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外間守善さんのこと

りょう& nee さんへ

とうとうでましたよ!
1冊の名著の復刊がこんなにも嬉しいこととは。
外間守善さん「沖縄の食文化」がちくま学芸文庫から復刊されました。
外間守善さんの沖縄関連の名著はたくさん読んできたし、現在に至っても大変学ぶことは多いわけで読んでも読んでも足りないし、最近は耄碌したのか目にも頭にも入ってこない、60近いボンクラ脳に、ああそろそろお迎え来るんだろうなとか、ヒヤリと認知症のこととか頭をよぎるなかで、生きてるうちに食べて感じてみたり聞いたり触れて学ぶフィールドワークほど私の性に合ってることはないし、今夏はカナダから帰国して本当に足繁く南洋に通ってはあちこち“のら調査”しましたが、ここにきてやっと守善さんのことが世の中に知れ渡る日がやってきたこと、奇しくも今日11月20日がご本人のご命日であられるという知らせを受けて、個人的に全く存じ上げルわけもない守善さんに、こっそり美味しいお茶と信州のお土産でいただいたりんごをお供えし、ご一緒に一服いかがでしょうかなんて、どんな沖縄のお菓子の話が聞けるだろうかとか、相変わらずひとり妄想、何の実入もないことをしては少しでも平和な気持ちでいたいものだと、願うこの頃。いや、とっても平和な時間でした。


守善さんの存在を知るのは、ハクソー・リッジの映画からでしたが、まさかそこからあれよあれよと繋がる存在であるとは本当に驚きです。
洞口依子映画祭のパンフレットのアートディレクションでお世話になったのが外間さんで、まさか御子息だとは映画祭の当時に知ることもなかったのですから、本当に愚かなものです。あんなに沖縄に通っていながら。でも、沖縄の友達の誰もがその存在を知っていたのかも謎でしたが、どうなのでしょうか。そして、戦争であの前田高地でデズモンド・ドスと戦ったであろう戦記を上梓した以外にも、もっともっとたくさんの名著を残しておられており、食に関して書かれていると知った時に、血眼になってその本の所在を調べたのですが、図書館にもどこにもない。ネットの古書で検索しまくって要約入手。諦めない努力の賜物でした。

そこへこの3年ほどの間、琉球スタディと題してのらのらと飛び込んでいったのですが、思えばこの研究も宮古島がきっかけだったと思います。そしておもろそうしの本、沖縄関連の本を漁ってゆくうちに、知らなかった琉球の謎や歴史にも触れゆくなかで、やっぱり肝心要が宮古島だったのだと。今夏は特に大きくえられるものがありました。その一つに、宮古島の狩俣におられたンマの平良マツさんという存在がありました。この方のお名前をとにかく私は何度も目にしていて、これはどういうお方なのか、少し気にはなっていたものの、あまり意識せずそっとして置いたのです。しかし、宮古島で狩俣の出身のギャラリー叶さんのお話や、図書館の資料、そして最近買い求めた南洋ハジチ紀行なるその本にもやはり平良マツさんのお名前が目に止まるのでした。そうしたら、 nee さんもこの方をかなり調べておられるようで、私が外間守善さんの南島歌謡の本が出来上がるまでに大変重要な人物であったことをそっと教えてくれたのでした。それは「南島歌謡大成 宮古編」のあとがきに守善さんによって記されていたものでした。読み進めていくうちに私は少し身震いがしましたが、これも何かのかかわりだと思い、静かに直感を研ぎ澄ませ感じるがままにしました。そしたら、今度は宮古島のバー・パルスのオーナーのpee booが私にふだん話さない話をそっと教えてくれたのです。彼からそういう話を聞くのはその晩が初めてでちょっと驚いたというか、お話は興味深いものだったので受けておきました。のちに本人からは、あまり人には教えたい話ではないし、今までもこういう話はしなかったけれど、だけどなんでか私には話しておきたくなったというあれは私にとってちょっと不思議な夜でした。

 翌朝、私は窓外に虹を見つけました。虹の出ている方へ足を向けていくと、pee booが話ていたことが忽然と目の前に現れ、不思議な光や音が聞こえてきました。神とかそういうものを超えた自然の現象だと私は受け止めましたが、なんだかじんわり気持ちが穏やかになってくると、合わせ鏡のように、今の世界とは別の世界を覗いたのです。トンチンカンなことですが、やっぱり2007年になぜ縁もゆかりもないこの宮古島を選んだのか、不定期だけどコツコツ通い始めてよかったんだと、その朝、初めて溜飲が下がったというか、納得できたのです。つまり、私にとって母的な存在だったのです、宮古島は。「宮」というのはまさに、母性性なのだと。まあ私のトンチンカンな話はここまでにしときましょう。


 守善さんがこの宮古島にフィールドワークでいらした時もきっと何か手応えを感じられたことと私はふと思います。そして平良マツさんの存在があったからこそ、狩俣の神歌も然り。守善さんはこうした地道な努力というにはあまりにも壮大な研究の成果をきちんと書物に残してくださった。ゆえに滅びること、忘れ去られてゆくことの危惧はあるのだという気づきも、私のような“のら”の部外者の民俗学的興味からでも再考させられたのでした。

そして、宮古島では、いつも当たり前のように口にしている食べ物、食に関しての考察にも気付かされました。土地の料理人の知恵、口にしたこともない苔類や島豆腐の在り方。季節のもてなし。戦争の虚しさ。歴史の気高さ。家庭の味。食の尊さ。改めて復刊された沖縄の食文化を読んでこれを教育の場でも引用したら、そして料理人やお母さんたちが読んだらどうだろうかと、のら猫は髭を舐めながら思うのでした。この名著復刊に私がほんの猫の手ほどですが協力できたということも大変光栄であります。何事も諦めない、ずっと愛し続けるということの尊さ。そして、沖縄戦の激戦をくぐってきた外間守善さんが書かれた食についてのあれこれを、ぜひ多くの人に届いたならばどんなに平和で豊かなことにつながるだろうかと思うのです。
それにしてもこれだけの方、沖縄は外間守善資料館など建てるつもりはないのかしら。

蛇の如くにょろりとうねった話を最後まで読んでくれてありがとう。

ヨーリーより


にょろにょろり

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