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とある男の自己紹介(前編:幼少〜社会人まで) #18

noteを始めて毎週何か(自分の本当にくだらないことも含めて)をアウトプットすることを続けている(年末少しお休みしました)のですが、自己紹介すらしてなかったことに気づきました。

こちらにほとんどのことは書いてあります。もしお仕事関係でご覧になった方はこちらをどうぞ。
自己紹介というか自分の懐古を含めてだらっと書いてますので。

学生期(〜18歳まで)

幼少から小学校4年まで

あんまり覚えていません。
泣き虫で、よく親からは「おまえはしょうがねぇな」と言われていたので、人間の最も根っこの部分には、父からの圧力の影響があります。40過ぎた状態でも父は苦手です。
人の顔色見て小賢しく立ち回る子供だったと思います。

6つ離れた兄がおり色々な影響を受けました。
ややこしいのですが、兄は実母は同じで父は異なる、異父兄弟になります。

兄に学んだ事が本当に多く、
・麻雀教えてといったら、積み込み&左手芸から教わる
・ドンジャラ(全部ドラえもん)で元禄積みした結果、父に本気で怒られる
・エアーガン(ウージー)のバネ強化しすぎてBB弾を砕いて飛ぶショットガンに改良
・その改良したウージーでG様を仕留める
・一緒にミミズを解剖し、全身に糞が入ってることを学ぶ
・ピラニアを飼育し指をちょっとだけパクッといかれる
・エアーガン(44マグナム)で手を上げたのに撃ってくる
など、正道だけではない、邪道も含めて道はあるのだという教えを得たと思う。自分にとっての憧れであり理想の人でした。

小学校に入る時には父が「ファミコンはゲームだけだから勉強もできるパソコン買ってきた(MSX2)」といってMSX2に出会うことになり、ここでメタルギアだけでなく様々なゲームに夢中な、いわゆるファミコン世代を謳歌することになります。
メタルギアについてはこちらにございますのでどうぞ。

小学校3年ぐらいの時に兄の影響でZガンダムを見て、ロボや機械などにもかなり興味をもつようになっています。

小学校4年から中学2年まで

兄が高校。兄はいわゆる不良(≠ヤンキー)というやつで、朝パチンコで勝ったらタクシーで学校へ行くという、だいぶアナーキーな人で、そのアウトローっぷりも憧憬につながっていると思う。

僕は、小4の1学期ぐらいまでは、女子とも普通に喋るし、人気者ではないが明るい方だったと思う。
小4ぐらいで兄の影響で不良かっこいい硬派かっこいいみたいになって、女子と喋らなくなり寡黙でクールなキャラを演じるように。
女子とペラペラ喋って調子こいてるやつかっこ悪いみたいな風に思ってました。

寡黙&クールと書いたけど、ただの根暗になっただけ。女子との会話だけでなく普通の友人にも心を開くことはなくなりました。
根暗をこじらせ、スポットライトがあたるような事柄を全部避けるようになりました。写真とかも避けまくってました。

小学6年のときのディズニーランド遠足は、班を組めと先生に言われても誰とも組めないという漫画などでよく見る例のやつを経験しました。
余り連中で班を作るという形で収まったのですが陽キャ班から漏れた坂口くんは最後まで文句を言ってたと思います。
僕はどの人ともそこそこ仲がいいだけ(八方美人)なので、全員の2番や3番手という「可もなく不可もなし」な人間でした。

ディズニーランドでチップ&デールの、どちらかにミドルキックをひたすらいれてたら蹴られてない相方にヘッドロックされたのは良い思い出ですが、なんかあんまり小学校5年〜6年の記憶薄いんだよなぁ。
これぐらいしか覚えてない。。。

本当に心ここにあらずだったのだと思う。

中学3年

転機その1。自分の人生において最も大事な時期の一つ。

根暗な状態をクールと思っている「勘違いかっこつけ野郎」から小学校1年から3年の最も元気だった自分の頃に戻ることができて「あ、今までの俺なんだったんだろう、だせぇな」と認知できた時期です。

