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SADISTIC MIKA BAND

黒船[74]SADISTIC MIKA BAND

DOUGHNUT[東芝EMI] (FIRST PRESS ORIGINAL)*見本盤

[初回盤は、帯が上から被せるタイプが使われた!]

バンド名の由来であるが、John Lennonが結成していた(Plastic Ono Band)をもじったもので、また、ボーカルのミカの包丁使いがあまりにSADISTICだったことに由来する。1971年11月、元ザ・フォーク・クルセダーズの加藤和彦(ギター、ボーカル)/加藤ミカ(ボーカル)/角田ひろ(ドラムス、現:つのだ☆ひろ)のメンバーで結成される。そこに高中正義(リードギター)が加入し、1972年にシングル[サイクリングブギ]でデビュー。その後まもなくして角田が自らのバンドを結成する為に脱退する。ドラマーとして大口広司の一時加入を経た後、高橋幸宏が参加、高橋に誘われる形で小原礼(ベース)がメンバーとなる。1973年、ファーストアルバム[SADISTIC MIKA BAND]を発表このアルバムは発売当初は数千枚しか売れなかったが、イギリス、特にロンドンで評判となり逆輸入という形で日本でも評価されるようになった。一枚目のアルバムも74年5月にイギリスでも発売された。1974年、ファーストアルバムを聴いたイギリスの音楽プロデューサー、Chris Thomas(ザ・ビートルズの通称ホワイト・アルバム[The BEATLES]ではアシスタント・プロデューサーとして参加、ピンク・フロイドの[THE DARK SIDE OF THE MOON(狂気)=所有]ではエンジニアとして、セックス・ピストルズの[NEVER MIND THE BOLLOCKS, HERE'S THE SEX PISTOLS(勝手にしやがれ!!=所有]を手掛けたことで有名)からプロデュースの話があり、セカンドアルバ[黒船-BLACK SHIP]を米英で発表[本格的に海外で発売された日本初のロックアルバム!](塀までひとっとび)-SUKI SUKI SUKI)というタイトルで、(颱風歌-TYPHOON)としてシングル・カットされた。このレコーディングには実に450時間が費やされた。このアルバムはそのタイトルが示すとおり[黒船](ペリー来航時の黒船)をモチーフにしたストーリー仕立てのアルバムなので、A面で黒船が日本に近寄ってくるところから日本に上陸するまでを、B面で開国後の日本の様子が表れているような内容になっている。[黒船]リリース後、小原礼が脱退し、後藤次利がベースとして参加。サードアルバム[HOT! MENU]をリリース後、1975年には、Roxy Musicの全英ツアーにおいてオープニングアクトを務めRoxyの時間を大幅に食ってしまった。日本ロック史上に残る名盤/傑作!代表曲(タイムマシンにおねがい)/格好良いベース(小原礼のベースが凄い!)/カッティング/ソロが素晴らしいfunky(塀までひとっとび)収録!***加藤和彦:2009年10月17日、長野県北佐久郡軽井沢町のホテルで遺体となって発見された。死因は首吊りによる自殺と見られている62歳没/高橋幸宏:2023年(令和5年)1月11日午前5時59分、脳腫瘍により併発した誤嚥性肺炎のため長野県軽井沢で死去70歳没***

墨絵の国へ
何かが海をやってくる
タイムマシンにおねがい
黒船 嘉永六年六月二日
黒船 嘉永六年六月三日
黒船 嘉永六年六月四日
よろしくどうぞ
どんたく
四季頌歌
塀までひとっとび
颱風歌
さようなら

加藤和彦/ミカ/高橋幸宏/小原礼/今井裕/高中正義


https://youtu.be/TUTxs_TBV-8?t=13
加藤和彦 - Wikipedia
 

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