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行く先々を 和やけむ  ―外間守善さんと平良マツさんのこと ほか―

Yoricoさん、ryo_kingさん

まずは、外間守善さんの名著『沖縄の食文化』、復刊おめでとうございます。
Yoricoさんがこの本をTwitterでご紹介されたことが、なんと、外間守善さん没後10年、沖縄の復帰50年の今年、ちくま学芸文庫からの復刊に繋がるとは…! Yoricoさんや沖縄っ子の皆さんが、地道に「沖縄スタディ」を進めてきた中での嬉しい一件ですね。

先日のおふたりのnoteから、いろいろなことを思いました。ryo_kingさんの「一度絶版になった書籍を甦らせたヨーリーは、失われた活字を復活させたわけで、それはインクを肌に刻むハジチのように、紙にインクを染み込ませるという旧式文化の活字で外間守善の著作を甦らせた」(note本文より引用)ことだという例えもいいですね。
人はなぜ書き残すのか、と考えるとき、このことを思い出すでしょう。

そして11/23のTwitterスペースでは、これまで6年ほど心の中にあった平良マツさんのことをお話できて、少し気持ちが落ち着きました。

録音を自分で聴いてみて、あまりの自分の喋りの拙さと間違いの多さに赤面しつつ、補足しながら11/23の自分の話したことなどを書いておこうと思いました。

私が外間守善さんに関心をもったきっかけは、以前にもnoteに書いたように、『南島の抒情―琉歌』(中央公論新社、1995年)という文庫本を勤め先の図書館でふと目にしたことからでした。

沖縄学の大家ということは知ってはいたものの、ハードルが高いように思えて読んだことはありませんでした。しかし、その中で琉歌について語られることばの平易さ品のよさが、なんともジェントルで心惹かれ、古書を手に入れました。『沖縄の食文化』も、その流れで読んだのでしたが、どうにも古書が見つけられず買うのを諦めていたのです。

私の生まれ育った宮古の人々からすれば、外間守善さんは、宮古諸島の神歌を調査し記録し、体系づけて発表した凄い学者さん。新里幸昭さんとの共著『南島歌謡大成 Ⅲ宮古篇』(角川書店、1978年)はバイブルのような一冊でもあります。そこに収められた多数の神歌は、今では殆ど消滅しています。宮古島の狩俣という集落に伝わってきた、祭祀、祖神(ウヤーン、ウヤガン)祭は2001年に途絶えています。その祭祀に関わってこられた神女・平良マツさんのことを私が知ったのは、2016年頃でした。前出の『南島歌謡大成』の「あとがき」で、外間さんがかなり丁寧に書いておられたのを読んだのです。

「この年(*1968年)、狩俣の神歌調査が本格的に行えるようになったのは(中略)、上地太郎区長に逢ったことがきっかけであった。そのおかげで、狩俣の最高神女でアブンマ(聖なる母)と呼ばれる平良マツさんや(中略)にめぐりあえたことが大きい。」
「自分自身の健康上の理由から、臨地調査はここ数年、新里君に一方的にゆだねてしまうことになったが(中略)一九七五年七月には頼みにしていたアブンマ平良マツさんがとうとう亡くなられ、ついで仲間元のウヤパー与那覇マツさんも他界された。最高神女で慈愛あふれた平良さんと、神事、神歌に対してもっとも厳しかった与那覇さんの急逝は、折からの海洋博を契機にテレビカメラの乱暴な取材をうけたための神罰であると、残された神女たちを極度の恐怖におとし入れていたという。今となっては、平良マツさんの決意によって陽の目をみたといっても過言ではない『宮古島の神歌』によって、現在のアブンマが神事を継承していられるという伝聞を、せめて平良マツさんへの手向けとして、冥福を祈りたい。」
(以上、『南島歌謡大成 Ⅲ宮古篇』p528より抜粋)

研究者はそれぞれの土地で数多くのインフォーマントに出会うはずですが、外間さんがこれだけの深い敬意を払ってきた平良マツさんとは、どんな人物だったのだろう。マツさんのことを、もっと知りたい。叶うならば、お顔を拝見したい。あるときは、郷土史研究家・佐渡山正吉さんのご令嬢である大城裕子さん(*現在の宮古島市教育長で、当時は「琉球コレクション叶(かな)」というセレクトショップを経営されていました)に、マツさんについて何かご存じないかお聞きしたこともありましたが、そのときは分かりませんでした。

そうしてマツさんの手がかりを探し始めてから1年ほど経った頃、職場で購入した本の中に、お名前と顔写真を見つけたのです。それは、私がたまたま存在を知って選書した、在沖狩俣郷友そてつの会が編んだ『宮古島狩俣100人の物語』(琉球書房、2014年)でした。2ページにまとめられた物語はマツさんの娘さんからの聞き取りで、生没年も表記されていませんでしたが、マツさんが五十歳を迎えた頃から神に仕えてきた様子を、誰よりも近くで見てきた家族からの視点で語られた大切なおはなしでした。ウヤーン(祖神、ウヤガン)としての厳しい務めを、夫や家族に支えられて長年続け、夫が亡くなったときにもルールに則ってそばに座ることを許されず納屋に追いやられていたこと。七十歳でウヤーンを退いて間もなく、ようやく自由に島を出て旅行を楽しめるようになったと話しているうちに病気が判明したこと。「皮肉にも初めての上沖が病気のためだった」(『宮古島狩俣100人の物語』より抜粋)、そしてその二ヶ月後には、狩俣に戻ることなく他界されたこと…。本に掲載された、伏し目で優しい表情の、おそらく普段のマツさんと、草冠(ウィカ)を目深に被った祖神姿のマツさんの二枚の写真を見ながら、胸にこみ上げるものがありました。

