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菊池信一への手紙を読み解く 6 当時の電話と葉書、除草

宮沢賢治から教え子の菊池信一あての手紙を読み解き、賢治の考えや、当時の農業技術について考えます。

賢治の手紙

書簡239 「1928年7月3日 菊池信一あて封書」 倒れる前の賢治の予定
https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202107250000/

「もしお仕事のすきまにおいでになれるならお待ちして居ります。葉書をさきにお出しください。」

電話より葉書の時代

前年の詩「もうはたらくな」で「さあ一ぺん帰って測候所へ電話をかけ 」とあるとおり、宮澤家には電話があったと思われます。しかし、当時の電話は、災害や急病などの非常時に使うもので、葉書で連絡をとりあうのが普通だったのでしょう。

昭和2年ごろの電話加入料金は1220円、年間基本料金が45円でした。公衆電話料金は3分で5銭(0.05円)でした。
一方、葉書は1銭5厘(0.015円)でした。

菊池家の除草作業

「肥料の本もそのときはお返しいたせます。一番除草でお忙しいでせうが折角お身体大切に。 まづは。」

当時は水田除草剤がありません。6月5~20日ころに田植えを行ったあとに10~14日ごとに3回中耕除草を行っていました。
大農家であった菊池家では、手押し式の人力除草機を使い、7月3日ころは、まだ、1回目の除草作業が終わっていなかったと思われます。

1928(昭和3)7月3日の年菊池信一への書簡の読み解きは、今回で終了です。
今後は、1928(昭和3)年7月20日に発熱し、8月10日に倒れたころの賢治について、調べてみます。

#宮沢賢治 #菊池信一 #手紙 #電話 #除草

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