小学校4年まで一緒だった旧友と同じクラスになり、
・漫画
・アニメ
・声優
にハマることになります。

いわゆるオタクグループだったんだろうけど、すっごく幸せだった。

特にこの時に僕を闇から救ってくれた旧友達とは未だに「クソ詣会」と称して初期は初詣、年を経て忘年会に様変わりはしたものの、中3から毎年必ず会えるようにしていて、僕から「そろそろ時期です」と声をかけてます。
僕が彼らに会いたいから。

高校1年

夏休みに速攻バイトした。社会に出てお金を稼げることが嬉しかった。
近所のスーパー、青果で働き丸坊主頭だったので「キャベツくん」と呼ばれてた。時給800円ぐらいで働いて188000円の給与だったと思う。

この記憶が確かなら約235時間働いた計算になるのだが、週6ぐらいで馬車馬のように働いて1日約10時間働いてました。重労働と感じたことはなく、ただただ働けるのが嬉しくて楽しかったです。

このバイト代で、プレステや携帯電話を買った覚えがあります。

高校2〜3年

ビジュアル系が流行ったので、ロン毛(肩ぐらいまで)でそれを青く染めたりと、今思えばコスプレみたいな格好で、クッソダセェやつでした。いわゆる高校デビューってやつでしょうね。若かった。恥ずかしい。

この時に、今現在も共に働いている社長と急接近して仲良くなります。
社長とは中1から一緒だったんですが、友達の友達というような距離感で、誰かを介すことで仲良かったという感じだったのですが、この高校2年のクラスではお互いにその介する友人らがおらず、なんならお互いしか知り合いが居なくて、必然と仲良くなりました。

週5とかで朝まで遊ぶとかしていたと思う。遊ぶといってもゲームとかではなく、参宮橋のフォルクスで、コーヒーやスープバーだけ頼んで約12時間。世の中への愚痴とか誰かをドッキリにはめるとか将来の夢とか、本当に様々なことを無駄に喋りまくった時期でした。

高校3年の時に、"願書"の仕組みを知らず(マジで興味なくって願書出してなかった)、現役で記念受験してました。
また"単位"もよくわかっていなくて、あんまり学校行かなくて久しぶりに出た授業で先生に「あと1回(授業)出なかったら卒業できないぞ」と言われて「早く言ってよ」と言い返し「来ないから言う時がないんだよ」と言い返された始末です。

浪人(18〜19歳)

大学受験から逃げ出す

1年浪人。浪人した時に予備校をどこ行くかで週3でいいという予備校をチョイス。通えそうだからと。

そんな気持ちで浪人生活なもんだから受験が成功するわけない。
というか受験する気力ゼロ。他みんなが夏期講習の時にFF4やってたしなぁ。。。

運転免許も記念受験が終わった瞬間に、教習所行きました。運転免許は本当に順調に合格。これに受かったぜとかもあってか、入試勉強とかやるわけないんだ。

実際の入試テスト日には朝からドトールに行ってしまって、9時半ぐらいに試験会場ついて「あーあ、1つ目終わっちゃった…バイト雑誌買おう」ってなってました。
合格通知で「不合格」っていう紙を突きつけられる恐怖に怯えて、その事実を認められないから逃げました。

この時期もある意味転機の1つで「あー、1年無駄にしてしまったな(二度とこういう時間の使い方はしてはいけない)」と1年間という大量の時間を浪費して極めて明確に自覚しました。
この時期がなければ時間の浪費・無駄の大きさを自覚することはなかったかもしれない。この1年で得たものはこの後悔だけ。

社会人

パソコン屋でアルバイト

受験から逃げてとにかく働きたかった。高校1年の時にがむしゃらに働いたように、我を忘れるぐらい働きたかった。
ある意味どこでも良かったが、本格的にパソコンに詳しくなりたいと思って、その手の類の何かに関わりたかった。

入試テストから逃げたその当日、三省堂で買ったフロムエーを開いてた。
当時、ツクモ電気が秋葉原以外のところに出店する、今回は下北沢のオープニングスタッフ募集!というのがあって応募した。
面談はとんちんかんなことばっかり答えたが何故か受かり無事バイトとして入ることが出来た。

お店ではよく働く小坊主という感じで、店員が少ないのもあってソフトウェアのフロア長を任せられることになった。ちょっとフロアが変わった構造で7フロアあったが、中二階構造になっていて、僕は1.5Fというフロアだった。