上に挙げた二冊を擦り合わせて読んでみました。外間さんが初めて狩俣に調査に訪れて記録を始めたのは1968年、44歳くらい。調査覚書によれば、そのときマツさんは64歳。以降、70歳になるまで、数回にわたる調査の中で、マツさんは数多くの神歌をうたい、記録に尽力しています。復帰前の島で、神に捧げるための門外不出の歌を、外から訪れた学者たちに伝えるまでの決意は、並大抵のものではなかったことでしょう。親子ほど歳の離れた両者が、対話を重ねる中で深い信頼が築けたからこそだと推察しますし、継承の困難さを、当時からすでにマツさんは予感していたのかもしれません。

マツさんは1975年にひっそりと亡くなられ、外間さんはその後も数々の著作や功績を残されて2012年に世を去ります。マツさんや外間さんのことをこうして面識もなく本を通してしか知らない私が書くことは、その方々の人生に土足で踏み込むようなもの、消費することではないかと何年も躊躇しましたが、ここにそっと、わたし自身の指針やお守りとなる針突のように、書き残しておきたいと思いました。

きっと今頃は天国で、おふたり時々お茶を飲んだりしているのではないかしらと勝手に想像しています。『沖縄の食文化』の頁をめくりながら、さんぴん茶に黒砂糖なぞ、つまんだりしながら。

幾つかの追記:

Twitterスペースでもご紹介した、『私の沖縄と沖縄学 ―外間守善傘寿記念誌―』(沖縄学研究所、2005年)は函に紅型の鳳凰、布張りの表紙や扉には八重山ミンサーの模様が入った美しい本です。代表的な論説は網羅しながらも、外間さんご本人の希望で、論文調ではなく一般の方々に読みやすいものを収録したとのことです。その中に微笑ましいエピソードがあります。なかなか埒のあかない狩俣での神歌調査滞在中に、部落(集落)のご婦人たちの味噌づくりを手伝い、豆をすり潰す共同作業の中で親しくなり、ようやく神歌を歌ってもらえそうなところまでこぎつけたのにNGになったことがあったそうなのです。これも『沖縄の食文化』繋がりで語り継がれてほしいですよね。スペースで話しそびれてしまったため、ここで書いておきます。

また、この本には、外間さんが2001年に沖縄県医師会創立50周年で記念講演した内容も載っていて、映画『ナビィの恋』では(*登川誠仁さんの演じた)「オジーの男心に涙がこぼれてどうしようもありませんでした」と。外間さんは『ナビィの恋』をご覧になっていたんですね!もしかすると、たぶん『パイナップル ツアーズ』も、きっと…などと、また勝手に想像してしまいます。

私はもっと、これらの本がきっかけで「ホカジョ(外間守善さん大好き女子)」が増えるといいな、沖縄について学んで、自分の足元を見つめ生きる礎にしてほしいなと思うのです。沖縄県立芸術大学が設立されるまでに大きく貢献されたこと、名桜大学の校歌を作詞されていらっしゃることなどなども、もっと知られてほしいです。

“自由と進歩の 旗かかげ/平和をめざす 我が母校/若夏立たば はばたきて/行く先々を 和やけむ”(名桜大学校歌より)

行く先々を和やかにする、それは外間さんのお人柄そのものだったかもしれません。外間さんにエンパワメントされた宮古のホカジョ達(友利敏子さん、伊志嶺敏子さん)が外間さんの還暦記念に贈ったという「大福木白き花降る夢世界」という句のことも、私はときどき思い出すでしょう。大きな福木に連なる様々な沖縄のこと、もっと知りたいですね。


追記の追記:
2年前に亡くなった同級生の宮國優子さんは、法政大学沖縄文化研究所研究員でした。自ら門戸を叩き志願したそうです。彼女は、さいが族編『読めば宮古!』(ボーダーインク、2002年)で宮古の若者のコラム集を新城和博さんとまとめ上げたリーダーで、宮古のことをいろいろな形で学び伝えていこうと試行錯誤していた人でした。彼女も思えばホカジョ。彼女なりの「宮古学」をつくっていきたかっただろうなと思うのです。奇しくも今年はその本が出て20年。私は相変わらず、根っこがありそで無さそで、ふらふらとしていますが、Yoricoさん達とこんなふうに郷土についての四方山話ができるようになった今を感謝しています。そして宮古のことを知りたいなと思った方に、いろいろな本を通して何かお手伝いができるのを楽しみにしています。ほんの少し和やかに、を心がけながら。


追記の追記の追記:
『沖縄料理物語』の古波蔵保好さん。お名前の読み方は一般的には「こはぐら・ほこう」さんですが、あるとき「こばくら・やすよし」さんだと読んで以来、どちらなのかなと未だによく分かりません。スペースでは後者の読みにしてみました。Yoricoさんが言及されていた那覇の「琉球料理 美榮」は、妹の古波蔵登美さんの創業したお店なのですね。いつか行ってみたいです!

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