絶対に何かしら成果をださなければと超必死になりました。この絶対に!という気持ちは生まれてきて最も高かったと思います。誰よりも必死に取り組んだと。

結果、在籍は半年ぐらいしかいなかったのですが基本業務となるSEO案件をこなす作業(HTMLやり直しだったり指示書作成だったりインフラ整備だったり)と、新宿への移転の手伝いもしながら責任を持って"働く"、"仕事をする"という意味を知ったと思います。

今振り返ると、PC環境も勝手に整備してたしLAN引いたりとかもやっていて「情シス的な仕事」も勝手にやっていましたが越権だったかもなーと思います(じゃ担当が居たのか?というと微妙ですが)。

部下もついたりしました。SEOの作業をやる作業者(コーダーっぽい人)に作業を教えたりしました。チームリーダーとかマネージャー的な意味は一切無く、ただの先輩って感じなので部下じゃないか。後輩か。

まあその後輩がお客さんのFTP内を全削除して顔真っ青になったり、失点をへらす生き方にも書いたお客様のところに同行してめちゃくちゃ失礼な態度で現社長に怒られたり と色々ありました。

強制されてたわけじゃないからブラックとは思わないけど、働く時間は労働基準的な意味は完全に無視して長時間働いてました。僕らは自主的に勝手に働かせてもらっていて、今だったら多分そんな長時間働いたらダメだぞ!と言われるんでしょうけど、何か結果を出さなければいけない自分にとってそれは拷問になっただろうと思います。
自由に働かせてもらえた環境に感謝します。

再起業

アイレップ内で、部署ごと利益や給与の問題、仕事内容の問題などで僕らの部と他の営業部で軋轢というか「あいつら何だよ」的な空気になっていってしまってどうにも居づらくなって現社長と数名で退職することにしました。

スピンアウトなんていうかっこいい言葉を使っていましたが、居心地が悪くなってきて出ただけです。当時アイレップは僕らのやってたSEO含めたウェブコンサルみたいな業務じゃなくて、広告代理店でいくっていってたのもあって、それじゃ合わんなと。

休眠から復活

SOHOは廃業。休眠していたルートゼロを再度起こして、ビズスタイルに社名変更することで再度起業することになりました。

やる事業はアイレップ内でやっていた事業の延長。
つまりSEOやリスティング広告の運用代行を中心にウェブコンサルっぽい業務を請け負う会社になりました。
退職元と競合するような事業(=広告代理店業)は人としてどうなん?と思ってたしキャッシュも無いので、当初はその業務はしませんでした。

アカウントは各代理店やクライアント側にもってもらい、運用代行をするのが基本モデルでした。よく広告代理店の方が「バイイングだけじゃなくてなんか色々面倒なのよこの案件」となったら僕らビズスタイルに声がかかるという感じでした。

僕も相変わらずSEOを中心に、自分たちや人のウェブサイトを作るという仕事を基本にしながら、チームを作るとか採用するとか「会社を運営する」という業務が増えていきます。

SEOは、受注するものの上位に表示することよりも「成果を出す」、つまりコンバージョン(ECサイトなら購入など)にこだわって施策を提案してました。
SEO単体はとりあえず上位にだしときゃいいんだろという詐欺まがいの会社がこの後どんどん増えていきますが、それらの会社とは相容れないので戦いませんでした。そんな手法で上場してた会社も多数居たけどそんな詐欺マネーは不要らねぇと矜持を優先しました。
また本質的に上位表示されてもコンバージョンしてなかったり、コンテンツがクソすぎてネガティブイメージを植え付けるような結果になってる上位表示もあったりして「何がしたいんだ、こいつらは」と嘆いてたのも記憶にあります。

お金もらうためにはお客さんが儲からないともらえない と思っていて、その思想は今でも揺らいでないと思います。誰か巻き上げるようなビジネスやってる人たちはろくでもないと思ってます。

SEO含め事業は非常に好調で、毎年給料は倍々に上がっていきました。
お金が増えたことは嬉しかったのですが、責任が増えるし、より働かなくてはいけないし、よりいろんなことをしなければいけないしとマイナス面の方が心に大きくありました。

量も質も全部上げなければ成り立たない。僕は過去の経験の「1回で作れないなら3回作れば」の進化形、「1人で足りないなら2人分、3人分働けばいいじゃない」と日々の仕事をこなします。

ここでとある驚愕の事実に気づきます。人には24時間しかないということ。
何かを効率よくこなすとしても絶対的な時間は24時間しかない。精神と時の部屋とか、相対性理論を持ち出せば24時間という次元を突破できるのだろうが、所詮僕は一般人。その境地に行けませんでした。界王拳は3倍まで。

