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       「蛤女房」

 江戸の頃、春の節句の時期ともなると、深川や品川、高輪辺りは潮干狩りの人出で賑わったと云います。朝のうちに船で沖へでて潮が引くのを待つ。昼頃にはすっかり干潟となりますので、貝を拾ったり汐溜りで魚を捕まえたり、毛氈を敷いて飲んだり食べたりして楽しむというのが年中行事のひとつだったそうで――

「おい、徳二郎はどこへ行った? 今日は出潮が少し早いようだよ。船頭たちが慌てて帰り支度を始めてるじゃないか。早く徳二郎を探しておいで」

「ええ、旦那様。それが――さっきから小僧たちに言いつけてはあるんですが……おい、亀吉、居たかい?」

「あっ、番頭さん、見て下さい。こんな大きな蛤――」

「蛤なんぞもういいんだよ。若旦那を見つけて来いとあたしは――これこれ、小言を聴きながら足でもって砂ほじくって貝を探すんじゃない、もう潮干狩りは仕舞いにして――おい定吉、お前みたいな子供がね、小手をかざして見回したって見つかりゃしないよ。身体を使いなさい、身体を。若旦那ーッて呼びながらぐるっと一回りしといで」

「やったんですよ、番頭さん。そしたら、なんだいッてな顔でみんながあたしを振り向くン……どうも今日は若旦那の出物が多い」

「ああ、もういい、あたしが行くよ。お前たちまで迷子にでもなられたら、よけい面倒だ。船ンとこで待っておいで」

「ねえねえ、番頭さん。ひょっとして若旦那、潮干狩りなんぞ飽きちゃって、一人で浜へ上がって、向こうの女郎屋の二階かなんかで――」

「これ、子供がそういうことを云うんじゃない。大体、家の若旦那が行くと思うかい? いい歳をして品川へ遊びに行こうなんて云うから、あたしゃてっきり女郎屋かと思ってそわそわしてたら、店総出で潮干狩りだよ。まあ、二代目が堅いってのはお店にとっちゃあいいことだけどね、もう少し年相応
の――おっと、こりゃいけない、砂地にあぶくが出てきたよ。早いとこ見つけてこないと――」

 云ってるところへ向こうから、帰り支度に右往左往する客の間をフワフワと、雲を踏むような足取りでやってきたのが若旦那の徳二郎。

「あっ、若旦那。ようございました。今、みんなで探していたところで……若旦那? どうなさいました、なんかぼんやりなすって――若旦那? あの、若旦那?」

 番頭の前をふらふらと横切ると、砂地にペタリと座り込んで、

「ああ、お父っあん……もう一度会いたい」

「おい、しっかりおしよ、あたしなら目の前に居るだろ。さあさあ、膝が濡れるから早く船へお上がり。潮がさしてくるよ」

 番頭や小僧たちが手伝って、徳二郎を船へ乗せる。水を一杯もらってようやく人心地がついたものか、

「あたしは蛤を拾うのに夢中になって、下ばかり見て歩いていたんです。こっちでひとつ、あちらでまたひとつ……と、浅蜊や蛤に混じって、黒光りする砂地に可愛らしい桜貝が五枚ならんでる――と思ったら女の人の足でした。ほんのり紅色をした爪の先から細い足首と続いてその先に、からげた裾から覗くふくらはぎが眩しいほどに真っ白で――

 はっとして顔を上げると、思いの外、相手の顔も間近にあって――あたしはこんなに近くから女の人を見たのは初めてだったけど、ああ、なんて美しい人なんだろうと……あたしがあんまりまじまじと見ていたもんだから、女の人は恥ずかしそうに顔を伏せてね、ついと後ろへ下がろうとして――汐溜りの鰈でも踏んだんだろう、あっと小さく声を上げると、あたしの方へよろけて――

 女の人ってのは軽いもんだねェ。よく亀吉なんかと相撲を取るけど、同じ懐に飛び込んで来るんでも全然違ってて……ありがとうございますって、消え入るような声がしたけれど、なんだかこっちのほうがありがたいようなくすぐったいような……はぁ」

