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ポラリスとライト・ハウス




なほさんの、「だれかにとっての北極星に」という願いにふれて、そのイメージと、ことばの選びかたに胸の奥がきらきらした。



ざっくりとインターネットで調べてみると、「北極星」とは地球の自転軸を北極側に引き伸ばした先、天球上の北極にあたる部分にもっとも近い星をさしているらしい。そのため常に地表からみて真北にみえ、視覚的な位置も変わらないから、古くから方角の目印にされてきた。

ふと、鳥たちも星を目印に飛ぶのじゃなかったっけ、と思いつく。これも実際、「渡り」の際の長距離飛行では、昼は太陽を、夜は星の位置を使って進路をとるらしい。「わたしたち」はどうだろう。そうおもってさらにネットの海をつついてみると、「ツグミ」は冬鳥、すなわち冬から春先にかけて越冬のために北から旅してくる、いわゆる渡り鳥。「オナガ」はといえば「渡り」を行わない、いわゆる留鳥。そうかあ。



自分がどこにいるかわからなくなってしまっても、晴れた夜空をみあげれば必ずそこにいて、ひと目でみずからの立つ場所を再確認させてくれる、美しい夜のビロードにちかちか煌めく星。街に根を下ろし、みずからきらきらと光を放ちながら、だれかの道標になったり、その輝きをめざしてさまざまな訪れがあったり、うつむいていた顔をハッと起こしてくれたりする、彼女のお店。わたしはすでに、その願いは叶いつつあるのだろうとおもっている。

オナガは〝旅しない〟らしいのだけど、でも今のわたしの世界には、見あげれば「つぐみ」と呼ばれる北極星が瞬いていて、目線を戻せば地平のあたりでぽつり、ぽつりと光をおくっている「点滅社」の名をもつ灯台もあって、そんなふたつの光を頼りに、わたしは死にきれない今世をなんとかあるいている。足元もおぼつかない暗闇のなかだけれど、わたしの眼はそんな導きの光をふたつも捉えることができているのだから、存外恵まれているのかもしれない。苦しいし救いはないけれど、まだもう少し歩ける。そう思える。



わたしは星にも灯台にもなれそうにないな、とおもう。でもそうだな、せめて、せめてほたるとかに、なれないかな。綺麗に澄んだちいさな川の底で、ぽつりと光るほたるの、子ども。ぴかぴかの大人になって夜空を舞えるかというと、ちょっと自信がない。でもせめて、小川のうつくしさにすこし花を添えるような、ちいさな光でも点せたら、いい。どんなに姿が醜くても、それならうつくしくみえる気がする。ただ自分が自分自身であるだけでなくて、少しだけでいい、ほんのわずかでいいから、あのひとたちみたいに、だれかの救いになってからいなくなれたらいいなあとおもうのは、傲慢な願いだろうか。

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