友だちがいない
いきなりですが「私には友だちがいません」。
昔はいました。いや、いると思っていました。
私は田舎育ちです。ですから、小学校からではなく、もう保育園の頃からお互いを知っていました。そして同い年の知り合いが、ずっといたわけです。
しかし、高校生の時「いじめ」に遭い、学校に行けなくなり、その後中退しました。
そして、それ以来「友だち」はひとりもいなくなりました。ひとりも、です。
当時は現在ほど携帯やネットも普及していませんでしたが、狭い田舎町です。無論固定電話はありました。
けれど、訪ねてくる人もいなければ、電話をくれる人もいませんでした。「ひとり」もいませんでした。
「ああ、私は友だちがいないんだ」と気づくまでそんなに時間はかかりませんでした。正直、かなりショックでした。
別にガリガリに教育熱心な土地柄でもなかったのですが、「脱落者」「落ちこぼれ」に興味はなかったのか、もう「死んだ人」扱いの様でした。それは今も続いています。
もう、あれから10年以上経ちますが、いまだに何の連絡もありません。こちらからもしていませんが。
同窓会にも一度も出たことがありません。出ようにも、案内すら一度も届いていないのですが…。
当時の担任が、ご健在なのかも知る術がありません。そういえば担任からも当時なにも連絡はありませんでした。
そんなわけで「私には友だちからいません」。
これからもいないでしょう。できないでしょう。作り方がわかりません。それに怖いです。また、忘れ去られるのが。
いまは働いていますから、人との接触がないわけではありません。けれど、深くは入り込めません。入り込みたいとも思いません。普通に人間関係が円滑に流れていればそれで満足です。
寂しくはないか?
わかりません。けれど「友だち」がいれば寂しさから解放されるのか?わかりません。少なくとも私にはわかりません。
これからも、こうして生きていくのだろうか?
それもわかりません。わかるわけがありません。人生なんて、そんなものでしょう?
わかるのは生まれ育ったあの田舎町に、もう足を踏み入れることはないという事です。父や祖父母の墓があり、身内もまだ暮らしていますが訪れることはないでしょう。
夏目漱石の「こころ」に出てくる「先生」に私が強くシンパシーを感じるのは、そんなところです。あの「先生」は叔父に財産を誤魔化されたのでしたか。そして人間全般に強い不信感を抱く様になったのですよね。
私は誤魔化されるような財産はありませんでしたが、あの頃から今に至るまでずっと苦しんでいます。怒ってもいます。ひょっとしたら、単純なすれ違いや勘違いだったかもしれません。それでも、一度も連絡のない事実は動かせない筈です。
かつて「友だち」と思っていた人々からの仕打ちに傷ついています。そして、この傷は癒やされることはないでしょう。
この傷と共にこれからも生きていきます。それが私の細やかな復讐であり、「友だち」を作れなかった自分自身への「罰」だと思って。
今、このブログを読んでくださっている方へ。
大変生き辛い世の中です。
私が言っても説得力はありませんが、
いまいる「友だち」を大切にしてください。
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