「やれやれ、お前もやっとそういうことを云うようになったかい。いくつになっても色気づかないんで心配をしていたんだが――それで、相手の娘さんはどこのお人だい?」

「それが……」

「聞かなかったのかい? 名前も――住んでるとこも? それじゃお前――」

「潮が来る、潮が差してくる――って、どこかで誰かが叫んで、お嬢様、お早くって声がして――それで……」

「どこの誰かもわからないんじゃ、探しようがないだろう。お前がやっとその気になったというのに――」

「で、でも、その代わりにこれを――」

「なんだい? 蛤の殻じゃないか」

「女の人は行きかけて、一度あたしの方を振り返ったんです。その目がなにかもの言いたげで……それまであたしは夢でも見ているみたいにぼんやりしていたんですけど、はっと思って――それで持っていた蛤の口を小刀で開いて、片方の殻を女の人に向かってポーンと放って……

 ね、蛤の殻ってのは元の同じ殻同士でないとぴったり合わないんですから、どうかもう一度会いたいっていう思いで――向こうもその殻を受けとめると胸元ンところへ持ってって、両手でしっかり押さえてコックリとうなずいてくれて……はぁ」

 家へ帰っても徳二郎のため息は収まらない。それからは炎天下の野良犬みたいにのべつハアハア云いながら、江戸の町をあてもなくあっちへふらふら、こっちへよろよろ――

 旦那の方でもこの機会を逃したら、いつまた息子がその気になってくれるかわからないので、奥さんと相談をしまして、

「なあ、徳二郎。どうだい、ただ闇雲に歩き回ったって見つかるもんじゃない。それよりお前の持っている蛤の殻――あれを頼りに探してみることにしちゃあ。この伊勢屋の名前を出してな、当方の持つ蛤の殻とぴったり合うものをお持ちの方には五両差し上げると……これならお前――」

「だ、だめですよ、お父っつあん。そんなんじゃあ――」

「だめかい? そうだな……伊勢屋の名を出すんだ。これだけの店を構えて五両というのは世間様に申し訳ない。倍の十両……いや、二十両てことで――」

「違いますよ。そんなことをしたら金目当てみたいで、向こうだって名乗りでたくとも出にくいじゃあありませんか」

「それじゃあどうする。他になんと云って探すんだ」

「ここはもうはっきり、蛤の殻が合った方は伊勢屋の嫁にすると、そう云ってもらいましょう」

「嫁にするたってお前、まだ一度ッきり――それもろくに言葉だって交わしちゃいないんだろ。相手のお嬢さんがどこのどんな人なのかもわからないで、いきなりそんなことは――」

「いいえ、決めたんです。あたしはあの人と一緒ンなる。あの人だってあたしと一緒ンなろうという気持ちがあれば、きっと名乗りでてくれます。もし現れなかったその時は、もう一生、女の人とは縁がないものと思って仏門に――」

「おい、お待ちよ――やれやれ、やっとその気になってくれたと思ったら、今度は一途に思い込んじまって……極端だな、どうも。もうちっと真ん中辺りでぶらぶらしてくれりゃあいいんだが……」

 文句を云いながらも、これを逃しては孫の顔も見られないとばかりに、店の前に大きく張り紙を出す、出入りの者に頼んで方々で噂を広めてもらう、湯屋や髪結床で評判にしてもらう。いろいろやったその甲斐あって、幾日もしないうちに伊勢屋の前には蛤を持った娘の行列ができます。殻が合いさえすりゃあ大店の嫁になれるんですから、試して損はない。

 あんまり賑わうんでそれを目当てに屋台まで出て、中には抜け目のないのが焼き蛤の屋台なんてのを出す。ひょっとしてこれがくっつきゃしないかと、そこで蛤を買っちゃあまた列の後ろに並んだりするのがあとを絶たずで――

 伊勢屋の方でも商売に障るので、脇に露台を出し、小僧を一人つけて行列をさばく。いいつけられた定吉は、徳二郎の蛤と相手の持ってきた蛤とをくっつけちゃあ、つまらなそうに、

「はい……残念、次の人――はい……残念、次の人――はい……残念、はい――アチチチチ! 焼き蛤の人はお断り! あーもう、なんだってあたいがこんなことしなきゃなんないんだろ。ちっとも面白くないや。亀どん、代わってくんないかな……はい……残念、はい……残念――お店の方だったらさ、ご用事頼まれて外へ出たりして、ちょっとは道草くったりできるのに……