体力と時間数で仕事をこなす日々でした。

うまくいかなくなる

事業は順調ながら一部クライアントのアカウントをもって広告代理店と同じようなこともやり始めます。キャッシュが必要なビジネスです。もちろん既存のSEOやウェブ制作などもありつつ。人数を増やした時の軋轢や歪はあったかと思いますが業績は順調だったと思います。同ビルで5,6,7,8Fと4フロアも持ってたし。

しかし、うまくいってる時があれば、うまくいかなくなる時もきます。
リーマンショックがそれでした。

外的要因ではあるものの、僕らの事業の「ウェブマーケティング」という業界には大打撃でした。各社は予算を絞るため、僕らの収益は激減しました。

会社を維持するためのお金がありませんでした。私財を入れても保って数ヶ月。その間で、社員をクビにする、お金を借りるなど、何か手を打たないといけなくなります。金策ってやつ。
高卒で起業してたツケが回ってきます。知り合いもいないし頼れる人もいない。

そして、その時に居た社員のツテを使って、会社の広告代理部門を二束三文で買い取ってもらう話に至りました。
どうであれ社員からすると売り飛ばされたと思ったでしょう。ごめんなさいとしかありません。自分らの経営能力の無さのせいだと思います。

危険だよねという読みができなかったこと、事前に金策すべきだったこと、いくらでも売り抜けるチャンスはあったことなどなど今思えば反省点ばかりですが仕方ないです。

マネタイズ爆誕

ビズスタイルは、有限会社ビズスタイルと株式会社ビズスタイルに2分しました。有限会社側は制作やバックオフィス部門など、株式会社側は広告販売事業の部門。

買い取ってもらった株式会社側も半年?ぐらいは在籍したものの、色々な理由から退職になります。こちらの会社側は無事無能経営者が変わったおかげで社名も変わり生まれ変わって後に上場することになります(おめでとうございます&当時はご迷惑おかけしました)。

有限会社ビズスタイルは、ややこしいこともあるしドメインもぐちゃぐちゃなのでまたも社名を変更することになります。

仕事内容を最初のころのマーケティングの手伝い、コンサルティングっぽい業務にしぼり、営業も現社長しかやらないというサイズに絞る形に変更しました。少数精鋭。少ない案件を太くやるモデルに。

マネタイズというビジネス用語がそのころ一般化してきていて、SEOの頃から成果を出すことにこだわっていた僕らは「マネタイズ(マネタイジング)がうまくいってない会社多いよなぁ」という気持ちと検索数が伸びてきてたワードでもあったので .co.jpも取れるしと株式会社マネタイズという社名に変更して、またも再出発となりました。

僕はSEOをやる人から、ちゃんと開発をできるようにならないといけないと思いエンジニアの勉強を始めました。

SEOの人からエンジニアへ

案件や状況把握、プロジェクトにとって何が大事かというような部分は散々学びました。いわゆるプログラマー、エンジニアと呼ばれる手を動かして開発をするという能力はニワカ仕込みです。

理系大学や専門学校を超えてきた人たちを、正規の軍隊(の兵士)とするなら、僕はスネークのように現地のありもので戦うゲリラ戦が得意。
戦地で戦って生き残る能力には長けてるが、正しい武器の使い方は知らない人です。

世界にはRubyやMySQLのような誰もが使うものを作れる神々がいます。僕のような一般人は神々のもたらしたツールをうまく使うことでやりたいことを実現しています。
神々には感謝とリスペクトの念に堪えませんが、もう少し色々と達成するまでがんばってください。

故に僕は、生粋の技術屋ではないのですが、マーケティングや経営の観点からビジネスマターの目的・本懐を掴んでこなせるため技術部門の一番えらい人をやっています。

またもやピンチ

少数精鋭の勝負に変えたことである程度余裕ができてきたころ、今度は2011.3.11の地震。リーマンショックのように外的要因で再び暗雲に。
テレビCMがすべてAC(公共広告機構)の物に変わり、プロモーションと呼ばれるような事柄全てが自粛モードになりました。ウェブ広告関係も自粛しないといけないような風潮になり、とあるクライアントは翌月の広告費が9割なくなりました。

広告代理業は小さくしていたものの、1本の案件のコストインパクトは大きくやばいやばいとなりました。これだけが原因ではないですが辞めていった、辞めてもらったメンバーもいました。

これらで学んだのは金策はしんどいということ。また信頼は大事だということ。
残ってくれたメンバーに、後に言われた言葉で「(金策に走ってた)あの時、目死んでましたよ」と言われ心を貫かれた思いがしました。

