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【日々】打撲痛と鼻毛抜き|二〇二三年七月




二〇二三年七月二十四日

 いつも比較的すいている一本早い電車に頑張って間に合わせて、ロングシートに腰を落ち着ける。これでゆっくり本が読める。そうおもってカバンをあけると、ない。忘れてきた。汗だくでぐったりする。やることがないので「日記」の編集。汗で湿った肌と服がゆっくり冷えてかわいてゆく。

 すきなひと、慕っているひとが怒ったり、憎んだり、激しい負の感情を見せているときってどうしてこうも悲しく、こころ落ち着かなくなるのだろう。そういうとき、自分がなにか原因のひとつをつくっていやしないかと、不安な気持ちも滲んでくる。要は、わたしはわたし自身が嫌われて傷つくのが嫌なだけなんだなと、またガッカリする。軽快な音楽も、きょうはこころをのせてくれない。駅からの夜道、きょうは肌を触る風がひんやりしている。




二〇二三年七月二十五日

 家を出てすぐ、歩道を横柄に走る自転車にさっそくムッとしてしまいながら、今朝みた池田彩乃さんのことばを思いかえしている。


 今朝、唐突に太宰治を読みたくなった。図書館の蔵書を検索するも貸出中。いますぐ読みたい気がしたので、そのまま身支度して早めに出かける。駅前の書店にかけこむやいなや、くどうれいんさんのサイン本にうっかり目が留まる。ほしい。どうせこの本は買うつもりなのだし。でも月末で厳しい。新潮文庫の棚をみる。太宰があったらいっしょに買ってしまおう。そして、みつけてしまった目当ての背表紙。二冊抱きしめてレジへ。財布からっぽなので支払いはカード。ばかみたいだけどめちゃくちゃうれしい気分。




二〇二三年七月二十六日

 おもったよりすんなり目が覚めた。深い眠りからは七時くらいにはもう戻ってきていたような感覚。でも、睡眠分析をみるとねむりはずっと浅いことになっている。結局起きたのは八時をずいぶんまわったころ。
 久方ぶりにTeamsでオンライン通話をつなぎ、保険屋の営業をそこそこに聴き流す。久しぶりすぎてビデオONにするボタンがどこだったか、探すのに手間取ってしまう。担当の男のひと、ずっと音楽一筋で、前職はピアノの調律師だったという。そのまま続けていてほしかったなとおもう。そうめんを茹でる。ハーブティーを淹れる。おもったより酸っぱい。

 すこし陽が傾き始めたころ家を出る。まだ焼けるように暑い。熱い。まっしろな世界、街路樹がつくるトンネル、あるく学生服と日傘のうしろ姿、うっすら浮かぶ月。



 渋谷でY先輩と合流して、駆けつけ一杯生ビール。冷えたグラス、ふんわり口を包む泡、喉ごし。ああ生きてる。ビール二杯でおいとまして、渋谷川のほとりをすこしあるく。スーツ姿のサラリーマンへの優越感を味わいながら。時間的には世間は定時ごろ、大抵の人はこれから残業。おつかれさま。まだ明るいけれど、風はだいぶ涼しい。ちょっと酒を抜いたら二軒目で、ふたりのかつての上司を迎えて一席。あの頃ことあるごとに示してもらっていた「どうせ働くならたのしく」の精神をおもいだす。やることはやる。抜けるところは抜く。基本八割でいい。つくった余裕でおもしろがる。会社のために働くわけじゃない。たのしかったけれど、帰り道に残った後味はふしぎと、淋しさだった。自分が捨ててきたものの尊さと、何年経っても根本的にはなにも進歩していない、薄くて浅い自分の姿。それらが、あの頃と変わらない、心から敬愛するかつての上司の姿を通して迫ってくる。スーパーで缶ビールとカップ焼きそばを買って帰る。




二〇二三年七月二十七日

 ゆっくり起きて、このところできていなかったあれこれに手をつける。爪切りとか、排水溝の掃除とか、メモの整理とか、旅行の計画とか、やることと期日の再確認とか。池田彩乃さんの「公園」に入る。ゆんわりと、やさしいにおいのする宇宙で、とっても気にいる。Twitterにいるより、こっちのほうがおだやかに、まあるいきもちですごせそう。

 シャワーで汗を流したら、再放送のドラマを垂れ流しながら、ハーゲンダッツをたべてソファに寝そべる。うとうと。なつやすみ。朝、ベッドから落っこちたときにしたたかに打った左の上腕が一日ずっと痛くて、力が入らない。右の膝頭も痛い。




二〇二三年七月二十八日

 いつもより一時間はやく家を出る。途中、アパートから大きなスーツケースをころがしながら女の人が出てきて、わたしの前をあるきだす。自分にちょうど良いペースで歩くと、ちょっとずつ距離が詰まってしまう。でも、追い越すには頑張って走らないといけない。いちばん嫌なシーン。わたしはできる限り、知らない人の後ろをあるきたくない。前を歩くのが女性なら尚更だ。何もしていないのに怪しい雰囲気が滲んでしまうから。わたしのように弱くてみにくい男は、ただ生きているだけで社会の異物だし、それが自業自得であることは認めている。でも、納得はしていない。official弱男dismである。その時々の自分に心地よいペースで、あるきたいなあ。いろんな意味で、生きているとなかなかそれが叶わない。うずまく自意識と自分勝手。

 電車にのり、ロングシートに落ち着いて本を開く。途中、となりにすわった女性がせっせと化粧をはじめる。別に否定するつもりは毛頭ないけれど、周囲の人を人として認知していたらできないことだろうとおもう。衆目の前で鼻毛を抜いているのと、大差はなかろう。こんな意地悪をおもうのはいまそれを横目にしつつひらいている本が太宰だからだろうか。こんなことを言えば先生はきっとおれのせいにするな、お前は卑猥だと仰るかもしれない。まあその通りだろう。淑女は相変わらず、じっくりせっせと鼻毛抜きをしている。彼女はそれで良い。ここにいる十数名に鼻毛抜きをみられたところで、これから会うひとりふたりにさえうつくしくあればそれで良い。こんな偉そうなことを言うわたしの鼻毛も今、だらしなくはみ出していないとも言えない。結局、いちばん滑稽なのはいつもわたし自身だ。

 帰りの電車でもぐったり疲れた。程よい時間、電車移動があるのは本が読めてわるくないとおもっていたけれど、この頃はもう車内におかしな有象無象が多すぎて、目の前の文字に集中できないこともたびたび。神経をすり減らしておわる。しずかなところに暮らしたい。駅からの道々はそんな絶望にくたびれていたけれど、帰ってごはんたべたらあらかた飲みくだせちゃってケロリ。こういう感情、書いてスッキリすることもあれば、書き残してしまうことで無駄に反芻することもあるなあ。うまく、毒はためずに吐き出して、必要以上に言語化しないことも心がけたいねえ。


 きょうも腕と膝は痛いまま。




二〇二三年七月二十九日

 一日、オフィスでの時間を耐え忍んだ。缶ビールを買って凍える寒さのスーパーを出る。生暖かい世界につつまれながら、とおくにセミのみじかい悲鳴を聞く。ジジジジジッ。そういえば、いま昼間ってセミたちがにぎやかに鳴いているのだっけ。日中出歩いているはずなのに、それがわからないことに気づく。夏の真ん中で、わたしはひとり閉じてなにをしているんだろう。


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