 はい……残念、はい……残念――たまにお駄賃もらってさ、お芋かなんか買って食べて……あー、いい匂い。焼き蛤のお醤油の焦げる匂いだけこっちへ来るんだよ……殻はもういいから、中身持ってきてくれないかな……はい……残念、はい……残念、はい……残――あ、あれェ? ちょ、ちょっとこれ……」

 ふたつの殻がぴったりと合ったものだから定吉は驚いて顔を上げ、目の前の相手を見て二度びっくり。

「えっ? あ、あの、これ……あなたの? エ、エエェ? えーと……じ、じゃあちょっとあの、ここで待ってて下さい――すぐ……すぐ来ますから――番頭さん、番頭さん、千両富、千両富!」 

「なんだい、千両富って」

「当たった、当たった、蛤が当たったんですよ」

「表の焼き蛤かい? 客が捌ききれないで、生焼けでも出したんだろ」

「違いますよ、若旦那の蛤――ほら、ぴったり」

「本当かい? ちょっと見せてごらん――おお……合ってる。こりゃすぐに若旦那にお知らせしないと」

「あ、あの――その前にまず、こっちの心の準備を――」

「なんだい、心の準備って」

「あのね、若旦那って御方は、いままで女の人には目もくれなかったんですよね」

「そうだよ。これまで見合いの話もなかったわけじゃあないが、どんな美人が相手でも、あたしにはまだ早いとか云って――」

「ね。それが今度に限って御自分から、美人だ、美人だ――って。あたい、おかしいと思ってたんですよ。こりゃひょっとすると若旦那、あたいたちとは女の人の好みが違うんじゃあないかと……」

「なにが云いたいんだい、お前は」

「番頭さんも船の上で若旦那の云ったこと、お聞きになったでしょ」

「ああ、桜貝が五枚で、ふくらはぎが白くって――」

「あれ聞いて、どんな女の人を思い浮かべました?」

「そりゃお前、色が白くてほっそりとした柳腰……歳は十七、八で、伏目がちな憂いを含んだ瞳に上品な口許――」

「そんなこと、若旦那ひと言も云ってませんよ。顔についての具体的な描写は一切なく、巧妙に伏せられていた……」

「なんだい、その云い方は――いったい、その蛤がぴったり合ったって御方というのはどんな――」

「おーい、いつまで待たせっぺや。こっちゃァ伊勢屋の嫁ッこになる身だぞォ」

「で、出た――番頭さん、あ、あれが……」

「エエッ? だ、だってお前……桜貝って、あれ……トコブシじゃあないかい」

「うんうん」

「細い足首ってのは――」

「ふくらはぎが太過ぎるから、逆にそう見えるんですよ」

「確か、女の人ってのは軽いとか……」

「若旦那なめちゃいけませんよ。いつもあの太った亀どん相手に相撲をとって、怒濤のぶちかましを何発も胸で受け止めてるんですから。それに比べりゃ、あのおばさんがちょいとよろけたくらい――」

「なァにゴダゴダ云ってッかね。早えとこ若旦那に会わせてくんねえと、オラ店先で尻ィ捲くるぞ」

「たッ、ただいま――とにかくな、定吉、若旦那がこれがいいと仰ったんだ。あたしらがどう足掻いたところで……ただこの先、長いこと奉公できるかどうか――ええ、若旦那、ええ、若旦那」

「どうしたい、番頭さん」

「あ、あのッ……若旦那の蛤のお相手が……ククッ」

「なにを泣いてるんだい。見つかったのかい? 今、店の前に居る? ばかだね、どうして中へお通ししないんだ。いいよ、いいよ、あたしが行くから――ええ……どこだい、どこにいらっしゃるんだい?」