会社を経営している人が目死んでたら、そりゃ終わりよな。

また別のメンバーには捨てられたのはどっちだったのか?とか聞かれ、罪悪感の塊でゲロ吐きそうになりました。

favyの起業

マネタイズになって、辛い時を乗り越えて事業を進めていった中で、また現社長と自分との経営会議で「もう食っていくという会社ができそう。必要最低限のメンバーでやっていくことはできると思う。さてどうするか?」と。
選択肢は2つ。

1.高望みせず今の規模で戦う
2.置いてきた宿題、出来なかった挑戦をする

僕らは後者を選択。

他社に提供していた事業コンサルの技術の粋を、自社プロダクトとして全部つっこむ覚悟をして社内事業としてやりはじめたプロジェクト名がfavyでした。

飲食業界をターゲットをしたのは、マネタイズのクライアントワークでその業界に対してサービス提供をした実績があったことと、かなり詳しいマーケット情報があったこと。
また業界的にはデジタル化が鈍重で入り込めたらチャンスがあること、逆に入り込めないような文化圏が形成されているためひっくり返すのが難しいからゲーム的にはハードモードであること(最初がハードなら他業界はハード以下になるだろうという算段)。

そこから飲食業界に詳しい人間が参加してくれたことなど、いろんな歯車が噛み合って、そこまでの苦しかった思い出やらなんやらが全部取り返せるような気持ちでスタートを切りました。

人を増やさないと戦えないし、今度はちゃんと資金調達をすると決めて動き出しました。そのためには社内プロジェクトではダメで会社として設立する必要があり、株式会社favyが出来上がります。

自分のキャリア

favy創業時から数年、最初の頃は現場のエンジニアとして戦ったものの、最近はメンバーも増えたし自分の技術の衰えも感じコードを書くという作業はできるだけやらないようにしています。

他にやることあるよねということと、コード書きてぇ!!という欲との葛藤がありますが、とある人に「なんでまだ人であろうとしているのですか?あなたは公人ですよ?」と言われて「ああ、そうだ、僕には人としての権利なんてなかったわ、そうだわ」とコード書くことで自分のパフォーマンスを出すのは止めました。

favyの2022現在

favyは創業して7年経過。

業界的にはまだまだ僕らの影響値は弱く、色々な戦略をうっていかなければいけないのですし、メンバーもサービスも判断も、もっともっと高めていかなければいけないと思う次第です。

僕らが味わった外的要因による失敗になりそうなCOVIDという波が飲食業界を覆っています。同じ過ちを繰り返さないように、favyでは2年前には早期退職を募るなど打てる手は打ちました。

最近では「サブスクビジネスのためのSaaS」を提供しています。
飲食業界を中心にしつつも他業界にも提供できるように開発を進めて多角的に戦おうとしています。ビズスタイルやマネタイズ時代から残ってくれたメンバーはもちろん、過去にお別れしてしまった人たちにも声をかけ、決戦のつもりで日々戦っています。

メンバーは常に必要としています。人事がなんというかわかりませんが業務委託だろうと副業であろうと一緒にプロジェクトを育ててくださる方がいれば是非お声がけいただきたいです。
経営側の面倒くさそうなところは引き受けますのでCTOを代わりにやっていただける方も募集しています。他社の方でも、僕程度が何かご協力することで成し遂げられるのであれば是非ご協力したいですし、持ちつ持たれつご協力もしていただきたいです。

とりあえず話だけでもという方向け応募窓口はこちらです。

あとがき

自分の仕事や学んで来たことを書いてみたら乱文で長文になった。
そしてもっと他にもいっぱい学んだことや知識があるのに書ききれなかった。特に人のことかな。人のことはまた別途noteにしようと思いました。読み直してみたら退職させてばっかりだわ。採用もしてるんだけどなw

しっかし書いたなー。。。。。

あざした。

注意書き:
※事実を書いたつもりですが"認識"という観点からいくと、人によってはそうじゃないだろと思うかもしれません。
※それはその人から見た認識であって、僕はその認識にありません。
※僕の認識を書き記すことで第三者視点で見た時に"真実"のように見えてしまうと色々問題が出ると思うので一部割愛しています。
※誤解やわだかまりはあると思います
※横浜に有限会社ビズスタイル、大阪に株式会社マネタイズがあるようですが、私は全く関わりありません。同名現存の2社様にはご迷惑かけます。

この記事が参加している募集

自己紹介

元々SEOの人でしたがウェブ関係ならなんでもござれの悪食です。言語、CMS(modxなど)、自転車、サッカー、オウガバトル、WCCF、ミニ四駆、TVゲーム全般、麻雀、武器・銃火器、未来・未知な物に反応します。