実際の金銭授受をするレジは1Fか2Fにしかなくて、お会計はこちらですと誘導するだけだったので一人で大丈夫となってたんだと思う。困ったら呼べよと正社員には言われてたが、ほぼ頼ることはなかった。

実際他の社員さんにも「トヨダくんとマルツ、それとお前はスーパーバイト君だよなぁ」と認められたのがすごく嬉しかった(ここでも一番手ではなかったw)。
大学受験から逃げたという負い目から少し心を救われたのは思い出です。

本来、僕はパーツ関係のフロアで働きたかったんだけど、もっと詳しい人がいたので、そりゃそうだよなとすぐ理解してた。で、ソフトウェアのフロアがつまらないかというと全然そんなことはなくて、むしろ新鮮ですごく楽しかった。

自分でもよく知らないソフトウェアを試供版とか含めて試させてもらえて「このソフトここがいけてないっす」みたいな論評を客に説明したり売上なんて特に気にせず販売店の人として働いていた。
売上目標とかあったんだけど僕はバイトだったしレジ打ちは別の人に頼むので僕の売上にはならずレジ打った人の成果になる。だからといって全然妬まなかったしそれで社員の誰かの成果になるならと思ってた。

ケーブルテレビ(当時東急ケーブルだったかな)やADSLの案内も同じ階にあって、そこも担当してた。
僕が自分の家にISDNではなくてCATV,ADSLを比較検討してたという私的調査がそのまま知識として活きて、こうですよああですよとか僕の家もここのケーブルテレビなんですけど速度このぐらいなんでと実績という最大の武器を振り回すから契約率はかなり高かったと思うし苦情は0だったと思う。

朝9:00に開店して閉店21:00ぐらい。
ある程度慣れてきた自分は、17:00には全部の仕事(発注や陳列・整頓など)は終えて、接客対応はしつつも基本自分の好きなことをやる時間としてた。
フロアに1人だったから集中できた。
「激打ち」という北斗の拳のアニメをベースにしたタイピングソフトを試供品ということで頂いてたのでそれをひたすらやってブラインドタッチができるようになったし、当時ジオシティーズというYahooがやってた無料ホームペーススペースみたいなところで今でいうブログみたいな日記サイトをhtmlやCSSを勉強して作って公開してた。
マーケティング観点ゼロだからゴミofゴミコンテンツだったけど。

ツクモ電気には当時MD部(えむでぃーぶ。何の略か不明)が存在し、彼らは本社に居り、在庫の発注依頼を受け付けて承認したり、各店にプッシュしたい商品を配備するなどをやっていた。
ジャストシステム社の一太郎&花子というソフトウェアの新バージョンが出た日、下北沢にももちろんソフトが配備された。

僕は「こんなもん下北沢で売れるわけねぇだろ、秋葉原で引き取れ」と最悪な台詞吐いて、店長に「まずいよーあれはまずいよー」ってめちゃ叱られたというか困らせてしまいました。
※ジャストシステムさんごめんなさい
※店長も監督不行き届きとかで減給とか首になってたかもなんだよなぁという影響を考えられなくて本当にごめんなさい

実際、マジで売れず仕入れ先の営業さんにも愚痴を言い、秋葉原本店のソフトウェア担当の重鎮に舐めた口きいて、さらにブチ切れられました。

店長へもMD部へも秋葉原の重鎮にも、申し訳ない気持ちがいっぱいだし色々悔やむことはあるけど、未だに下北沢という土地で、一太郎の大量配備は納得してない。
代わりにAdobe製品いっぱい売ったんだけど、会社間契約上、バックマージンとかインセンティブとかが入るから一太郎売りたかったんだよね。
わかるけど売れるところでちゃんと売りなよと思うわ。

ここから社会人のさらなる道へ進むのだが、一旦ここまで。

あざした。



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元々SEOの人でしたがウェブ関係ならなんでもござれの悪食です。言語、CMS(modxなど)、自転車、サッカー、オウガバトル、WCCF、ミニ四駆、TVゲーム全般、麻雀、武器・銃火器、未来・未知な物に反応します。