「えー……目の前で仁王立ちンなってらっしゃる――それ……」

「えっ? あ、ああ――お遣いの方」

「また、そだらことォ。オラだよォ、あン時の――蛤がなによりの証拠だっぺ」

「エエッ? ち、違う、違う――だって……桜貝って云うより、そりゃトコブシ」

「よかった……これからも若旦那とはうまくやっていける」

「とにかくね、これはなんかの間違いだから――」

「間違いッてのはなにかね? お前ンとこじゃあ、蛤の殻がピッタンコと合ったもンを嫁ッこにするって、そういう話じゃァなかったんかね」

「そりゃ、そうは云ったが、あたしが渡したのはもっとこう――」

「なにかね、伊勢屋ッちゅうたらこんだけ大きな暖簾ぶる下げて、約束のひとつも守らねえッぺか? おーい、伊勢屋ッちゅうのはこんだけ大きな暖簾ぶる下げて――」

「これこれこれ、店の前でなにを騒いでいるんだ」

「あっ、旦那様。お帰りなさいまし」

「お帰りなさいませ」

「おかえンなさいませ」

「へえ、お前さまが伊勢屋の主人かね」

「はい、わたくしが主の伊勢屋徳兵衛でございますが……あなた様は――」

「今度ここン家の嫁ンなる、浜ッてェもんだ」

「嫁って――ああたが? おお、徳二郎――親子といえど、人の好みは解らんものだ」

「違うんですよ、こりゃなんかの間違いで――」

「間違い間違いッて、蛤の殻ァ合ったッぺよぉ」

「ええ、ここではなんですから、どうぞ上がって頂いて――おい、家のはどうしてる? 居るのか。じゃあこっちへ呼んで一緒に――」

 主夫婦に伜の徳二郎、三人そろってお浜と顔を合わせる。おかみさんなんかはお浜を一目見るなり、あっ、と云ってその場に倒れそうになりましたが、気丈にも箪笥を支えに踏みとどまり、

「し、失礼ですが、お歳はお幾つに――」

「四十の坂ァ、とうに越えたな」

「ハァ……男の子はいくつになっても母親の面影を求めるとか云うけれど、歳まで求めなくっても……」

「ですからこれは間違いだと――」

「だけどお前、蛤の殻は合ったんだろ――合ったんだな……諦めなさい」

「ええ?」

「蛤の殻が合った者を嫁にすると云い出したのはお前だよ。そのことをあたしは、伊勢屋の名でもって世間様に広めたんた。いまさら間違いでしたと断ったのでは家の暖簾に傷がつく。商いは信用第一、たとえどんなことがあろうとも、お前も商売人の伜なら口に出したことは守っておくれ」

「ハア、さすが大店の主人だ、偉いねェ。そいじゃまあ、これからよろしくお願いすッぺ」

 祝言なんかはいずれ時期をみて、ということで、お浜はこの家で暮らすことになります。伊勢屋は潮干狩りでえらいものを拾って来たの、ありゃ蛤というより法螺貝だのと、伊勢屋の蛤女房の噂で世間は賑わいますが、当のお浜は知らぬ顔で、徳二郎と向かい合って朝から三杯飯かっ喰らっちゃあ、「ここン家のミソ汁は味が薄いッぺや」とか云ってる。

 さて、ご心配のその――夜の方ですが、最初の晩、夫婦の寝所にふたッつ布団が並べて敷いてあるのを見て、徳二郎は生きた心地もしませんでしたが、お浜の方が、「オラ、一人じゃねえとゆっくり寝らんねえッぺ」って、隣の小部屋へ布団を持っていって高いびき。やれやれと安堵はしたものの、いつ何時、敵がその気ンなるかと思うとうなされる夜が続きます。

「アーア、大店の嫁ッこちゅうのは退屈なもんだね。なァんもやることがねえと、身体鈍っちまう。どれ、飯炊きでも手伝うッぺ」

「困ります、若旦那の奥様にそんなことをさせたら、あたしらが叱られてしまいます」

「いいッぺよォ、タダ飯喰わせてもらってるんだ、これぐれェ――それに、ここン家の喰いもンは出汁が薄くってなァ。まぁ、オラに任せッぺ」

 賄いの者が止めるのも聞かず、お浜が料理の支度をする。その日は蛤の吸い物が出ましたが、これに一箸つけまして、旦那もおかみさんも徳二郎までもが、おやっとお碗の中を覗き込んだ。

「こりゃあ、いつもと違うね。出汁よく出ていて旨いよ」

「まぁ、蛤の身も柔らかくて……」

「なァに、蛤ッちゅうのは、よぉ煮たほうが出汁がでっけど、煮すぎると身が固ァなって不味かッぺ。そいで捨て蛤ッちゅうてな、先に形の良くねえ奴で出汁だけェ取って、椀種にすンのは別にでっけえのさ剥き身にしてな、ちょいと葛ゥはたいて茹でて、こいつを碗に入れてさっきの出汁ィはるッぺや。そうすりゃ出汁もうめえし、身も柔けえまんまだ」

