ばんだい号墜落事故:風化させないために
1971年7月3日、東亜国内航空(日本エアシステムの前身)のYS-11「ばんだい号」が、北海道函館市の函館空港に着陸直前に横津岳に墜落しました。この事故で乗客・乗員68人全員が命を落とし、日本の航空史における悲劇の一つとして記憶されています。
事故の概要
事故当日、ばんだい号は丘珠空港(札幌市)から函館空港へ向かうフライトでした。函館空港上空周辺まで接近していたものの、18時5分頃の「函館レディオ、こちら東亜国内63便、函館上空高度6000フィート(約1830m)、ハイコーンで通知する」「着陸態勢に入ったら連絡する」との機長からの交信を最後に消息を絶ちました。事故当時の空港周辺は風雨が強く、着陸が可能な最低限の条件をかろうじて満たしている状況でした。
捜索は海上保安庁と自衛隊によって19時40分頃から開始されましたが、悪天候と時間帯の影響で墜落地点の発見は翌日の17時25分頃になりました。自衛隊のヘリコプターが横津岳の南西斜面で墜落した機体を発見し、正確な墜落時刻は18時10分頃と判明しました。
この事故で、機長、副操縦士、客室乗務員2名、乗客64名の計68名全員が死亡しました。
事故原因
事故原因は、航空計器の誤読によるパイロットミスなど様々な説が唱えられましたが、確定には至りませんでした。当時、機体にはフライトデータレコーダーやコックピットボイスレコーダーが搭載されておらず、完全な事故原因を明らかにすることは困難でした。
事故調査では、「操縦乗員が進路を変針する地点の目安となる無指向性無線標識(NDB)上空に達していないにもかかわらず通過したと勘違いし、早めに変針したために着陸進入操作として高度を下げたところ山地に激突した」という説が有力視されました。しかし、これに異論があり、目撃者の証言から事故機が函館空港上空まで到達していた可能性も指摘されました。最終的には、これらの証言を採用せず、「パイロットが自機の位置を誤認し旋回中に降下を完了しようとした結果、さらに西に経路を逸脱した可能性」が報告されました。
事故後の対応と影響
事故発生後、直ちに函館市役所に市長を本部長とする函館市航空事故対策本部が設置され、警察、消防、自衛隊、地元住民ら延べ842名が捜索と救助に当たりました。しかし、悪天候と厳しい地形条件により、全ての遺体が収容されるまでに時間を要しました。
事故現場には慰霊碑が建てられ、毎年追悼行事が行われていますが、遺族の高齢化などにより参列者が年々減少している状況です。事故から50年経った2021年には51回忌が行われ、日本航空社長、社員と遺族24名が参列しました。
風化させないために
この事故は、日本の航空安全の重要性を再認識させるものであり、過去の教訓を忘れずに学び続けることが求められます。日本航空123便墜落事故から得られた教訓と同様に、ばんだい号墜落事故の教訓も風化させることなく後世に伝え続けることが重要です。
本日がばんだい号墜落事故の日であることを忘れず、墜落した時間とされる18時10分に黙祷を捧げたいと思います。犠牲者のご冥福を祈り、二度と同じ悲劇が繰り返されないよう、私たちもできる限りのことをしていきましょう。
最後に…
この事故を知るきっかけとなったのは、日航機墜落事故への関心から始まりました。日本の航空史に残るこの悲劇を風化させることなく、未来の安全な空の旅に繋げていくために、私たちは過去の教訓を忘れず、後世に伝えていかなければなりません。