わたしの美しき人生論 第2話「士官学校の騒がしい朝」
亡羊士官学校の学生たちは、月曜日から土曜日まで、朝六時の鐘の音で目覚める。たいていの者は、顔を洗って着替えを済ますと、寮の部屋から出てすぐに大食堂へ向かい、朝食を摂る。
亡羊士官学校は、国内で唯一の、貴族や爵位をもつもの、大商人の子息のための寄宿学校である。
いずれ王の座を継ぐ者も、国を覆すほどの力を持つ政商の跡取りも、軍師を目指す者も、朝は皆一様に、肩を並べて、大食堂で朝食のベーコンやハッシュドポテトを口にする。年齢は一番幼い者で十二歳に満たぬもの、上は二十歳を超える成人も少なくない。
ここ数日、食堂では〈春の女神〉の話題で持ちきりだった。
長く厳しい冬があと数ヶ月続くと思われた十二月、突然国中に春風が吹き、花々が芽吹いたのだ。士官学校の者だけでなく、国中の人々が、〈彼女〉の目覚めを確信した。
人々が千年も待った、救世の女神だ!
「でもさ、まだ部屋から出てないんだって」
キリーヌ・リリエンタールはいかにもいたずらっ子らしいニヤニヤとした悪意ある笑みを浮かべ、クリーム色の絹糸のような髪の先端がポトフに漬かっているのにも気づいていないようだった。
隣に座っている、キリーヌと瓜二つの顔をした、キリーヌの双子の片割れのレーム・リリエンタールが、キリーヌのほうを向くこともなく、丁寧な動作でかぼちゃのスープを一匙すくって舐めると、ぽつんと言った。
「石女なんじゃない」
そしてレームは、自分の言ったことに思わず噴き出して、キリーヌと顔を見合わせると腹を抱えて笑った。
キリーヌはもう耐えられないといったふうにスプーンをテーブルに投げやると、
「傑作じゃない? いきり立ったやつらはどうする? タバランなんて、町の卜者を十人も雇って、日がな一日、いつ女神が姿をあらわすのか大騒ぎしてるっていうのに」と言って、また大笑いした。
レームは口元を手で隠して、ないしょ話をしているように見せかけながら、周りに聞こえるような大声で、喧伝した。
「モーラをみてごらんよ。女神様が来てから突然バイオリンの練習曲を変えたんだ。まさかと思うでしょう?もちろんクライスラーの「愛の喜び」だよ!」
「愛の喜び!」
レームは両足を踏み鳴らして身体中をふるわせて笑いころげた。
こけにされたモーラ・シャペイは、双子の目の前の席に座っていた。平然を装った表情で、ちいさな口でうさぎ肉のソーセージを噛み切っては咀嚼している。それから双子は、モーラについてのうわさ話を絶えまなく続け、おどろくほど長いモーラの睫毛が下を向いて、瞳の色さえうかがえないほど、彼は深くうつむいた。
まわりの誰もが、けなげな少女のように、沈黙をつらぬき、小さな唇をかみ、辱めを受けているモーラを憐れに思った。
すると一人の長身の男がモーラに助け舟を出した。
「双子さん、モーラがヴァイオリンの練習曲を変えたのは、わたくしの進言です。モーラはもうエチュードをうまく弾きこなせますから」
優男風で、双子やモーラよりもずっと成熟した、美しい男は、長い指でキリーヌがテーブルに投げ捨てたスプーンを手にとって、配膳用のプレートの上に載せた。
「なんだ、ただのうわさ話じゃないか、イシュタール? それにしたって、〈潮吹き亭〉を丸3日も休んで、こんなところで給仕のまねごとをしてるなんて、なんのつもりなの?」
イシュタール・プリヴァ=リヴモンは、街にあるカフェ・バー〈潮吹き亭〉のマスターで、名の知れたバーテンダーだった。そして、この亡羊士官学校の卒業生でもあった。
「それはもちろん、愛の喜びのためですよ。春の女神が目覚めてから、町じゅうの男たちがこの寄宿学校へ駆けつけたのですから。そして、麗しいその御姿を一目見ようと躍起になっていました。わたくしはたまたま、食堂の厨房で働くことをゆるされましたし、謁見ができる機会をうかがっているのです」
「女のためにそこまでやるなんて、ふしだらだ」
レームは子どもらしい、性への反感を口にした。イシュタールは、たまらず微笑をこぼした。
「けれど……三日前の白昼、あなたもおわかりになったでしょう?自分が、民の上に立つ貴族であるとか、成績優秀な魔法使いであるとか、そういった自分の肩書き、アイデンティティがすべて消え去り、ただの一人の雄になった、その瞬間の快楽をよもやお忘れではないでしょう?」
レームの曇りひとつない青白い肌がにわかに赤く染まっていくのが、誰から見ても明らかだった。それはキリーヌも同様だった。
三日前、女神ユハが目を覚まし、突然町に季節外れの春が訪れたとき、幼い二人は初めて、熱を帯びて屹立する、もう一人の自分に困惑し、狼狽えた。それは双子の間でさえ、けっして話題にのぼることはなかった。
アレは、ボクひとりの現象じゃなかった……。
小さな両手でコップを持ち、レモネードを飲んでいる、可憐なモーラも、いつも余裕たっぷりで、上品な色気で町娘たちの心をつかんで離さないバーテンダーのイシュタールも、そして……
キリーヌとレームは、大食堂の隅に座り、誰とも会話するでもなくぼんやりしていた青年の方を指さした。
「皇子、あなたも汚らわしいことをなさったの?」
騒がしい双子に指さされた青年は、栗色の瞳をぱちくりさせ、それから柔和な笑みを浮かべた。
「三日前の話かい。実はぼくは、女神様に偶然おめみえすることができた。そしてひと目で恋したよ。淫佚なことはなにもなく、ぼくたちはただ見つめあった。彼女は愛らしく、まさしく、未来の王女にふさわしい窈窕な淑女だった。ぼくは彼女に最もふさわしいギンバイカの木の枝を手折って渡した」
大食堂じゅうがざわめいた。十二月に春をもたらした女神。この国の繁栄をもたらす運命をもつ娘が、すでにアグヌスデイ帝国の未来の君主、エイベル・フォン・シュルトハイス皇子と邂逅していたのだ。
授業開始の予鈴の鐘が学校中に響き渡った。しかし大食堂にいた誰しもが席を立とうとしなかった。朝食を嘔吐する者や、思わず涙する者、流感にかかったように震えだす者まであらわれた。その騒ぎは、宦官の使用人たちが無理やりに学生たちを大食堂から追い出すまで終わらなかった。