 なるほど旨いはずで、出汁をとった蛤はというと、これはちゃんと無駄にしないで自分や賄いの方で頂く。吸い物だけでなく、どれを食べても旨いので、それからはお浜が作るッぺ、と云やあ、じゃあお願いしようかとなり、最初は三日に一度くらいだったのが二日に一度となり、やがて毎日の食事をお浜に任せることになります。いやぁ、人間どこかひとつはいいところがあるもんだ、とお浜の評判も上がってきて――

「ねえねえ、亀どん。『蛤女房』って話、知ってるかい」

「知ってるよぉ、うちにいるもの」

「そうじゃなくて、昔話の『蛤女房』だよ。ある男の人ンとこへ、いきなり女の人が嫁にしてくれって来てさ、嫁にしてみると、毎日おいしい汁を作ってくれるんだって」

「うちとおんなじだい」

「そいで、どうしてこんなにおいしいんだろうってこっそり覗いて見たら、嫁さんはお料理する時、汁の鍋を跨いで、裾を捲くってシャーッ――」

「エ、エエ――!」

「それを見られた嫁さんは、もうこの家には居られないって、海に帰って蛤の姿に戻ったんだって」

「そいじゃ、あたいたちが喜んで飲んでたお味噌汁、ひょっとして、オ――」

「シーッ。だからさ、あたいたちもこっそり覗いて見ようよ」

 番頭の目を盗んで小僧二人、こっそり賄いの方へ覗きにいく。お浜はちょうど、水を汲んできたところで、

「あ、いたいた。これからお鍋でお湯ゥ沸かすとこだ」

「いつ跨ぐのかな」

 見ていると、お浜は水の入った桶を持ち上げようと、よっこいしょと腰を屈める。

「あっ、もう跨いだ」

「いよいよするかな」

 桶に手をかけ、力んだ途端、お浜のお尻が――プッ……

「エエッ、お味噌も入れンのォ」

 そんなわけはない。

「誰だァ、そこに居ンのは」

 小僧は慌てて逃げ出します。さて、その晩。いつもより手間のかかった料理がお膳にならびまして――

「今夜はちっとばかり、腕に縒りィかけたで――なに、そんな贅沢はしとらんから心配せんで。さあ、召し上がってけろ」

「このお椀の中身はなんだい?」

「海老真薯の吸いもンだァ。芝海老叩いて団子にして――もう時期も終えになるけンど、名残の蛤の剥き身ィ、中に仕込ンであるッぺ。さあ、徳二郎さんも遠慮せンで――やれ」

「あ、ああ……どうもこういうものは、あたしは初めてで……ほお、旨いもんだね。ああ、なるほど……海老の真薯の中に、蛤が入っている」

「伊勢屋の伊勢と云や、本来は伊勢海老だッぺが、まあ今日は小ッこいので我慢してもらって、そン中にお浜の蛤ィ入れて……伊勢屋ン中にこうして入れてもらった礼みてえなもンだ――そいじゃオラ、ちっと寒けがするで、先に休ませてもらうッぺ」

 お浜は早々に下がってしまう。明くる日となりまして、徳二郎が目を覚ますと隣の部屋はすっかり片付いており、お浜の身の回りのものなど、伊勢屋で用意したものはきちんと脇にまとめられている。おや、と思って賄いを覗きに行きましたがお浜は居らず、店へ出て行って――

「番頭さん、番頭さん。お浜を見なかったかい?」

「いえ、今朝はまだ……奥にはいらっしゃらないんですか」

「うん……それがね、どうも、家へ来るとき持ってた荷物も見当たらない――」

「お荷物も? ――おい、定吉、亀吉。お前たち、若奥様を見なかったかい」

「ぷっ、若奥様だって――ええ、若奥様でしたらお見かけしてませんが、居なくなったっていうなら、ひょっとして――」

「知ってるのかい」

「品川の海へ帰って蛤ンなったんじゃ」

「つまらないこと云ってないで――もう掃除はいいからお前たち、ちょいと一回り見ておいで」

 小僧を探しに行かせたが見つからない。夕べの様子もおかしかったし、なにかあったんじゃあなかろうかと心配をしておりますと、その日の昼過ぎ、一挺の真新しい駕籠が店の前へ停まります。一緒に来た、上品な態をした年配の女性が番頭に深々とお辞儀をし、

「伊勢屋の皆様に改めましてご挨拶を致しとうございます」

「あの――どちら様で……」

「浜でございます」

「浜? お浜……エエッ?」

 昨日まではなんの造作もないままに、海で採れたか山から掘り出したか、素材そのままゴロリと転がしておいたようなお浜でしたから、こうして身なりを整え、きちんと化粧を施すと見違えるよう。とはいえ、よく見れば確かにお浜で、若奥様がお戻りになられた、化けて戻られた――てんで、旦那、お内儀さん、徳二郎が揃って奥から飛び出して来る。

「改めまして御主人、奥様、そして徳二郎様にはお詫び申し上げます。これまで数々の御無礼をいたしましたが、すべてはお嬢様の為にと、わたくしの一存で成したこと。お嬢様にはなにひとつ罪はございません」

「お嬢様――?」

「はい、こちらに――」

 そう云ってお浜は駕籠の脇へ。そっと声をかけますと、中から白い手が覗きまして垂れへかかる。その指先にならんだ五枚の爪が桜貝のようで、はっと徳二郎は息を呑んだ。現れたのは間違いなく品川の浜で出会ったあの娘で、駕籠から降りたとたん、まるで光が差したみたいに店の中が明るくなって――

「徳二郎様、ずっと……お会いしとうございました」

 毎晩夢に描いていた本物を前にして、徳二郎は言葉もでない。小僧の定吉、亀吉なんぞはあんまりきれいなんでボーッとなって、大口開けたまんま突っ立っている。

「御父上様、御母上様には初めてお目にかかります。八重――と申します」

 幾分かの緊張や恥じらいがあるのか、ポッと頬が上気して、それがまたなんとも云えずに風情がある。そこへ持ってきて、生まれついての気品といったものが立ち居振る舞いに感じられ、

「こ、これはどうも……ええ、あたくしが主人の徳兵衛で、こっちに居りますのが家内でございまして、そっちが伜の徳二郎、その向こうが一番番頭で、あと二番、三番と控えまして――一同の者、揃いましてございます、へへェ」

 一家揃ってすっかり舞い上がっている。とにかく奥へと通しますと、まずはお浜が深々と頭を下げ、

「さてこの度のことで、皆様には申し上げねばならぬことがございます。実はお嬢様は、故あって縁をお切りになりましたのでお名前を口にすることはできませぬが、さる身分の高い御方のご落胤にございます。生涯、安楽に暮らせるだけの支度は整えていただけましたが、その代わり、けして表立って世に出てはならぬと申し渡され、わたしく一人を側仕えに、世間をはばかるよう今日まで暮らして参りました。

 お小さい頃よりお世話させていただき、やっと花の咲く頃となりましても、このような身では縁談のひとつもあるはずもなく、このままお寂しいままかと行き方を案じておりましたところ、品川の浜でこちらの徳二郎様と出会い、お嬢様も心動かされたご様子。いまさら武家町方の違いもなく、これもひとつの御縁かと考えておりましたところへ、あの蛤合わせの噂を聞き、徳二郎様の胸のうちも伝わりました。

 されど心配は、いままで身の回りの一切をわたくしがお世話してきたため、草書行書楷書の読み書き、漢詩をそらんじ、琴を奏で、茶道華道香道一通りは無論、馬、薙刀もこなしますが、家うちのことは不慣れゆえ、果して勤まりますものかどうか――そこでまあ、わたくしが先乗りとしてここへ参りまして呆れ返った不精を決め込み、いかにお嬢様が不慣れとは申せ、この振る舞いに比べればどれほどましかと思われるよう、ひたすらゴロ寝に精進する毎日を――」

「わたくしの為とは云え、お前のような働き者が日がな一日なにもせず、食べては寝るだけという辛い日々を堪え……よくぞ辛抱してくれました」

「いいえ、お嬢様、もったいない。日々の辛さに堪えかねて、つい賄いの手伝いなど致しましたこと、我ながらまことに情けないと恥じ入っております」

「よいのですよ、お浜。わたくしもお前の苦労に報いるために、お前の居ない間、下働きの婆やを一人雇い入れ、その方をお師匠様と仰いで炊事洗濯掃除に縫い物と、町家の女房一通りのことは習い覚えたつもりです。それはそれは厳しいお師匠様で、初日からいきなり、糠床に手を差し入れるという荒行を課せられ……けれどその甲斐あって、とうとうわたしく一人で夕餉のお膳を調えられるまでになりました」

「まあ、お見事。それでお味は?」

「いえ、胸が一杯でわたくしは一箸も……けれどお師匠様はおいしいと召し上がって下さいました。ただ、年寄りにはこれでも良いが、お若い殿方にお作りするのであれば、その……いま少し濃い目のお味の方がお好みではないかと……」

「いいえ、ご心配なく。この家の者はうす味に慣れておりますから」

「ええ、その――家は味噌や醤油を惜しんでいるわけではございませんで……まあまあ、こちらにもいろいろ行き届かぬところもございますし、そちらもあまり気負わずとも……あたくしどもとしましては、あなた様のような方が伜のところへ来ていただけるのでしたら、もうなにも文句はございません。なあ、お前」

「本当にもう――男の子はいくつになっても母親の面影を求めるとか申しますが……やっぱりねえ。わたしの若い頃にどことなく面差しが似て――」

 どことなく――と曖昧なところでお茶を濁して母親もうなずく。

「しばらくこちらへ住まわせて頂きましたお蔭で、徳二郎様をはじめ、御主人、奥様、お店の方々のお人柄も知ることができました。ここならばお嬢様をお任せしましても、きっと大事にしていただけることでしょう」

「お浜――お前は……?」

「わたくしの役目はここまででございます。これからはまあ、田舎にでも帰りましてのんびりと――」

「でもお前、確か身寄りはもうないと――」

「差し出がましいようではございますが――お浜殿はそう、前に作っていた
だいた吸い物の……捨て蛤でしたかな、まさにあのような役割をなさったわけで――なに、捨て蛤とは云っても、出汁を取ったからもう捨ててしまっても良いと云うものでもございませんで。まだ佃煮にでもなんでも……いやまあ――お浜殿には、花嫁の母御代わりということで、よろしければ、どこか近くに家をご用意させて頂きますが、いかがでしょう。お八重殿もその方がお心強いかと存じますが」

「ね、お浜、御父上様もこうおっしゃって下さっているのです。田舎へ帰るなどと云わずにわたくしの側へ居ておくれ。どうかわたくしに、これまでの恩返しをさせておくれ」

「恩返しなどもったいない。けれどまだ、わたくしでお役に立てることがございますのなら……御主人、本当にお言葉に甘えてもよろしいのでございますか」

「ええ、ええ、もちろんでございますとも」

「それでしたら……たまに寄せてもらって飯でも作るッぺか」

 こうして話はまとまり、吉日を選びまして、改めて八重は伊勢屋へとやって参ります。ここで終わればめでたしめでたしなんですが――

 さて、最初の晩のこと。夫婦の寝所に布団が二組。今度は隣に寝るのがお浜と違い、若く美しく、なによりも惚れた相手の八重ですから、徳二郎は夢見心地。一方の八重も、うれしさもあり、恥じらいもありで……

 そんな時にふと、つまらないことが頭に浮かぶ。偽りとは申しましても、お浜はしばらくの間、徳二郎の嫁としてこの家に居りましたわけで……まあ、嫉妬とか焼き餅とかとは違うんでしょうが、爪の脇がちょっとささくれているだけで、なんとなく気になって触らずにはいられないというのと同じで――まさか二人の間にそんなことはないだろうと思いつつ――

「あの……つまらぬことをお尋ねするようですが――もしやその……寝所にお浜を入れたりなどは……」

 云われた徳二郎、そんなことは小指の先ほども考えたことはありませんから、寝所にお浜と聞いて真っ先に頭に浮かんだのは、あの蛤の入った海老真薯の吸い物のことで――

「真薯におハマ……ああ、入れた、入れた」

「い、入れた? そ、それで徳二郎様は――」

「いやぁ、盛りはとっくに過ぎて、名残のもんだったがね、わたしもああいうのは初めてで、どう手をつけたものかと思ったけれど、いざ味わってみるとこれがなかなか結構なもので――幸い近所に住んでくれることだし、これからもちょいちょい頼んでみようかと――」

 その夜、女房は蛤となって、一晩中口を閉じたままだった。

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